美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中原悌二郎の「若きカフカス人」

2022-03-06 15:36:49 | 中村彝
 中村彝の代表作はエロシェンコを描いた肖像画である。また、彼の友人の彫刻家、中原悌二郎の代表作はニンツァをモデルにした「若きカフカス人」である。
 いずれも作品のモデルはロシア人と記述されでいることが多い。二人とも同時代ロシアの社会的・政治的状況の中から日本の文化的・芸術的環境に現れ出た人物には違いない。
 だが、二人のモデルはその民族的な血筋という観点から見ていくと、ロシア人と書くことはいささか注意が必要なのかもしれない。
 エロシェンコは、ウクライナ人とも言われるし、同じ著書でロシア人とも書かれていたりすることもあるが、血筋はウクライナ人なのだろう。
 一方、ニンツァはアルメニア人と言われることもある。何よりも、彼がモデルの「カフカス人」とは、カフカス(コーカサス)の人ということだから、これは、私の想像だが、彼自身は頑強に自分はロシア人ではない、カフカス人だと、悌二郎に向かって強く言い放ったのかもしれない。

 彼の名はイリヤ・ニンツァであると、悌二郎の代表作を、友人、知人たちを介して生み出すきっかけを作った鶴田吾郎は後に自著で書いている。(ちなみに鶴田は翌年、彝の「エロシェンコ氏の像」を制作する直接のきっかけを作った功績もある。)
 鶴田の著書によれば彼は大正6年6月、朝鮮、満州、シベリア方面に放浪の旅に出た。朝鮮の京城に寄ってから満洲の奉天(瀋陽)に出、1ヶ月ほど滞在し、9月に大連に出た。10月には「レーニンの本格的大革命がロシア全土に拡がり」、大正7年夏にハルピンまで行き、鶴田はそこで取り敢えず「待機する」ことにした。シベリア出兵の時代だったのである。ハルピンでは辻永の弟の光に会ったりしている。
 大正8年5月、鶴田は「アカシアの花が街路に香る」大連に戻り、外語大でロシア語を学んでいた上野亀吉の家の門前でニンツァに再会した。
 ニンツァと鶴田が初めて会ったのは、1年ほど前の大連のようで、古川商事に勤めていた上野が、「ノメラ」でニンツァと知り合いになり、それで鶴田のところに連れてきたからであった。
 ただ、その鶴田の著書によれば、なぜかニンツァは「放浪のウクライナ系のエンジニア」と記されている。
 数日間、大連でニンツァに再会した鶴田は、日本に行くという彼に大井町にいる高野正哉を紹介した。ニンツァが日本に着いたのは大正8年の春、5月から6月頃だろう。そしてニンツァは、相馬黒光によれば、4ヶ月ほど日本に滞在したようである。 
 その間、彝が平磯に行ってその画室が空いている時にそこで悌二郎のこの代表作が制作された。モデルのニンツァはその時25歳であったと中原信は自著に書いているので、ニンツァの生まれたのは、1894年頃ということになろう。
 「相馬氏御夫妻がその露西亜人をつれて訪問されました。露西亜人の名はニンツァ。年は二十五歳。カフカスの生まれという事でございました。赤軍に召集されて兵士となったのですが、兵営から抜け出して世界を浪々の身となったのだというような話も聞きました」と信子は『中原悌二郎の想い出』に書いているので、これらの基本情報は、ロシア語を学んでいた黒光から得たものかもしれない。あるいは鶴田が予め高野に寄越した手紙にすでに書かれていたのかもしれない。
 ニンツァが「革命に追われてモスクワから出てきた」とも鶴田の著に書かれているが、彼が「ウクライナ系のエンジニア」というのは解せない。カフカス人であることは確かであるから、アルメニア系という方がやはりより正確だろう。
 ニンツァは、来日して高野正哉を訪ねただろうが、高野は予め鶴田から来ることを知らされていたから、ニンツァの扱いについては、悌二郎に相談していた。悌二郎は、相馬夫妻に頼んでニンツァを中村家裏のアトリエに送り出したのだった。
 後に自殺直前の芥川龍之介が新潟高等学校で称賛した「若きカフカス人」は、こうして、ニンツァが僅か4ヶ月ほど日本に滞在した間、大正8年の夏に中村彝のアトリエで制作されたのである。


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