2013年06月09日 本宮駅 => 五百川駅 歩いた距離 約4.6Km
本宮駅で20分の休憩を取る。

待合室に客のいないことを確かめてからシューズを脱いで裸足になる。
ディパックからペットボトルを出して水をゴクゴクと飲む。
水が無くなったら買えばよいのだ。
日本という国は便利な国で、よほど人里離れたところでない限り自動販売機があるのだ。
このような国はほかにはないだろう。誇ってよいと思う。
本宮駅を後にして歩き出す。
駅前のモニュメントも撮影する。

駅を振り返って写真を撮る。

あいかわらずマンホールの写真も撮る。

マンホールの蓋というものは目立たない存在だ。
機能という面から見ると美しくデザインする必要はないはずである。
マンホールの蓋を美しくデザインするのは日本だけなのだろうか?
他の国でこのようにデザインされたマンホールの蓋というのはあるのだろうか?
などと、歩いているといろんなことを考えてしまう。
哲学的なことを考えたり、一句浮かんだりとならないところが残念なところだが。
土蔵と古民家がある。

町中を歩いていると「本宮映画劇場」の建物があった。

使われなくなって久しいのだろう、いまにも崩れそうな建物に哀愁を感じる。
さらに歩いていくと「普度供養塔」というのがあった。

奥州街道と会津街道の分岐するところに建ててあったものだそうだ。

「右 あい津 左 江戸」と書いてあるのだが、こんなに大雑把な道しるべを頼りに昔の人は歩いていたのである。
いまではGPSを使うスマートフォンやカーナビを使ってさえも道に迷うこともあるというのに。
ひたすら郡山市を目指して県道8号線を南下する。
こんどはこのようなものがあった。

「銅板工芸品 匠」とある。

看板用などの銅板を作る会社のようだ。
看板だけでなくドアの飾りなども作っているのだなと判る。
さらに田んぼの脇にはこのようなものがあった。

このような物に関する知識は無いのだが、わたしが思うにこれは田の神様への祈りではないだろうか。
農作業の機械化が進み、田植えから収穫まで機械で行う現代でも稲の生育は天候しだいである。
わたしが小学生だったころは将来は天候を自在に操れるような時代が来るといわれていたものだ。
当時は地球温暖化などという言葉も無かった。
なにしろわたしの家の近所で自動車を持っているのはお医者さんだけだった。
それが今では一家で2台3台車を持つのが当たり前。
温暖化が進むのは当然である。
いまだに屋根の補修が済んでいないお宅もある。

福島県は東北大震災の地震、津波に加えて原発事故の被害もあり、まさに三重苦状態だ。
晴れた日は大好きだが強い日差しはつらい。
雨が降れば晴れろといい、晴れれば暑いと文句を言う。
まことに勝手なものだが天候だけはどうにもならない。


しばらく歩いて踏み切りにさしかかる、ここにも踏み切りの表示は無いがすぐ近くに「安達第2荒井」とあった。

線路脇の農道を歩く。

日差しをさえぎるものが無いから暑くて大変だ。

福島駅行きの普通列車がすぐ脇を通っていく。

キロポストがある。238キロであった。

遠くにアサヒビールの工場が見えてきた。

わたしは地図は持ってきているのだが現地の観光情報を事前に調べるというようなことはしていない。
スマートフォンも持っていないので、旅先の観光情報は駅にあるパンフレットや観光案内のボードだけが情報源である。
五百川駅近くにアサヒビールの工場があることもここへ来るまでまったく知らなかった。
と、歩いていくと「第一荒井村道踏切」があった。

おや、ここはしっかりと踏切名も距離も237K179Mと表示されているではないか。
ますます表示を消してある踏切があることがミステリーである。
緑色で{52」とあるのはなんだろう?
東京からの踏み切りの数?それとも管区内でつけている番号なのだろうか。
五百川駅が見えてきた。

11時45分に五百川駅に到着。

ずいぶんとシンプルな無人駅である。


3面あるプラットホームは2面だけしか使われていない。

ずいぶんと長いプラットホームである。
その昔、まだ蒸気機関車が走っていたころは長い編成の列車が多かったな。
長いプラットホームはそのころの名残なのだろう。
この駅には時計が無かったので時計の撮影はできなかった。

