Tikara`s Photoroom

私のこれからとこれまでの写真作品を、自身のコメントと共に載せて多くの人に見ていただき、批評していただきたいと思います。

626.ライン川を最初に渡ったアメリカ将校

2020-06-09 19:06:05 | Weblog

 カール・ハインリッヒ・ティンマーマンは、1922年、ヴァイマール共和国時代のドイツ・フランクフルト・アム・マイン近くで生まれる。その2年後の1924年には、ティンマーマン家は、アメリカ合衆国ネブラスカ州に移住する。1940年ヨーロッパでの戦争の拡大に伴い米国内の反独感情が高まると、カールもまた自分がドイツ系である事に不安を抱くようになる。実際に彼の父は「臆病者」「脱走兵」などと蔑まれ、「ティンマーマン」というドイツ系の姓すら嘲笑されたという。やがてカールを含むティンマーマン家の3人兄弟は、祖国に忠誠を示し名誉を挽回するべく全員がアメリカ軍へ入隊した。その後、彼はその能力を高く評価され、少尉にまで昇進し、第9師団に配属された。

 1944年12月16日、ドイツ軍はアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)として知られる大攻勢を発動した。ティンマーマンは小隊を率いてザンクト・フィート周辺での激戦に参加する。その最中にティンマーマンは砲弾片を受けて腕を負傷するも、戦闘が収まるまで部隊にとどまり戦い続けた。ドイツ側は米第9師団が壊滅した旨を2度発表しているが、以後もティンマーマンを含む第9師団将兵は戦闘を続けていた。その為、第9師団は「亡霊師団」なる愛称を与えられることになる。1945年3月戦闘中に負傷した中隊長に代わりティンマーマンはレナード・エンゲマン中佐によって後任者に任命される。またこの際、中隊がライン川攻撃における前衛部隊を務める旨も聞かされたという

 1945年3月7日13時40分、レマゲンに対するアメリカ軍の大攻勢が始まった。しかし、ドイツ軍守備隊がレマゲン鉄橋に大量の爆薬を設置していた為、アメリカ軍は橋の西側での停止を余儀なくされた。15時00分、アメリカ軍側では橋がドイツ軍に爆破されるまで待機することを決定するが、その後も爆破は行われなかった。実際にはドイツ軍側でも複数回起爆を試みていたが配線不良から失敗しており、戦火の中で修理を試みていたのである。その後、アメリカ軍では橋の制圧命令が改めて下された。同日、15時30分頃、ティンマーマン少尉は中隊に対して橋の確保および維持を命令する。彼は援護と東側のドイツ軍陣地への警戒の為に中隊の半分を後方に残し、彼自身が率いるもう半数が橋の上に展開した。中隊員らはドイツ軍陣地から機関銃による銃撃を受けつつ、橋梁を渡って起爆装置の配線を切り、可能な限りの爆薬の除去を試みた

 15時40分、ティンマーマンらが橋の中間地点に差し掛かる頃、ドイツ軍守備隊の指揮官ハンス・シェーラー少佐が橋の東半分に残っていた爆薬を起爆した。しかし、橋はやや跳ね上がり歪んだものの、かろうじて倒壊を免れた。ティンマーマンらは爆薬の除去を続け、残っていた中隊の半数が反撃に乗り出した。その後、まもなくして米軍工兵隊が到着し、爆薬の除去作業は彼らに引き継がれた。そして、中隊の全部隊がライン川を突破するべく橋を渡り始めたのである。15時45分頃、ティンマーマンの部下である分隊長アレクサンダー・トラビク軍曹が激しい銃火を受けながらも橋を突破した。彼はドイツ軍が爆破を試みた際に1度立ち止まったものの、全長325mの橋を一気に渡りきり、最初にライン川を渡ったアメリカ兵となった。ドラビク分隊は彼に続き、爆発で巻き上げられた粉塵や煙幕にまぎれて橋の東側を確保した。この時点までに、ドラビク分隊には1人の負傷者も戦死者も出ていなかった

16時00分頃、ティンマーマンは単独で橋の東側に移った。この時点で中隊員らは銃撃を受けつつも西側の爆弾穴での集結を図っており、工兵隊は最後の爆薬を除去していた。また、その他の歩兵部隊も前進を試みていたものの、ドイツ軍高射砲の水平射撃により阻止されていた。部下のうち腕利きの兵士数名を選んだティンマーマンは高射砲が設置されていた橋の東端側の丘に上り、これを攻撃して無力化した。さらにドイツ軍守備隊への増援を阻止するべく、丘を超えて鉄道トンネルの反対側への攻撃を行った。その後、ティンマーマンら15名は2つの砲弾穴に隠れて増援を待った。

ティンマーマンは知らなかったが、この時点で325mの鉄道トンネルの中には300人ほどのドイツ兵といくらかの民間人が隠れており、トンネル内には弾薬や航空燃料を積載した4台の貨車が設置されていた。この民間人らはアメリカ軍による砲爆撃を逃れ避難してきた者たちであった。彼らは何度かの脱出を試みたものの失敗に終わり閉じ込められていたのである。この時点でもドイツ軍は繰り返し橋の爆破を試みていたもののすべて失敗に終わっていた。トンネル内に残った将校は最後の一兵まで戦えとの命令を受けており、将兵の多くはそれを受け入れていた。しかしトンネル開口部付近への砲撃は激しさを増しており、まもなく戦車が橋を超えてくることが予想された。そうなればトンネル内の全員が皆殺しにされうると判断され、降伏の為に2人の高射砲操作補助員が代表者としてトンネルの外へ出て、アメリカ軍に降伏を伝え、攻防戦は終結した。

連合国側の記者は、この戦いと橋の確保を指して「レマゲンの奇跡」というフレーズを使った。のちに大統領となる、アイゼンハワー将軍は、レマゲン鉄橋を「その重さは金にも相当する」と評し、「戦争における明るい機会の1つであり、これを迅速かつ確実に掴みとったことで、今後の作戦に計り知れない効果を及ぼすだろう」と語った。ドイツ軍が何度も破壊を試み爆破を行ったにも関わらず、確保された時点で橋は半壊しつつもその機能を維持し続け、まもなく連合軍のトラックや戦車輸送車がこの橋を渡った。確保から24時間以内に、およそ8,000人もの連合軍将兵が橋を渡ったとされる

鉄橋の塔の1つには「足濡らさずにラインを渡る。第9機甲師団に感謝を」と書かれた看板が掛けられた。この看板は現在ケンタッキー州フォート・ノックス基地内のジョージ・パットン博物館に展示されている。橋の確保後、多数のアメリカ軍の部隊が橋を渡った。その後もドイツ軍は様々な手段を用いて橋の破壊を試み、またアメリカ側はこれを退け橋の補修を続けていたが、1945年3月17日に倒壊した。この頃、既にティンマーマンは前線を離れていた

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 625.モネの庭 マルモッタン | トップ | 627.アジサイ寺2020 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事