“壬申の乱”で勝利した大海人皇子…天武天皇は
即位後、天下のケガレを祓うために、
“大祓”という、浄め祓いの儀式を行った。
その際、祓物(祓いの際、捧げられる供物)として、
大勢の身分を創出したという。
祓われた罪・ケガレを、
彼らに付着させるために。
(遠山美都雄“壬申の乱”)
つまり、ケガレた人々を作り出すことで、
自分達の清浄さを創り出したことになる。
その解釈が正しいのかを、そもそも知らないが、
神道的な祓いが、こうした対比に基づくものだとしたら、
密教的なそれとは大いに異なる。
チベット密教には、トン・レンに基づいた、
自らの身を捧げることによる浄めがある。
日本にも同じやり方があるのかは、
まだ知らない。
***
菩薩が人々を救うため、こころのままに現す体を、
意生身というそうだ。
菩薩ではなくとも、観想によって、
自らが意生身となった、と想像するのである。
もちろん、前提として
慈悲に基づく菩提心が必要であることは
言うまでもない。
菩提心というのはつまり、
生きとし生けるものの為に覚りを得、仏になることを
願う気持ちである。
その上で、自分の肉体を、自分の為のものでない、
生きとし生けるものの為の、光輝く身体としてイメージする。
これを、人や地域、世界そのものに
布施すると考えるのだ。
光でできた菩薩の身体は、
与えようとする物に溶け込んでいく。
黒い塵のように、あるいは煙のように浮き出てくる
あらゆるケガレを相殺しながら。
溶け込んだ途端、それは光輝く存在に変わる。
人ならば仏のように。
地域ならば浄土のように。
輝き、軽やかで、生命力に満ち、
色鮮やかな美しい場所へと。
もちろん、実際には、
汚いと感じざるを得ない、
ケガレていると感じざるを得ない場所もあるだろう。
だが、菩薩は、
ケガレを不浄と感じない訓練を積み、成就した存在である。
不浄をそのまま受け取り、自らで引き受けて
浄へと変容させたとイメージするのだ。
***
チベットには、
法力で国土を浄化させた聖者の逸話がある。
おそらく、こうした浄めによるものだろう。
神道の浄めは、祝詞によるものだと思うが、
そうであれば、祓いの神が不浄な場所へケガレをまとめて持っていく、と考えるよりは、
権現…菩薩の悟りを持つ神が、
ケガレを自らで引き受けてくれた、とイメージする方が、
いいと思う。
すでにそうされているなら
失礼だけれど。
即位後、天下のケガレを祓うために、
“大祓”という、浄め祓いの儀式を行った。
その際、祓物(祓いの際、捧げられる供物)として、
大勢の身分を創出したという。
祓われた罪・ケガレを、
彼らに付着させるために。
(遠山美都雄“壬申の乱”)
つまり、ケガレた人々を作り出すことで、
自分達の清浄さを創り出したことになる。
その解釈が正しいのかを、そもそも知らないが、
神道的な祓いが、こうした対比に基づくものだとしたら、
密教的なそれとは大いに異なる。
チベット密教には、トン・レンに基づいた、
自らの身を捧げることによる浄めがある。
日本にも同じやり方があるのかは、
まだ知らない。
***
菩薩が人々を救うため、こころのままに現す体を、
意生身というそうだ。
菩薩ではなくとも、観想によって、
自らが意生身となった、と想像するのである。
もちろん、前提として
慈悲に基づく菩提心が必要であることは
言うまでもない。
菩提心というのはつまり、
生きとし生けるものの為に覚りを得、仏になることを
願う気持ちである。
その上で、自分の肉体を、自分の為のものでない、
生きとし生けるものの為の、光輝く身体としてイメージする。
これを、人や地域、世界そのものに
布施すると考えるのだ。
光でできた菩薩の身体は、
与えようとする物に溶け込んでいく。
黒い塵のように、あるいは煙のように浮き出てくる
あらゆるケガレを相殺しながら。
溶け込んだ途端、それは光輝く存在に変わる。
人ならば仏のように。
地域ならば浄土のように。
輝き、軽やかで、生命力に満ち、
色鮮やかな美しい場所へと。
もちろん、実際には、
汚いと感じざるを得ない、
ケガレていると感じざるを得ない場所もあるだろう。
だが、菩薩は、
ケガレを不浄と感じない訓練を積み、成就した存在である。
不浄をそのまま受け取り、自らで引き受けて
浄へと変容させたとイメージするのだ。
***
チベットには、
法力で国土を浄化させた聖者の逸話がある。
おそらく、こうした浄めによるものだろう。
神道の浄めは、祝詞によるものだと思うが、
そうであれば、祓いの神が不浄な場所へケガレをまとめて持っていく、と考えるよりは、
権現…菩薩の悟りを持つ神が、
ケガレを自らで引き受けてくれた、とイメージする方が、
いいと思う。
すでにそうされているなら
失礼だけれど。