本宮駅で20分の休憩を取る。

待合室に客のいないことを確かめてからシューズを脱いで裸足になる。
ディパックからペットボトルを出して水をゴクゴクと飲む。
水が無くなったら買えばよいのだ。
日本という国は便利な国で、よほど人里離れたところでない限り自動販売機があるのだ。
このような国はほかにはないだろう。誇ってよいと思う。
本宮駅を後にして歩き出す。
駅前のモニュメントも撮影する。

駅を振り返って写真を撮る。

あいかわらずマンホールの写真も撮る。

マンホールの蓋というものは目立たない存在だ。
機能という面から見ると美しくデザインする必要はないはずである。
マンホールの蓋を美しくデザインするのは日本だけなのだろうか?
他の国でこのようにデザインされたマンホールの蓋というのはあるのだろうか?
などと、歩いているといろんなことを考えてしまう。
哲学的なことを考えたり、一句浮かんだりとならないところが残念なところだが。
土蔵と古民家がある。

町中を歩いていると「本宮映画劇場」の建物があった。

使われなくなって久しいのだろう、いまにも崩れそうな建物に哀愁を感じる。
さらに歩いていくと「普度供養塔」というのがあった。

奥州街道と会津街道の分岐するところに建ててあったものだそうだ。

「右 あい津 左 江戸」と書いてあるのだが、こんなに大雑把な道しるべを頼りに昔の人は歩いていたのである。
いまではGPSを使うスマートフォンやカーナビを使ってさえも道に迷うこともあるというのに。
ひたすら郡山市を目指して県道8号線を南下する。
こんどはこのようなものがあった。

「銅板工芸品 匠」とある。

看板用などの銅板を作る会社のようだ。
看板だけでなくドアの飾りなども作っているのだなと判る。
さらに田んぼの脇にはこのようなものがあった。

このような物に関する知識は無いのだが、わたしが思うにこれは田の神様への祈りではないだろうか。
農作業の機械化が進み、田植えから収穫まで機械で行う現代でも稲の生育は天候しだいである。
わたしが小学生だったころは将来は天候を自在に操れるような時代が来るといわれていたものだ。
当時は地球温暖化などという言葉も無かった。
なにしろわたしの家の近所で自動車を持っているのはお医者さんだけだった。
それが今では一家で2台3台車を持つのが当たり前。
温暖化が進むのは当然である。
いまだに屋根の補修が済んでいないお宅もある。

福島県は東北大震災の地震、津波に加えて原発事故の被害もあり、まさに三重苦状態だ。
晴れた日は大好きだが強い日差しはつらい。
雨が降れば晴れろといい、晴れれば暑いと文句を言う。
まことに勝手なものだが天候だけはどうにもならない。


しばらく歩いて踏み切りにさしかかる、ここにも踏み切りの表示は無いがすぐ近くに「安達第2荒井」とあった。

線路脇の農道を歩く。

日差しをさえぎるものが無いから暑くて大変だ。

福島駅行きの普通列車がすぐ脇を通っていく。

キロポストがある。238キロであった。

遠くにアサヒビールの工場が見えてきた。

わたしは地図は持ってきているのだが現地の観光情報を事前に調べるというようなことはしていない。
スマートフォンも持っていないので、旅先の観光情報は駅にあるパンフレットや観光案内のボードだけが情報源である。
五百川駅近くにアサヒビールの工場があることもここへ来るまでまったく知らなかった。
と、歩いていくと「第一荒井村道踏切」があった。

おや、ここはしっかりと踏切名も距離も237K179Mと表示されているではないか。
ますます表示を消してある踏切があることがミステリーである。
緑色で{52」とあるのはなんだろう?
東京からの踏み切りの数?それとも管区内でつけている番号なのだろうか。
五百川駅が見えてきた。

11時45分に五百川駅に到着。

ずいぶんとシンプルな無人駅である。


3面あるプラットホームは2面だけしか使われていない。

ずいぶんと長いプラットホームである。
その昔、まだ蒸気機関車が走っていたころは長い編成の列車が多かったな。
長いプラットホームはそのころの名残なのだろう。
この駅には時計が無かったので時計の撮影はできなかった。
