山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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羽沢城(詰め丸)

2015-08-16 19:05:18 | 山城ー上州
羽沢城

羽沢城址は南牧村資料館になっています。(市川家の資料が若干あり。)

資料館の裏手に詰め丸の登り道があります。

登り道から墓地側に生息する笹薮を越えて尾根に着けば堀切があります。

堀切を北尾根から見ています。

堀切の北側に鞍部

比高80mくらいの山ですが少々勾配があります。

北尾根腰曲輪

頂部にまで登って来ると東腰曲輪

縄張り図は「境目の山城と館」上野編、生涯学習センター(南牧資料館)

腰曲輪から見て、切岸を手で斬り落としたのがよくわかります。

切岸の上に本丸

本丸から細い北尾根、搦め手でいざとなれば深く山中へ

城主 近くにあった墓を紹介しましたが、市川五郎兵衛は市川氏本家の砥沢城主、市川右近介の弟右馬介真治で、右近介が若死にしたために、その子久乗5歳で幼少のために後見人を務めていて、羽沢城主であったという。市川市の出は甲州の市川で武田の支配下にあった氏族である。天文二十二年(1553)国峰城主小幡憲重(信貞)は小幡家の宗家であるが、留守中に一族の宇田城主小幡図書助に国峰城を奪われ甲州武田家を頼って逃れたため、武田信玄は小幡憲重に信州佐久郡大日方に五千貫の地を与え、上州南牧に砦を築いて憲重父子を入れ上州侵攻の橋頭堡にする。この砦が羽沢城と言われ、実際は新規の築城ではなく、市川氏の館城を当てたらしい。従ってこの南牧の谷は市川氏・小幡氏ともに武田氏の支配下にあり、ここを拠点として高田氏の攻略や国峰城の奪還が進めたとされる。「境目の山城と館」上野編より
土屋山城守高久が勝頼の嫡子信勝を連れて、南牧の奥深い谷間を支配下とする市川氏を頼ったのは、このような背景があったためと思います


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