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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話渋沢栄一の生涯12話「渋沢栄一とシーボルト」

2021年08月07日 | 渋沢栄一の生涯
渋沢栄一の生涯12話「渋沢栄一とシーボルト」

松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長)
 27歳の渋沢栄一は、慶応3年(1867)8月6日、徳川昭武公のお供でパリを発ち、7日スイスのベルンに入りました。スイスは、時計細工が花形産業で、工業全般に高度な技術を誇り、金融業が盛んでした。安政3年(1856)スイス銀行(クレディースイス)はチューリッヒに設立されております。国土の大半が山岳地帯であり、農工業が不向きで、貧しいスイス国を支えたのは「血の輸出」と呼ばれた外人部隊の傭兵の葉軒派遣でした。
 8月8日、徳川昭武公は、スイス国ベルンの大統領を訪問し、栄一らもお供し、観兵式、武器庫、時計工場、電信機製造所等を視察しました。スイスはドイツ語で、ベルンは「熊」の意味、紋章には熊がデザインされておりました。
 8月16日、スイスを出発し、18日オランダのベーダに到着しました。昭武公は、オランダ国王ウィルヘルム第3世を訪問しました。数日滞在し、栄一らは、軍艦製造所を観覧し、シーボルト別荘に招かれました。シーボルトの館は風光明媚な地にありました。オランダ書記官の案内で、隼人正石見守、高松凌、山内文次郎、渋沢栄一らがシーボルトに面会しました。
 30年前、オランダ商館付医官シーボルトは、文政11年(1828)帰国に際し、日本調査のため集めた品物の中に、当時、国禁であった日本地図(伊能忠敬図、蝦夷地図)、将軍家の家紋である葵の紋付きの着物などは日本から持ち出すことが禁じられていました。関係者は処罰され、シーボルトは国外追放を申し渡されました。幕府天文方の高橋景保は、逮捕され、獄死しました。死骸は塩漬にされ、死刑の判決を受け、その家族、部下、通詞、医師40数名が遠島などのお仕置きを受けました。幕府は、これを機会として、より一層蘭学者の行動をきびしく監視するようになりました。
 シーボルトは、オランダに帰国し、日本で集めた資料や知識をもとに、日本についての本格的な研究書である『日本(ニッポン)』を出板し日本を紹介しました。嘉永6年(1853)アメリカ提督ペルーはシーボルトに日本国への同行を求めます。国外追放の身であり、日本国との開国の交渉には問題がると考えシーボルトの著「日本」を読み日本国の情報を得て、浦賀に来航し幕末の歴史の歯車が大きくまわります。
 31年後、安政6年(1859)シーボルトは、国外追放がとかれ、ふたたび日本に来ることができました。なつかしい長崎の鳴滝に住み、昔の門人たちや、娘、楠本いねたちと交流し、日本国の研究を続けました。また、幕府に招かれて、薑府の顧問となり、ヨーロッパの学問を教えました。3年後に日本を去ります。シーボルトは、渋沢達が訪れた1か月後、10月18日、ドイツのミュンヘンで風邪に感染し70歳で亡くなりました。シーボルトの娘、楠本いねは、日本で最初の女医になりました。父と同じ医学の道をこころざし、石井宗謙、二宮敬作、ボンベに医学を学びます。医師として、長崎や東京で開業し、明治2年刺殺された長州藩の医師、天才軍事戦略家、村田蔵六(いねの養父、大村益次郎)を看護しております。明治6年、宮内省御用掛となり、明治天皇の若宮(明治12年生まれ、大正天皇)の出産に立ち会いました。
 いねは享年77歳、シーボルト親子は日本の医学に貢献しました。渋沢栄一は、明治になり医療機関の運営支援を行い、慈恵会(現東京慈恵医大)、恩賜財団済生会、聖路加国際病院幕末ドイツに留学した北里柴三郎の日本結核予防協会などの財務監督や事業運営にあたりました。100年前、日本では3年間に20万人が亡くなったスペイン風邪(世界の死亡者は4千万人~5千万人)の伝染病の対策にあたりました。
北里柴三郎は「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献しました。
 私立伝染病研究所(現、東京大学医学科学研究所)初代所長、土筆ヶ岡養生園(現、東京大学医科学研究所附属病院)、北里大学学祖、慶應義塾大学医学部の創立者、日本医師会創立者初代会長を勤めました。現在の厚生省「新コロナウイルス対策本部」は、前身が日本結核予防協会を設立した渋沢栄一と北里柴三郎によるものです。              




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