山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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祢津下の城

2018-12-17 21:44:57 | 山城ー信州
下畑下の城は、都合により下畑城の記事の中に紹介しております。

祢津下の城は長野県東御市祢津(旧東部町)にあります。

「祢津下の城地図」

上信越自動車道の東部湯の丸ICから北に見える山です。

地方道4号線から見た城山

西宮公民館に祢津下の城の案内が出ています。

案内から城山の南麓に西宮公園があります。ここに駐車して東回りに歩いてゆくと

登り口に着きます。

東御市市街

縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より、南下から本丸に登っています。

本丸

本丸、南から見ています。本丸は四方を土塁で囲んでいます。

俯瞰図は「信濃の山城と館」上田・小県編より

祢津氏について(根津とも表記する)
平安・鎌倉・南北朝期
根津氏は滋野三家の中でも、とりわけ武勇に優れたものが多く、各年代軍記物語等での記載がある。平安期には、初代根津神平道直が平安時代末期の保元の乱・平治の乱で源義朝に従い活躍した記載があり、源平合戦(治承・寿永の乱)では、源義仲の挙兵に際し、香坂(高坂)氏の祖となった根津次郎貞行、根津三郎信貞が随伴し横田河原の戦いに参戦した。
また、1190年の源頼朝上洛の際には二代当主貞直の嫡子と思われる根津次郎宗直・小次郎宗道が活躍したことや承久の乱にも根津三郎が参陣したことなどが『吾妻鏡』などにも記載されている。
また、次郎宗直は鷹匠としてもその名を馳せ、功績がみとめられ美濃守にも任官している。
鎌倉幕府滅亡後の中先代の乱では北条時行を擁して諏訪氏、海野氏、望月氏とともに挙兵した。南北朝時代には、祢津助頼(祢津掃部助)や祢津時直(祢津越中守)らが新田義貞に属して延元3年/暦応元年 (1338年) の越前国藤島の戦いに参戦した。
また、観応元年(1350年)に起こった観応の擾乱では、祢津行貞(祢津小次郎)、祢津宗貞(祢津孫次郎)が足利直義方にくみして戦い、そののちに足利義詮に出仕していることが記載されている。『太平記』では「根津小次郎」が「武勇すぐれたるもの」として登場し、顔に刀傷を付け大胆にも敵将である足利尊氏の首を狙い、本陣内に突入し「あわや」という豪快な逸話が描かれている。
宗貞は信濃国における南朝方かつ足利直義派の主将であった諏訪直頼の代官となり、信濃南朝方の主力として武蔵野合戦(小手指原の戦いや笛吹峠の戦い)、桔梗ヶ原の戦いなどで滋野一族をはじめとする南朝方軍勢の指揮を執り、信濃宮宗良親王を軍事面で支えて活躍した。
また延文5年(1360年)には紀伊国竜門山で南朝方として戦ったが、徐々に幕府方である村上氏の勢力に圧迫されはじめ、南朝が衰微すると北朝に従った。
根津宗貞は合戦の折、代々の家宝である「橋返りの太刀」を引き抜き、常に先陣を切って戦ったと伝えられている。 ウィキペディアより







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