福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話渋沢栄一の生涯28話~35話

2021年10月08日 | 渋沢栄一の生涯
タイトル  「青天を衝け」と渋沢栄一(28話)
サブタイトル 渋沢栄一と東京商法会議所
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一は、個々の会社を組織化することが必要であると思いました。経済界の人たちが積極的に交流することは、彼らの社会的地位も向上すると考え、銀行業界の親睦を図るための「銀行集会所」、銀行や会社の株式を売買するための「株式取引所」、商工業者が意見交換する場「商法会議所(現東京商工会議所)」を設立しました。
明治5年の「国立銀行条例」によって設立された銀行は、金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持っていました。やがて不換紙幣の発行も認められ、銀行は急増し、明治12年には全国で153の国立銀行が開設されました。
しかし、経営法は暗中模索の時代で、渋沢栄一は、明治10年、銀行家が相互に親睦を深め事業の発展を図るため、銀行業界の状況、国内の動き、海外銀行の経営実態、貿易の現状、為替の変動など、それぞれが持論や見解を述べ、互いに知識を高めあう勉強会を立ちあげました。
渋沢の愛読書論語の「善き者を択んでこれに従う」から採って「択善会」と命名しました。
第1回択善会は、兜町の第1国立銀行で開かれ、加盟銀行は当初11銀行でした。明治13年、親睦団体の銀行懇親会と合併し、「東京銀行集会所」となり、渋沢は、創立委員長に就きました。
明治7年、株式取引所条例が制定されましたが、時機未だ熟せず、市場の開設を見るに至りませんでした。明治10年、国立銀行が各地に起り、銀行紙幣の発行に対する保証用の公債証書の需要が盛んになり、有価証券売買取引に関する公開市場が必要となり、商法会議所が誕生しました。
 渋沢栄一は、小松彰(松本藩士、佐久間象山に師事、河井継之助と交遊、文部大丞、東京米商会所頭取)、益田孝(佐渡奉行下役、幕府の使節で渡仏、大蔵省造幣権頭、三井財閥の大番頭、三井物産社長、茶人,美術愛好家)、三井養之助(三井家の本村町家初代、大蔵省の吉田清成に随行し、アメリカで銀行業務を視察)氏等の有力者95名に相談し資本金20万円で株式取引所を設立しました。
 渋沢栄一は、東京商法会議所(昭和3年、東京商工会議所)を日本の実業界の地位を向上させる好機と捉え、「実業界の問題を多数の人々が相談し、公平無私に日本の商工業の発展を図らなければならない」と考え、明治11年「東京商法会議所が発足し,同年に大阪と神戸にも商法会議所が誕生しました。
東京商法会議所は、渋沢栄一、益田孝、福地源一郎(肥前藩士、幕府の通訳で渡欧し、大蔵省に出仕し,岩倉遣外使節に随行、東京日日新聞主筆、立憲帝政党を結成、戯曲、小説家)、大倉喜八郎(越後新発田の人、幕末武器商人,陸海軍の御用商人、大倉商業学校(東京経済大学)、ホテルオークラ)らが、設立を出願し、明治11年3月に認可され、38才の渋沢栄一が初代会頭に就任しました。2代は中野武営(高松藩士、農商務省権少書記官、明治14年の政変で大隈重信、河野敏鎌らと辞職、改進党創立に尽力、衆議院議員、関西鉄道会社社長)、3代は、藤山雷太(佐賀藩士、福沢諭吉門下、大日本製糖会社、政治家の藤山愛一郎は長男)が就任しました。
明治10年1月30日、西郷隆盛の私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取、西南戦争となり、9月24日、城山の戦いで、西郷隆盛らが自刃し、激動の時代でした。

(つづく)

タイトル  「青天を衝け」と渋沢栄一(28話)
サブタイトル 渋沢栄一と森有礼
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

