山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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根知城②

2016-07-12 19:53:13 | 山城ー越後
真田丸絵図新発見情報

松江市は12日、戦国武将の真田信繁(幸村)が1614年の大坂冬の陣で大坂城の南に築いたとりで「真田丸」の新たな絵図を発見したと発表した。
 松江歴史館が所蔵する絵図集「極秘諸国城図」の1枚。絵図は縦28センチ、横41センチの和紙に描かれ、城の外側を意味する「惣構(そうがまえ)堀」の記述があるなど、これまでに見つかった真田丸の史料にはなかった情報が確認された。
 今年2月、甲府城(甲府市)の調査研究チームが、同館学芸員と閲覧した際に発見した。惣構堀に加え、地上から堀に降りる道が描かれている点や、堀と崖の描写がはっきりしている点などが新情報という。描き手や描かれた時期については特定できていない。
 絵図は、大坂冬の陣が初陣で、真田丸攻めにも加わったとされる初代松江藩主・松平直政に関する展示とともに同館で9月16日から公開される。




本丸へ


殿屋敷北下帯曲輪(仮に)

虎口を登り

殿屋敷北曲輪

殿屋敷(二の丸)、どうしようもなく薮の中

本丸虎口

本丸、キャンプの小屋が建っています。廃屋らしく排除しないのか?

本丸東側の山々

縄張り図から②が本丸なのか?と多少疑問を持っています。

薮が酷く、いきなり詰め丸です。本来は、縄張り図のように本丸の後にもう一つ峰を登らなければ詰め丸になりません。

糸魚川市根知川沿いの集落を見下ろして山を下りました。

義清は根知城主となり、嫡男の国清とともに上杉家臣となる。国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えられている。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、義清は信玄と名前を変えた晴信と再びまみえ、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとされる。
元亀4年(1573年)1月1日、越後根知城にて病死。享年73。仇敵・信玄の死の5ヶ月前であった。日滝寺に葬られたというが、その墓所については根小屋地内の安福寺とも言われ、魚沼郡赤沢の説もある。坂城町田町の出浦家墓所中には後年(天正4年、慶長4年、没後百年など数説あり)分骨されたという墓所が残る。
天正10年(1582年)に武田勝頼が自害し、甲斐武田氏は滅亡する。義清の嫡男・国清は8月5日に海津城代に任命され、村上氏は旧領に復帰した。

根小屋城、上城山城、栗山城からなる城で、一般的には標高320mに位置する根小屋城を「根知城」と呼ぶ。根小屋城は根知城の中心的な役割をしており、郭跡17、削平地201、堀切16、竪堀15からなる大規模な遺構となっている。西側に姫川が、北側から東側にかけて根知川が流れており、築城年代は定かでないが、上杉謙信が武田軍の侵攻に備えて築いた山城であるとされている。1565年、謙信が村上義清を城主に定めた。その後、根知城の警備を厳重にするようにと、幾たびか文書を発給しているが、これは根知城が信越の境の要の地であったため、根知城を整備したものと思われる。村上義清の死後は御館の乱を経て仁科盛信、西方房家など幾たびか城主が変わり、1598年には堀清重が城主となった。これは堀氏が春日山城主となったためである。そして1599年の上杉遺民一揆の際、堀氏は根知城を廃し、1601年に清崎城を築いたとされている。 ウィキペディアより



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