釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

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及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:ゲーテの言葉

2013-01-03 13:31:46 | その他の雑談
森鴎外の『妄想』というエッセーに、ゲーテの言葉が引用されている。ドイツ語がドイツ人より達者と言われた鴎外であるから鴎外自身の日本語訳だろう。

『いかにして、人は己を知ることを得(う)べきか。省察をもってしては決して能(あた)わざらん。されど行為をもってもってしてはあるいはよくせん。汝の義務を果たさんと試みよ。やがては汝の価値を知らん。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。』

鴎外は『妄想』で、自らの精神史を省みて、自らの死についての思いを語っている。
この『妄想』は鴎外が49歳のとき書かれていて、60歳で亡くなっている。だから鴎外の晩年の言わば独白と言ってよいだろう。

この『妄想』で、鴎外は既に『死を怖れもせず、死にあこがれもせず、自分は人生の下り坂を下って行く。』と書き、更に『その下り果てたところが死だいうことを知っている。』と言い切っている。

そして、死が『自我』の消滅ならば、『西洋人の言う自我』を鴎外が理解出来ないことに対して『残念だと思うと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかともいわれのない寂しさを覚える。』と書いている。

こういう文脈の中で、上記のゲーテの言葉が『妄想』で引用されている。

今日においては鴎外の感じていた『痛切な空虚さ』を理解するのは大変難しいことだと思う。歴史的にもそうだし、知的深度においても、今日の我々凡人たちには、鴎外の孤独がいかばかりのものであったかは先ず理解できないだろうと私は思う。

上記のゲーテの言葉引用の直後に鴎外は以下のように書いている。

『日の要求を義務として、それを果たして行く。これはちょうど現在の事実をないがしろにする反対であろう。自分はどうしてそういう境地に身をおくことをことができないのだろう。』と。

***
ここから、私は鴎外の『妄想』から離れてゲーテの言葉を考えてみる。
『汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。』を考えてみる。
***
私の部屋の窓から隣接した農家の畑がよく見える。私は、時々、その農家の人たちが畑仕事をしているのを見かける。時には暑い日も、あるいは寒い日も、その人たちは黙々として畑仕事をしている。そういう姿を見ていると、ゲーテの言葉が身にしみて理解できるような気がしてくる。この人たちは、まさに『汝の義務を果た』しているのであり、それのみが、この人たちの『日の要求』であって、断じて『省察』などではなく、『行為』以外のなにものでもない。この人たちは己を知っているのだ。

私はどうか? 労働とは、およそ無縁な、又、省察とは更に無縁なPC遊びに呆けている。要するに私はゲーテの言う『行為』とは、およそ無縁な生活をしている。つまり『日の要求』が私は皆無であり、従って『汝の義務』も果たしていない。果たすべき『日の要求』が根本から間違っているのだ。己を知り得ないのは当然といえる。今更言つてもせんないことである。しかしながら鴎外とは桁違いの次元の低さの私の『空虚さ』ではある。
***
『いかにして、人は己を知ることを得(う)べきか。省察をもってしては決して能(あた)わざらん。されど行為をもってもってしてはあるいはよくせん。汝の義務を果たさんと試みよ。やがては汝の価値を知らん。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。』

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