 渋沢栄一は、明治の日本国を支える人材を育てるため、早稲田大学、東京大学、日本女子大学、明治大学、青山学院大学、同志社大学、津田塾大学、慶応大学、東北学院大学など生涯30の学校を設立し、支援しました。
渋沢栄一は、初めに森有礼と商法講習所(現一橋大学)を設立しました。
薩摩藩士、森有礼は、慶応元年、藩命により同藩士、五代友厚らとイギリスのロンドン大学に留学し、イギリス資本主義の繁栄を体験し、明治3年から米国代理公使として南北戦争直後のアメリカの経済発展を目の当たりにしました。
国家独立の基礎は経済の富強にあり、そのためには国家による経済人の育成が不可欠であると痛感しました。
森は、明治政府に出仕し、廃刀論を提案し一時免官されました。
明治3年、再度渡米し教育事情を視察し、明治6年「明六社」を創設し社長となり啓蒙思想を広めました。
森有礼は、明治18年、第1次伊藤博文内閣で初代文部大臣となり,帝国大学令、専門学校令、諸学校令を制定し、明治憲法下の教育制度を確立しました。
明六社は、アメリカから帰国の森有礼が、福澤諭吉、加藤弘之、中村正直、西周、西村茂樹らと共に明治6年秋に啓蒙活動を目的として結成しました。明六社とは、明治6年結成の由来です。
会員には旧幕府官僚で、昌平坂学問所の関係者と慶應義塾門下生の「官民調和」で学識者等で構成されました。また、旧大名、浄土真宗本願寺派や日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など日本の錚々たるメンバーが参加しました。
機関誌『明六雑誌』を発行し、開化期の啓蒙に指導的役割を果たしました。その後、明六社は、38歳の福澤諭吉を初代会長、2代会長が西 周で東京学士会院、帝国学士院を経て、戦後の「日本学術会議」の歴史につながります。

帰国した森有礼は、富国強兵のために、人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考え、欧米で見聞してきた「学会」を日本で初めて創立させました。
会員は、「定員」「通信員」「名誉員」「格外員」に分け、論文数は156編に及びました。明治初期の精神を映した論考であり、発行部数は月平均3200部に達しました。
明治8年9月になり、文部省直轄の東京学士院、帝国学士院へと移行しました。
森有礼は、明治8年、東京商法講習所開設にあたり、ニューヨーク副領事であった富田鉄之助(仙台藩士、日本銀行初代副総裁、第2代総裁、東京府知事)と計り、富田の恩師W・C・ホイットニーを 教師として日本に招き、商業学校設立に尽力します。森は官立学校を希望しましが文部卿に拒否されました。
そこで渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟等の賛同を得て、明治8年まず私立商法講習所を銀座尾張町の鯛味噌屋の二階(銀座松坂屋、記念碑あり)を仮校舎として設立し、翌年、木挽町に移転しました。
授業内容は英語、ホイットニーの複式簿記、算術、欧米の商慣習等です。
一橋大学は、渋沢の東京会議所(東京商工会議所)や東京府立を経て明治17年、農商務省に移管され国立の東京商業学校となりました。
明治18年に本校を神田一ツ橋に移ります。一橋大学は、東大を初めとする旧帝大の官吏養成と異なり、主として民間の経済発展を担う人材を養成し、特色のある卒業生を多数政財界に輩出しております。
(つづく)


