喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

この歳になり もう一度やってみたい事。その1。

2019-07-11 10:24:19 | 日記
 私は 遊び事大好き人間、釣りもすれば
ゴルフも行う。
カラオケも機会があれば謡にも行く。

 釣りは色々な釣りを行ってきました。
過去には渓流釣りはアユの友釣り始め
ヤマメ釣りに没頭、 この時期、近場は
神崎郡(今は神河町)の落谷川、山崎郡の
揖保川、そして佐用町の千種川と3ケ所の
年券を平成の5年頃まで買っていました。
昔は5000円前後だった年券が年々
値上がりして、最終的には12000円
程度に値上がりしていました。

 釣り人口も増え、そして釣り具も好くなり
当初硝子ロッドが、カーボンロッドになりま
した。
 私が教わったのは18歳頃だったと
思います。
解禁日は当時6月の終わりか7月の始め
でした。

それまでの期間は、当時 禁漁期間のなかった
ヤマメ釣りに行っていました。
ホームコースは村岡町の矢田川水系上流。
あのイヌワシで有名な 小代渓谷辺りでした。
当時、山田地区とか言ったか?
全但バスの最終停留所が山田と言ったと
記憶していますが、渓流を遡って わき道を
それて枝になっている細い渓流を辿っていく
と、廃村になった村が有った事を思い出し
ます。
 十数年後には木が生い茂り、建物は
朽ち果て、今では面影も無くなっていますが

 当時、私に渓流釣りを教えてくれた
お師匠さんは、繊維加工場の上司で工場長
だった森脇さん。
歳は一回りは違いましたが、毎週のように
一緒にさせていただきました。


 深山幽谷に分け入り、堰堤の滝の下で
自然に同化したかのように無心で釣って
いました。
不思議と そうすると殺気が無くなっている
のか、面白いようにヤマメが釣れたことを
思い出します。
3桁釣りもしました。魚籠が重くなり、一旦
車を停めている場所へ戻り、魚籠を軽くして
再度釣りを再開したものです。

 あれは昭和45年頃、私が26歳頃でした。
まだ独身で親父も健在だったのでした。が、
翌年に親父は持病が元で亡くなりました。
ヤマメは当時から幻の魚と言われていましたが
私は川魚が苦手で、釣った魚は他人に上げたり
家の飼い猫の餌にしていました。
親父が亡くなった翌年に 今の妻と結婚した
のですが、妻もまた、食べなれないヤマメは
余り口にしなかったことを思い出します。

その内、それを知った、染色の工場長をして
いた藤井氏が「まっさん。ヤマメは塩焼き
だけでない。3枚に開いて天婦羅にしたり
ムニエルにすると美味しく頂ける」。と
聞き、妻に伝え、その後は 美味しく頂く
事にしましたが、
 アユも一緒で 釣ってきたアユは他人に
やるばかりでした。

 そして 昭和50年後半に 磯釣りは
初めてではなかったのですが、遠ざかって
居たころ、蒲江の笹倉吉男氏がササクラ
釣具店を開業し始めました。
あれは昭和53年頃だったか?店に行くと
「まっさん。日本海でヒラマサが釣れた」。
と言います。
「ヒラマサって?」と言うと、「ハマチや
ブリに似ているが、とても引きの強い魚で
以前は餌に川エビなどを1升ほど持って行って
撒きえさをして、年に数匹しか釣れない魚だ」。
と説明を受け、そしてその頃 オキアミが
出始めたのですが、捕鯨が難しくなり、捕鯨船が
クジラの代わりにたんぱく質の多いオキアミを
持ち帰ったのが、日本人の口に合わず釣り
餌に代わったのだとか?
 それを持って西脇の日野団地に住んでいる
3人が 柴山のオオタボと言う地磯に行き
数匹釣って持ち帰り、ササクラ釣り具に
立ち寄り 見せたとの事。
 吉男氏は一目見て「これはヒラマサに
違いない」。と言ったそう。
ヒラマサは見た目はハマチやブリと変わらない
が、味が違う。美味しいという。

 早速、その年からヤマメやアユを辞め、
ヒラマサ釣りに没頭しました。
竿はヒラソと言うオリンピックとか言う
メーカーが出していた固めの5.4m竿。
リールはアブと言う スェーデン製の
両軸リール。
一式 導入するのに20万円は使った
でしょう。
毎週のように通いました。

 その後も渓流釣りも行きましたが回数は
少なくなり、と、言うのも アクセスが
よくなり、遠坂峠は曲がりくねった
山道が その下のトンネルを掘ったのが
その頃。街から釣り雑誌等を見て行くものが
増えてきた渓流釣りの妙味がなくなって
来たからです。

 その後は海釣りに没頭していくことに
なります。