先日家族との所用で、尼崎市内の関西労災病院に行ったとき、そこの1階ロビーで、なかなか見事な七段飾りのひな人形が置かれているのを見た。ひな人形を見るのは、すでに嫁いでいる娘が小さいころにしていたひな祭り以来、久しぶりだったので、持っていたデジカメで、数枚の写真を撮った。撮った写真を見ながら、あることに気づいたのだが、それは、このブログの今回のタイトルに記していることで、このことに気づいてから、少しひな祭りについて調べてみたりもした。
「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然とせず、その起源説は複数ある。平安時代に京都の貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録がある。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられている。初めは儀式ではなく遊びであり、雛祭りが「ひなあそび」とも呼ばれるのはそのためである。一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流しびな」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。当時の子供の死亡率は現代とは比較にならないほど高く、赤ん坊のうちに亡くなることは珍しくはなかった。親としては必死の思いで子供の成長を見守り、枕元にはヒト型に紙を切った「形代」を置き、厄除けとした。そして、1年の災いを、春のひな流しで祓う。これが、ひな祭りの起源である。(以上、Wikipediaより参照)
20年近く前になるが、鳥取県の大山方面に家内と旅行した時、その帰りに、鳥取市の山間部にある用瀬町の「流しびなの館」に、立ち寄ったことがある。10月の下旬のころであり、その周辺も美しい紅葉と、大きな実がなる柿の木や、コスモスの花に囲まれた、秋の風情たっぷりの場所だったが、館の中を観覧させてもらい、収蔵されていた、数多くのひな人形のコレクションを見て、感心したのを覚えている。また、一度訪れてみたいものだと、思った。