福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話渋沢栄一の生涯18話~21話

2021年10月07日 | 渋沢栄一の生涯
タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(18話)
サブタイトル 渋沢栄一と大隈重信  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治政府は、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けました。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の8省を統括する最高機関です。
29歳の渋沢栄一に、明治2年10月21日、太政官から東京出仕の書状が、静岡藩に届きました。しかし、渋沢は、静岡藩の常平倉(商法会所)の事務も多く、至急上京は出来ぬ、何卒半月も御猶予を願いたいと申し出ました。静岡藩権大参亊、大久保一翁は、「イヤそれはならぬ、直に出京しろ」との厳達がありました。渋沢は、「これまで丹精した新創の商法会所を成功させなければなりません。一身を捧げるので今更朝廷へ仕官するつもりはありません」。
太政官の弁官の2局は、左弁官局、右弁官局で、少納言局と共に3局の組織です。各局に大弁、中弁、少弁の3弁、大史2名、少史2、史生10、官掌2、使部80名の上級官僚です。左弁官局は中務省、式部、民部、治部で、右弁官局は兵部省、刑部、大蔵、宮内で、各4省を分管し、諸官省や諸国より申出る庶務を弁理し大納言に上申し、宣旨、官符、官牒を書き、その他の太政官内の総ての文書は取扱う所です。  
渋沢は、「太政官卿の誰の招請か」聞くと、伊達宗城(伊予松山藩主)で、門閥により、この位地に居られる方だと推察しました。
「大蔵省の大輔は大隈重信(32歳)、少輔は伊藤博文(27歳)の2人である」と云います。大隈重信は(佐賀藩、明治政府の参議で後の大蔵卿、立憲改進党の党首、早稲田大学創立者、教育問題など多方面に弁論を展開、言論界の重鎮)、伊藤博文は(長州藩、松下村塾、討幕運動で活躍)、大蔵省中全ての事務の多くはこの2人の管理で行はれているとの事でした。
渋沢は、築地宅の大隈重信を訪ね「駿河で計画し従事している事がある。大久保一翁聊も経験のない職務なので、頗る迷惑するので、速に御免を蒙りたい。早速の御許容を願います」と言いました。
大隈は多用で、談話する時間がないので更に18日に来いと云う。再び18日に大隈宅へ伺いました。大隈は「辞職などといはずに、駿河の事務を片附け、その上で大蔵省に勉励されるのが良い。渋沢君は、大蔵省の事を知らぬといが、誰ひとり知らない。貴君の履歴を聞くに、矢張我々と同じく新政府を作るといふ希望を抱いて、艱難辛苦した人である。されば出身の前後は兎も角も元来は同志の一人である。維新の政府はこれから我々が智識と勉励と耐忍とによって、造り出すもので殊に大蔵の事務に就いては少し考案もあるので、是非とも力を合わせてほしい」と懇切に説諭されました。
今日の任命は、後に聞けば、大蔵卿の伊達宗城が、自分の名を承知しておられたのと、面識はないが、郷純造(美濃国黒野村、旗本、新政府に理財の才能を買われ,会計局与頭、大蔵少輔兼主税局長、大蔵次官)が、渋沢の事を聞きおよび任命したとのことが分りました。
大隈は、維新の世になり真成の国家を創立するには、有能な人々が奮励努力し、第1に理財と法律と軍務教育にある。その他、工業商業とか、拓地殖民とかが急務である。また、大蔵省に就いては、貨幣の制度、租税の改正、公債の方法、合本法の組織、駅逓の事、度量制度など、その要務に枚挙がない。今日この省務に従事して居る人々は、渋沢君も僕も皆同じで、この新事務に就いて、学問も経験もあるべき筈はないから、勉めて一致協力して、成功を期する外はない」。「新しい事をやるのに、従来の習慣などは役には立たぬ。新政府が計画し諸制度に就いて、参考になる昔の法律などありはしない。強いて申せば、大宝律令くらいだ。しかし、大宝律令など、今日にあてはまるものではない。凡てが新規蒔き直しである」と云う。「それには欧米の進んだ新知識が必要である。君は我々よりもよく知っているのではないか。それを実行して貰へれば結構である」と、大隈は渋沢を熱心に説得しました。
