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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(9)

2018年01月08日 | 斎藤徳三郎の生涯

斎藤徳三郎の交遊関係

 他に徳三郎(徳山人)と交遊関係にあった人は吉井忠(画家)・椿貞雄(銀座サエグサで二人展)・江川文典(画家)・木村壮太(木村壮八の兄新しき村の助役)・丸木位里夫婦(原爆の絵の画家)・伊野農夫也(版画家)・岡野良平(白日会・日本美術会)・牧大介(画家)・郡司次郎正(侍日本の作者)・歌舞伎の坂東三津五郎・高倉隆文(千波船附の円通寺住職)など多彩である。

 

◎棟方志功


徳三郎と緒川村

 斎藤徳三郎は昭和5年茨城県緒川村に入った。この時面倒を見たのが県会議員の斎藤沈水である。同じ政治家仲間の五江淵家の娘フクと結婚した。そして村会議員・農業委員を努め、酪農では朝鮮赤牛を導入した。「新しき村」の理想を掲げ村つくりに励んだ。

また、戦後農民運動を指揮した。

◎斎藤徳三郎スケッチ緒川村下小瀬五位淵家風景

◎斎藤徳三郎の農業委員会辞令

徳三郎の元には多くの文人・芸術家達が訪れた。増淵元秀もその一人であった。そした茨城美術を結成し代表になった。

日本板画院の会長は松方三郎・名誉会員は棟方志功・参与が徳三郎である。

徳三郎は日本板画院茨城支部長になり多くの美術家を指導した。

また、水戸市天恩ビルの中村はなに請われ「週刊天恩」に多くの文を寄稿し文筆にもその冴を見せた。

 

 斎藤徳三郎は昭和46年70歳で茨城県大子町の病院に入院し水戸の城南病院で没した。生誕103年を迎える。緒川村の渓流を望む五江淵家の丘の墓地に墓標が建っている。

そこには武者小路実篤が「徳山人ここに眠る 実篤」と揮毫している。

◎武者小路実篤筆『徳山人ここに眠る」

弟の斎藤晴造(東北大学経済学部教授・経済学部長)は13回忌「斎藤徳三郎遺作展」で「兄の生涯は新しき村を貫き通した事です。画業は多くの先輩の指導の賜物です。」と語った。

 

 

 

◎斎藤徳三郎画

 



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