Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

天武のした事

2010-02-24 | 郷土史
大化の改新は、本当に
蘇我氏を誅するためのものだったと思う。
蘇我は、大陸系渡来人を束ねる家だったのだから。

蘇我が天皇をないがしろにし、政治をわたくししたというなら、
それは、大陸系渡来人優位の政治体制を示すと思う。

二~四世紀、中国の戦乱に伴い、
朝鮮半島から多くの人たちが日本にやって来たという。

蘇我氏の系図は後に整えられたもの、と言われるが、
その先祖の名(満智・韓子・高麗)は、朝鮮半島に由来する。

また、蘇我蝦夷の“蝦夷”は、縄文系の人々の蔑称と同じだから、
あるいは渡来系と縄文の混血系かもしれない。

これに対して、蘇我+聖徳太子に討たれた物部氏は、
天孫に先立って天磐船でやってきたニギハヤヒの子孫である。

ニギハヤヒは、大和地方の豪族“長脛彦”の妹を妻にもち、
はじめ、彼らと共に神武に抗う。

“長脛彦”はもちろん、
手長・足長”と同類の、ドラヴィダ人に対する蔑称だろう。

つまり、本来は
ニギハヤヒ自身が長脛彦だったのではないか、と、
わたしは思う。

古事記では、天孫族がインダス系ドラヴィダ人でないことを示すために、
ニギハヤヒの家系を偽装したのではないか?

***

ニニギの系統(天皇家)は、
蘇我と縁戚関係を結んでいた。

聖徳太子(実在を疑う声もあるが)は両親共に蘇我系とされるし、
推古天皇は、母が蘇我系だった。

もっとも聖徳太子は、仏教を入れたが、
神の道もおろそかにしなかったという。

つまり、神仏(インダス+縄文、縄文+朝鮮)和合路線を取ったのだろう。

仏教はそもそもインダス系の教えだと書いたけれど、
当時の仏教は女性蔑視の宗教で、大陸・半島経由で咀嚼された物でもあった。

大陸は父系文化であり、現在のアイヌから類推する限り、縄文も同じである。
インダス系は母系文化だったと想像される。

つまり、仏教は男性の権威を増すために
有利だと考えられたのだろう。

それでも、巫女の文化のあった日本で、最初に出家したのは女性だったし、
早い時期の仏像は、手足が長くほっそりした物が多い。

それが、奈良、平安と、
ふっくらして細く小さい目の物がメインになっていくのは、
権力の移行を示しているのではないだろうか?

***

邪馬台国と大和は、音が似ているから、同じ系統の政権だと
長い間、考えていた。

けれど、言霊をみてみると、
邪馬台国は“ヤマ”の高(貴)い意の国、となる。
そして大和は、“ヤマ”の戸、すなわち“ヤマ”を止める、の意になるのである。

“ヤマ”は、インド神話における人祖であり、
人類に死をもたらした存在である。
つまり、紀記におけるニニギと同じような存在と言える。

もしも“ヤマ=ニニギ”と考えていいなら、
邪馬台国は、“ニニギの意による国”を意味する名であり、
大和朝廷は、“ニニギを止める朝廷”となる。

***

邪馬台国がどこから大和になったのかは、
わからない。

けれど、そもそも大河を利用する農耕民であるインダスの人々は、
土木技術に優れていたと見られるから、
前方後円墳は、本当に彼らの物かもしれない。

東海に最初に造られ始めた前方後方墳に対して、
大和には前方後円墳が造られた。

正確な円形を築くには高度な技術が必要だから、
東海の日本海側に住み着いた朝鮮半島人の墳墓に対して、
インダス+縄文の既存王朝が、自分たちの技術を示すために作り始めたものかもしれない。

そもそもインダスには、身分格差による埋葬形式の相違はなく、
みな平等だった。

けれど、富の集積による華やかな文化を持つ朝鮮半島人に対して、
皆が質素なインダス系邪馬台国文明は、説得力を持たなかったのだろう。

古墳の造営は、“われわれは野蛮な土民ではない”と示すための、
一つの方策だったのかもしれない。

***

初めて“天皇”の称号を名乗った天武は、
彼の穢れを付着させるために、多くの奴隷身分を創始した。

おそらくそれは、インダス系の黒い
ドラヴィダ人の血を引く人々ではなかったか?

わたしは、深見が天武ではないかと疑っているのだが、
彼に、本当に皇位継承権があったのかは定かではない。

一度は蘇我を倒しインダス文化を守る側に加わったものの、
新羅・唐連合軍の強さを目の当たりにして、路線の維持は困難と考えたのではないだろうか?

そして、中国文化(中華思想)にすりより、
黒さを否定し、黒い母系のルーツを隠すために、古事記を整えた。

天武は東海日本海側に縁戚関係があり、
その力を借りて、壬申の乱を成功させたのである。

彼は道教に詳しく、一度は出家もした人だ。
おそらく神秘思想に興味があり、言霊の知識も持っていただろう。

ドラヴィダ王朝の呪いを恐れて国を“ヤマ・ト”と名付けたのは、
彼ではないだろうか?

最新の画像もっと見る