思索は先週から続いています。
神仏混淆の仏教的思想からは、“本来無自性”であると書きました。
ですが純粋神道の思想からはどうでしょう?
***
語源的に見ると、日本においても火(ひ)は日(ひ)であり、また霊(ひ)でもあります。
原初の神名“高皇産霊=たかみむすひ”“神皇産霊=かみむすひ”、また“直霊=なおひ”等、
古語では“霊”を“ひ”と読ませる例が多く見られるのです。
日本人の意識の古層においても、これら三つは相通じる性質を持つものと考えられていたのだと思います。
精神が“火”のイメージを持つとしたら、
西洋の近代的精神において、それは神から盗まれた人工物であり、“原罪”でありながらも誇らしい…
人間の尊厳を示すものといえます。
対して、日本の“火”は、神から盗まれたものではなく、神から生まれたもの。
自然から分けられた自然の一部、というイメージを伴うと思います。
(余談ですが、プロメテウスの火とエデンのリンゴの間には共通の印象があると思います。
ルネサンスにおけるキリスト教からギリシャ・ローマ的なものへの回帰には
エデンのリンゴからプロメテウスの火へ、という画期的なイメージ転換があったのでは、と
ただ、伝統的なキリスト教においては、精神の火はキリストから与えられる、という側面を持つようです
カトリックにおいては、キリストの火によって人々が照らされるのであり、
プロテスタントにおいては、個人に与えられた火が各々で闇夜を照らすのではないかと。)
***
ユング的には、“自我”というのは、“わたしがわたしである、という意識”であるそうです。
(船井哲夫『心を読み解くユング心理学』)
神道において、
“宇宙の根本意識(この場合はアマテラスではなく、アメノミナカヌシになります)”から
個人に分けられた健康な霊のことを“直霊”と呼びますが。
直霊は敬うべき神の一部であって、
“わたしがわたしである”ということからは些か離れていると言うべきでしょう。
直霊は、四魂、と呼ばれる人の精神作用全体を統括します。
つまり、神道における自分、とは、神の一部によって統括された精神作用、ということができます。
自我意識ではなく、精神作用を個人と見る。
宇宙や自然の“働き”すなわち作用自体を神とみる神道の思想と、やはり相通じるものがあります。
健康な状態の分霊は“直霊”と呼ばれますが、健康でない分霊を“曲霊(まがつひ)”といいます。
神の分霊をいただく人間には、その分霊を健康な状態に保つ義務がありますし、
健康な分霊によって精神を作用させることが大切になります。
つまり、神道では、“わたしがわたしである”というような事は考えない。
とにかく神を敬い、直霊に感謝し、現実において精神を作用させることが大切で、結果は後からついてくる、と。
***
ユング心理学では、意識の成熟過程において、
内界で起こる不安や葛藤さえも、外界に投影することで解決していくタイプを、“外向型”とよびますが。
神道というのは徹底的に外向きな宗教である、と考えることができそうです。
瞑想や観想を修行の一手法とする仏教は、どちらかといえば内向的な宗教と考えられます。
ただ、“わたしがわたしである”ことを意識の拠り所にしない、という点では共通したものであり。
長い歴史の中で、この二つが結びつき補完しあうことによって、日本人の精神構造を作り上げてきたのではないか、と
今のところ考えています。
川面凡児による魂の構造『古神道の本』学研
神仏混淆の仏教的思想からは、“本来無自性”であると書きました。
ですが純粋神道の思想からはどうでしょう?
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語源的に見ると、日本においても火(ひ)は日(ひ)であり、また霊(ひ)でもあります。
原初の神名“高皇産霊=たかみむすひ”“神皇産霊=かみむすひ”、また“直霊=なおひ”等、
古語では“霊”を“ひ”と読ませる例が多く見られるのです。
日本人の意識の古層においても、これら三つは相通じる性質を持つものと考えられていたのだと思います。
精神が“火”のイメージを持つとしたら、
西洋の近代的精神において、それは神から盗まれた人工物であり、“原罪”でありながらも誇らしい…
人間の尊厳を示すものといえます。
対して、日本の“火”は、神から盗まれたものではなく、神から生まれたもの。
自然から分けられた自然の一部、というイメージを伴うと思います。
(余談ですが、プロメテウスの火とエデンのリンゴの間には共通の印象があると思います。
ルネサンスにおけるキリスト教からギリシャ・ローマ的なものへの回帰には
エデンのリンゴからプロメテウスの火へ、という画期的なイメージ転換があったのでは、と
ただ、伝統的なキリスト教においては、精神の火はキリストから与えられる、という側面を持つようです
カトリックにおいては、キリストの火によって人々が照らされるのであり、
プロテスタントにおいては、個人に与えられた火が各々で闇夜を照らすのではないかと。)
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ユング的には、“自我”というのは、“わたしがわたしである、という意識”であるそうです。
(船井哲夫『心を読み解くユング心理学』)
神道において、
“宇宙の根本意識(この場合はアマテラスではなく、アメノミナカヌシになります)”から
個人に分けられた健康な霊のことを“直霊”と呼びますが。
直霊は敬うべき神の一部であって、
“わたしがわたしである”ということからは些か離れていると言うべきでしょう。
直霊は、四魂、と呼ばれる人の精神作用全体を統括します。
つまり、神道における自分、とは、神の一部によって統括された精神作用、ということができます。
自我意識ではなく、精神作用を個人と見る。
宇宙や自然の“働き”すなわち作用自体を神とみる神道の思想と、やはり相通じるものがあります。
健康な状態の分霊は“直霊”と呼ばれますが、健康でない分霊を“曲霊(まがつひ)”といいます。
神の分霊をいただく人間には、その分霊を健康な状態に保つ義務がありますし、
健康な分霊によって精神を作用させることが大切になります。
つまり、神道では、“わたしがわたしである”というような事は考えない。
とにかく神を敬い、直霊に感謝し、現実において精神を作用させることが大切で、結果は後からついてくる、と。
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ユング心理学では、意識の成熟過程において、
内界で起こる不安や葛藤さえも、外界に投影することで解決していくタイプを、“外向型”とよびますが。
神道というのは徹底的に外向きな宗教である、と考えることができそうです。
瞑想や観想を修行の一手法とする仏教は、どちらかといえば内向的な宗教と考えられます。
ただ、“わたしがわたしである”ことを意識の拠り所にしない、という点では共通したものであり。
長い歴史の中で、この二つが結びつき補完しあうことによって、日本人の精神構造を作り上げてきたのではないか、と
今のところ考えています。
川面凡児による魂の構造『古神道の本』学研