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(19話)
サブタイトル 渋沢栄一が大蔵官僚になる  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治2年、29歳の渋沢栄一は、静岡より居を湯島天神中坂下に定め、妻ちよ(従兄尾高惇忠の妹)を呼寄せました。
大隈重信に説得され、維新政府の民部大蔵省(改正掛と租税正)に就任し、明治6年5月に退官するまでの3年半の間、大蔵大輔、井上馨に重用され、租税制度、貨幣、銀行制度、度量衡制度の改革など、多くの実績を残しました。
改正掛は、民部省に設置された部局で、明治政府に必要な制度改革の重要案件を作成しました。 
民部大蔵省の大輔、大隈重信は、郷純造の薦めによって旧幕臣の渋沢栄一を登用しようとしましたが、渋沢は現状の民部大蔵省のあり方ではとても新しい国家建設は出来ないと辞退しました。
若手官僚より、渋沢がその体制を作る中心人物になるべきであると説得を受け、また大隈や伊達宗城卿(伊予松山藩主)からも要請を受け、渋沢を掛長(租税正兼務)として省内改革を推進する組織として発足しました。 
大隈は伊藤博文や井上馨を通じて省内に抱える政策課題の諸問題について下問を行い、渋沢ら改正掛が企画、立案をしました。更に、海外留学などで欧米の事情に明るい前島密、赤松則良、杉浦譲らを加えて組織を充実させました。
特に度量衡の統一、電信や鉄道の建設、郵便制度の創設、助郷の廃止、殖産興業の推進、廃藩置県の提言などが実行に移され、戸籍法や地租改正、身分解放令などの提言が発案となり、日本におけるシンクタンクの先駆けとなりました。
改正掛長であった渋沢は伊藤や井上とともに大隈邸に出入りして改正掛での議論を大隈に報告するとともに大隈と親交があった山口尚芳や五代友厚たちの優秀な若手官僚とも議論を重ね、後に「築地梁山泊」と称されました。
また、当時幕末以来の盟友であった同郷で佐賀藩の大木喬任や副島種臣らと路線の違により疎遠であった大隈は、改革の提言をもたらす改正掛の存在が頼もしい存在であったことを『大隈公昔日譚』に記しています。 
 江戸時代、日本はいくつもの藩に分かれ、独自の税が存在していました。当時の税制は、年貢負担などは農民に負担の重い税制でした。明治政府は、幕府時代の「旧弊」を一新することを宣言しました。
 急激な税制改革は、社会が不安定化することに配意して当面は「旧慣」に依るとしながらも、税の公平化をはかり、安定した租税収入の確保に腐心し、徐々に税制の近代化を図りました。
明治4年に新幣貨条例が制定され、円、銭、厘の3種類を用いた貨幣制度がスタートし、欧米にまねて金、銀、銅を用いた貨幣が発行されました。この条例により、金1.5gを1円とする金本位制が採用され、1円=100銭=1000厘とするように決められました。しかし、政府の用意した金銀の量が少なく、実質的には不換貨幣でした。
明治通宝(ゲルマン札)は、明治時代初期に発行された政府紙幣(不換紙幣)です。日本には、高度印刷機は無く、渋沢栄一がパリ万博でヨーロッパを視察したドイツの西洋式印刷機により紙幣が作られました。ドイツのフランクフルトの民間工場でゲルマン製造されました。 
戊辰戦争の軍事費を出費する必要もあり大量の紙幣が発行されていました。紙幣は太政官札、府県札、民部省札、為替会社札など、江戸時代の藩札の様式を踏襲して官民が発行した多種多様で雑多なものであり、偽造紙幣も大量に出回りました。
共通通貨「円」の導入により、近代的紙幣の導入が必要でした。 紙幣寮の長に渋沢栄一が就任し、また太政官正院印書局が創設されました。
明治通宝は、明治5年4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められました。 
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(20話)
