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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話・渋沢栄一の生涯13話  栄一と幕府医学留学生

2021年08月10日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯13話  栄一と幕府医学留学生

 松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長) 
 27歳の澁澤栄一は、慶応3年(1867)8月16日オランダで、シーボルトに面会し、3人の医師が同行しました。伊藤玄朴、林研海、高松凌雲です。
 伊藤玄朴は、榎本武揚ら幕府派遣のオランダ留学生に随行してオランダで医学を学んでおりました。玄朴は、長崎の鳴滝塾で、シーボルトよりオランダ医学を学び、江戸参府でシーボルトに随行しました。シーボルト事件では連座を免れました。玄朴は、天然痘、コレラの流行で、種痘所を自宅に設立しました。文久元年(1861)、「西洋医学所」となり、教授、解剖、種痘の3科に分け西洋医学の教授となり、玄朴はこの西洋医学所の取締役を命じられます。蘭方医として初めて法印(将軍の御匙、侍医長)に進み、蘭方医の頂点にたちます。養子の林研海と共にオランダで医学を修め、後、明治天皇の侍医を勤めました。
孫の伊東貞三は、昭和天皇の侍医を勤め、その死を看取っております。玄朴は、明治4年(1871)死去。墓は東京都台東区谷中の天龍院にあります。林研海は、長崎でボンベに医学を学び、文久2年(1862)幕府第1回海軍留学生として父の伊東玄朴らと共にオランダに渡ります。榎本武揚の海軍留学生らは約1年9ヶ月遅れて、明治元年12月に帰国したが、江戸幕府が既に崩壊していました。
 旧幕府に恩義を感じ朝廷「典薬寮」の役を辞退し、慶喜公に従い駿府に移り静岡藩病院長となりました。明治4年、陸軍に出仕、第2代陸軍軍医総監になり、明治15年、有栖川宮熾仁親王に従ってロシアへ向けて出立し、途中のフランスで急死しました。享年39歳。
高松凌雲の兄は、旗本で古屋作左衛門、洋式陸軍の先達であり、名声が高く、神奈川奉行所の通訳、幕府歩兵頭並となりました。英語とイギリス陸軍の用兵術を学びました。作左衛門は、外国兵書の翻訳に取り組み「歩兵操練図解「英国歩兵操典」を翻訳しております。
慶応4年、北越戦争では、衝鋒隊を組織し各地で新政府軍と戦いました。古屋佐久左衛門の実弟に3歳下の高松凌雲がおります。大坂で医学を修め、江戸で洋学を学びました。高松凌雲は、一橋家の医師で、幕府の奥詰医師として登用され、フランスへ留学しました。しかし、留学生活も1年半で大政奉還となり、鳥羽伏見の戦いが始まり、凌雲がフランスから江戸湾に到着した時には、すでに幕府は瓦解し、江戸城は薩長勢に明け渡され、主君の慶喜公は水戸で謹慎中という状態でした。パリに留学させてくれた幕府の恩義に、蝦夷地に榎本武揚らと幕臣の国を作るため、箱館戦争の医師として参加しました。兄の作左衛門は、榎本総裁の歩兵頭に就任し、陸軍奉行大鳥圭介の指揮下、七重浜で蟇肘歩兵東北として戦いました。
 五稜郭へ向けて新政府の軍艦「甲鉄」から艦砲射撃を受け、作左衛門は、重傷を負って湯川の野戦病院へ送られ4日後に、箱館病院長、実弟高松凌雲に看取られて死去しました。
享年37歳。凌雲は、敵味方を問わず診療し治療しました。当然、最初は敵の兵士を共に治療することを医師たちは否定しますが、パリ留学で学んだ精神を貫きます。この行動は日本で初めての赤十字活動であり、日本史における大きな出来事でした。凌雲は、西欧の常法に準じて、戦闘力を失った傷病兵は、敵味なく診療することを医師に命じ、彼らも院長と生死を共にする覚悟でした。箱館戦争の終戦処理において、黒田清隆が「有為な人材を失うことは国家の損失と主張し明治政府は、比較的寛大な処罰にしました。
箱館戦争後、凌雲は東京に戻り病院を開院します。新政府から多くの役職の誘いを全て断り、町医者として貧困の家庭には治療費を無料とし『神の家』の精神を実行しました。凌雲は、渋沢栄一らと他の医師の協力も得て組織的に無料で診察を行う「同愛社」を設立しました。この同愛社によって診察を受けた貧民は、70万人とも100万人とも云われています。
 高松凌雲は享年81歳。東京都台東区の谷中墓地に墓があります。戊辰戦争では幕府歩兵隊、歩兵指図役頭取の要職にあり、北越戦争では、衝鋒隊長の古屋佐久左衛門と、幕府奥詰医師、高松凌雲兄弟は懼不艦隊の「開陽丸」で涙の再会をし、「佐幕の鬼」と称された、兄、佐久左衛門が力尽き箱館病院で、弟凌雲の手当を受けて死亡しました。箱館戦争で、この兄弟の胸に去来した思いは何であっとろうかと思うと涙がこみ上げてきます。   



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