釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

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雑談:映画 『ベルリン天使の詩』

2012-03-09 11:37:12 | その他の雑談
パスカルに有名な警句がある。いわく、

『人間は悪魔でも天使でもない。しかし、天使にとしてふるまおうとすれば、人間は悪魔に代わる』

勿論、この警句の訳はいろいろなバージョンがあるだろう。しかし私は上の訳が気に入っている。

人類の連綿と続く暗澹たる闇の歴史、特にホロコーストという悪夢を見せつけられれば
(例えばアラン・レネの映画『夜と霧』等)、このパスカルの警句が如何に正鵠を得たものか思い知らされるだろう。

各々方よ、決して忘れてはならない。この世のウサン臭いモノは・・・天使、悪魔、あるいはナントカ霊の数々・・・なのだ。

こいつらは名を変え品(しな)を変え、変幻自在に人類を欺け続けている。
『幸福』という名の商品を売りつける実は死の商人なのだ。
***
ところがだ。珍しいことに、天使をやめたおじさん、がいた。
天使の『永遠の存在』に、うんざりしたおじさん、がいた。

ついでに言うと、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』の『作家』も、『永遠の存在』を軽蔑しきっていた。 この『作家』は、こう吐き捨てるように言うのを私は聞いた。
『永遠(の存在)だと!! 冗談じゃぁないぜ!!』

ここで練習問題。 『永遠の存在』が如何に惨めなことかの例を挙げよ。

一つの名回答をお教えしよう。 便所の造花がそれだ。
それがいかに惨めかは多言を要しないだろう。蜘蛛の巣がかかり、ゴミだらけの造花でも永遠に存在しなければならない。 なんとう虚しさだろう。

しすし、この虚しさを凝視した日本人がいた。世阿弥だ。
   『花は散るからこそ美しい』。 
この言葉には『永遠の存在』の虚しさを凝視している。

かの天使のおじさんは、以下のようなものを見るにつけ『永遠の存在』の虚しさを感じていた。

風の舞う木の葉。 流れゆく川。 ゆっくりと動いていく空の雲。
黄昏(たそがれ)てゆくベルリンの街。  やわらかい夕風に髪をなびかせる女性。
些細なことであれ嘆き悲しむ人間たちの姿。
何を苦にしたかビルから飛び降り自殺する若者。

そもそも天使には苦悩など無い。天使には悩みさえない・・・(なんという滑稽さよ)
流れゆく川のながれや、黄昏の夕日の移ろい・・・という時間の流れも哀しさも天使は知らない。

天使のおじさんは、つくづく天使が虚しく思うようになった。
『永遠の存在』にウンザリしてきたのだった。

このおじさんは、サーカスの舞姫の人間の女性に恋するようになった。
天使は人に恋してはならないことになっているらしい。
おじさんは『永遠の存在』の天使をやめることにした。
***
この映画はモノクロームで始まるが、このおじさんが天使をやめ人間になるところから、カラーに変わる。ここにヴイム・ベンダースのメッセージがある。

天使は永遠かもしれないが、彼らには世界は実は灰色一色の世界だということ。
天使は苦悩はないだろうが、結局のところ、苦悩から喜びへという感激も無いということ。

一方、限りある命ある人間は苦悩には満ちているが、苦悩から喜びへの感激も知っているし、この世には、さまざまな色があることも知っている。命が限りがあるからこそ、そのような感激も深く、世界の色も鮮やかなのだ。

人間は、ものが移ろうことの悲しみ哀しみ愛(かな)しみも知っている。
なぜなら、自分たちは永遠ではなく限りがあることを知っているからだ。

天使は淋しさは知らないだろう。なぜなら彼らの『幸福』しか知らないだろうから。
『幸福』しか知らないということは結局何も知らないと同じことなのだ。

しかし人間は知っている。淋しさのなんたるかを知っている。だからこそ涙を通して見た夕焼けの美しさも知っている。
***
この映画は人間賛歌の映画だ。 一貫した、いわゆるストーリーはない。
映像による詩と確かに言える映画であり、私も最も好きな映画の一つだ。

最後に忘れてはならないのは、ユルゲン・クニーパーのBGM。
実は、この映画で最も私が気に入っているのは、このBGMだ。おそらく演奏はチェロだと思う。

そして、ピーター・フォークに合掌。( コロンボさん、いい役してましたね。)。

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