サブタイトル 渋沢栄一と廃藩置県 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治2年、渋沢栄一、 30歳、大蔵省(兼民部省)に入省し租税正(局長)となり、租税制度,土地制度、殖産興業政策などの改革案を企画しました。
 嘉永6年(1853)ペリー来航により、日本の近代が幕を開け、安政5年(1858)には日米修好通商条約が結ばれましたが、日本の関税自主権は認められず、明治政府は、関税を新たな財源とすることが出来ませでした。
 維新直後の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などを財政基盤としました。そこで年貢による税制度を改革し、全国統一の安定した税源を確保することが急務となりました。
 明治政府は、五箇条の御誓文により「公議輿論」のもと、議事機関として公議所を設置しました。公議所は、各藩から1名が任命された公議人から成り、税制改正など重要案件について諮問しました。明治政府に全国の農業者の税負担を軽減することなどの意見が多く寄せられました。
 公議所で、神田孝平(岩手出身、幕府開成所教授、御用掛、新政府に出仕し兵庫県令、考古学会の先駆者,東京人類学会初代会長)や陸奥宗光(紀伊藩士、脱藩して国事に奔走、外相として条約改正や下関条約締結に貢献)などから地価に一律に課税する方式が提言されました。これらの提言をもとに明治6年、全国の府県知事を集めた地方官会同の審議を経て、明治政府は地租改正に着手しました。
明治4年7月、各藩を廃し、府県に改めることにより、日本が近代的集権国家体制としました。長州藩の木戸孝允は最も積極的で、すでに明治2年、版籍奉還が実現しましたが、実質的には藩体制が存続しておりました。それは、「藩治職制」と「府藩県三治制」です。「藩治職制」は、明治元年10月28日に公布された明治政府の職制です。諸藩でまちまちの職制を,藩主、執政、参政、公議人などの職制に統一しました。 「府藩県三治制」は、従来の藩は暫定的にそのまま存続し、旧幕府直轄領については,初め「鎮台」、次いで「裁判所」の名称が付され、慶応4年閏4月「政体書(政府組織理、官制などの法令」が公布されて裁判所はさらに府および県と改称され,江戸府など主要な9地方(東京府、大阪府など)は府の名称を与えられ,藩、県の三治制としました。
明治2 年6月の版籍奉還で、従来の藩主は知藩事となり,次いで7月、府は東京、大阪、京都だけで,他は藩および県とされ,同4年7月の廃藩置県で3府302県となりましたが、その後43県に整理されました。府,県の職制は,知事,大参事,小参事,大属,少属,史生などであって,版籍奉還後は藩の職制もこれにならって改称されました。明治政府、さらに実質的廃藩に踏切るための準備を進め、明治3年9月藩制改革を命じて課税権を確立し,次いで武士に威望のある薩摩藩の西郷隆盛を参議とし,薩長土3藩により、同4年4月、1万人の政府軍(親兵)を統率する西郷隆盛の率いる陸軍が編制されました。
これに肥前藩が加わり、7月詔勅をもって全国諸藩の制度の廃止を布告しました。反対する藩は武力で討伐する決意をしましたが、意外にもこの布告は抵抗なく受入れられました。素因は、財政窮迫に苦しむ藩が多く、政府が債務を継承するとの条件で異議をいだく理由がなくなりました。
この結果、全国は府県の行政単位に統一され、旧藩知事はすべて華族に列し、東京移住を命じられ、代って政府から新たな府知事、県令がそれぞれ任命されて、ここに中央集権国家体制が確立しました。
福島県は、明治2年、初代知事に清岡公張(高知県)、明治5年、2代宮原積(鳥取県)、明治5年、3代安場保和(熊本県)、明治8年、4代山吉盛典(山形県)、明治9年8月21日に福島県、若松県と、磐前県とが合併され、明治15年、5代三島通庸(鹿児島県)は、高圧的施策で地方開発を強行して、福島事件、加波山事件を起こし、自由民権運動を弾圧しました。鬼県令三島は、明治16年に栃木県令も兼任しました。県知事、県令は絶対的な権力を持っておりました。
(つづく)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(21話)
サブタイトル 渋沢栄一と鉄道、電信電話
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治3年3月14日、渋沢栄一( 32歳)は、大蔵省改正掛の立案に基き「電信機、蒸気車」建設の発義がなされ、渋沢栄一は改正掛長(局長)として裁可しました。
明治2年、政府は官営による鉄道建設を検討しておりました。 渋沢栄一は慶応2年、徳川慶喜公の命によりパリ万博で汽車に試乗し、文明の利器を知りました。大隈志重信、伊藤博文の発義により鉄道,電信建設を進めました。世論は大反対でしたが、改正掛長(局長)として計画を進めました。
慶応3年、幕府老中、外国事務総裁、小笠原長行は、アメリカ領事館書記官のアントン、ポートマンに江戸、 横浜間の鉄道設営の免許を与えました。この免許はアメリカ側に経営権のある「外国管轄方式」でした。明治政府は、アメリカ側に「この書面の幕府側の署名は、新政府発足後のもので外交的権限を有しない」と却下しました。
その後、新政府は鉄道建設について検討が行われ、明治2年11月に自国管轄方式による新橋、横浜間の鉄道建設を決めました。しかし、明治政府は、自力の建設は無理で、技術や資金の援助を鉄道発祥国イギリスに求めました。日本の鉄道について提言した駐日公使ハリー・パークス(薩摩、長州の武力討幕派を援助し,明治維新の立役者)の提言がありました。鉄道起業は、大隈重信、伊藤博文の2人の議によるものです。その計画は東京、京都を連絡し神戸に達する幹線を布き、別に敦賀と横浜とに支線を設けるものです。第1次として東京、横浜間の工事に、経費50万円を計上しましたが、財源を得るために、イギリス人、レーの提議を入れ、海関税(輸入貨物に課せる租税)抵当とし100万円を予算計上しました。
明治3年、イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し本格的な工事が始まりました。明治4年に井上勝(長州藩士、伊藤博文らと密航した長州5傑の1人、ロンドン大学で鉱山、土木工学を学ぶ、日本の鉄道の父)により、明治5年(新暦10月14日)に、新橋駅 、 横浜駅間が開業しました。
鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上し、運賃収入の大半は旅客収入によるものでした。 
開業時に輸入されたイギリス制のバルカン社製1号機関車は、国際標準軌 (1,435 mm) より狭い狭軌の1,067 mmでした。車両は全てイギリス制でした。
軌間が広いほど大きな列車を速く走らせることができます。しかし、建設費がかさむことが欠点でした。特に軌間が大きいほどカーブを大きく取る必要があり、山国の日本では標準軌は建設費として無理でした。 
機関士は外国人で、運行ダイヤ作成もイギリス人のページに一任しました。これらの外国人技術者は「お雇い外国人」と呼ばれ、高給を取っていました。京阪神地区の代理人兼運輸長に就任したページには月給500円で、これは当時日本側で鉄道のトップの鉄道局長の350円より高額でした。
鉄道建設には、高額な建設資金が必要です。明治政府は、全国の鉄道建設のため民間人の建設資金を当てることにしました。
明治16年に現在の東北本線が着工し、明治20年7月16日郡山まで開通しました。
渋沢栄一は、後年民間人となり、福島県知事、日下義雄の提案により自からも出資し
明治39年磐越西線の建設を進めております。
1854年に再度来航したペリーが幕府に献上した電信機によって、日本人はエレキテルの応用である電信技術を知りました。
重要性を熟知していた明治政府は、明治元年に電信の官営を廟議決定し、電信電話事業は、明治2年12月、東京、横浜間で「電報」の取り扱いが開始されました。明治2年政府が鉄道布設を決める際、渋沢栄一は、電信布設の急務を説得しました。
明治3年1月に、東京、熱海間で市外電話の取り扱いが開始され、同年12月には東京、横浜間で電話交換業務が開始されました。創業当初の加入者数は、東京155軒、横浜42軒との記録があります。
(つづく)



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