タイトル  「青天を衝け」と渋沢栄一(29話)
サブタイトル 渋沢栄一と夏目漱石
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一が支援した教育機関は、実業教育48校、女子教育27校、その他89校、合計で164校にも及びました。
実業教育で渋沢は、森有礼と商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、高千穂学校(現高千穂大学)の評議員、二松学舍(現二松学舍大学)の第3代舎長(学長)となり教育の普及に努めました。 
国士舘大学(創立者、柴田徳次郎・日本の保守思想家、)を設立し、経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者、新島襄)への寄付金の取り纏めに関わりました。 
渋沢は、男尊女卑の差別の時代、女子教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、日本女子大学、東京女学館の設立にも携わりました。
東京女学館は「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を図る女学校として開校しました。内閣総理大臣伊藤博文が創立委員長となり、政・財・官界の有力者、渋沢栄一(実業家)、岩崎彌之助(実業家)、外山正一(東京帝国大学総長)、ジェームズ・ディクソン(東京帝国大学英語教授)らが設立委員を務めました。創立130年、女子教育の名門校として知られています。
渋沢は、 明治14年から3ヶ年間、 東京大学文学部講師として「日本財政論・銀行および手形」を講義し、東大生に多大の感銘を与えております。
また、渋沢は、二松学舎の第3代舎長となりました。創立者の三島中洲は備中松山藩士で、渋沢と論語を通して親交があり学長となりました。三島は、14歳で陽明学を、昌平黌の佐藤一斎、安積艮斎に学び、幕府老中の備中藩主板倉勝靜と激動の幕末を体験しました。新政府の命により、大審院判事(最高裁判所判事)を務め、明治10年、官を辞し「漢学塾二松学舎」を創設しました。宮中顧問官となりました。
渋沢は、漢文や論語を軸とした教育理念が一致し、「論語」の倫理思想を現代的に解釈し、「道徳経済合一説」を説き、これが三島の思想ともあい合い、第3代二松学舎長に就任し、二松学舎の発展に尽力しました。
 明治の文豪夏目漱石も、漢文を学ぶため二松学舎に入学しました。
 英文学の漱石にとって、少年時代、漢学塾二松学舎で学んだことが、小説における儒教的な倫理観や東洋的美意識を磨いたと云われています。漢詩や俳句を多く残した漱石の二松学舎時代に、明治 14年4月、夏目漱石(夏目金之助)は、二松学舎の門を叩きました。その年の「二松学舎入学者名簿」には「塩原金之助」の名が記載されています。
明治後半に女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてうも、漢文を習いに足を運びました。
 二松学舎は、日本女子大学や津田塾大学より、早い段階から女子を受け入れていたことが分かります。
二松学舎に学んだ柔道の嘉納治五郎がいます。偉大な教育家で、スポーツの発展に功績を遺したことでも知られています。
 日本女子大学は成瀬仁蔵(毛利藩士、キリスト教牧師)は、明治29年から創立に着手し、明治34年開校しました。
渋沢栄一は、設立発起人に加わり、第1回発起人会では創立委員および会計監督を引き受け、建築委員および教務委員も引き受けています。
 栄一は学校の運営資金について、27,500円(約5億5千万円)を寄付し、学生寮も寄付しております。
(つづく)


タイトル「青天を衝け」と渋沢栄一(30話)
サブタイトル 渋沢栄一と民間欧米外交①
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一の偉業は、欧米との民間親善外交を推進したことです。
栄一は生涯に4度、渡米しています。最初の渡米は明治35年、このとき第26代セオドア、ルーズベルト大統領と会談をしました。
 明治35年4月5日 、栄一は欧米漫遊を計画します。政財界主催「渋沢男爵欧米漫遊送別会」が連日開かれ、4月8日、商工会議所主催(会長大倉喜八郎)帝国ホテルで、12日、清水組、清水満之助主催、18日、伯爵井上馨主催、25日、男爵尾崎三良主催、30日、三井男爵家主催、5月5日、内閣総理大臣伯爵桂太郎主催、12日東京市長松田道之主催の送別会等で、連日連夜、25回開催されました。 
5月15日、 栄一は兼子夫人を同伴し、東京を発し横浜港を出帆しました。
9日間で23日、ハワイ着。在留邦人商人同志会の歓迎会に出席し、24日出帆、サンフランシスコに向い、5月30日 、サンフランシスコ着。6月3日、同地発、8日、シカゴ着。
10日、シカゴを発し、ピッツバーグ、フィラデルフィアを経て、13日、ニューヨークに向い、6月13日、 ニューヨーク着。15日、同地発、ワシントンに着。16日、ホワイトハウスでセオドア、ルーズベルト大統領に拝謁しました。大統領が官命の無い外国人を引見するは異例であると云われました。
大統領は、日本の美術の精妙と軍隊の勇武を褒め讃えました。栄一は「日本の軍隊と美術を称賛する大統領に対し、日本の商工業についても褒めていただけるよう努力します」と応えました。
セオドア、ルーズベルト大統領は、南部出身の軍人で「第25代副大統領、第26代大統領」を勤めました。第2次大戦時の第32代フランクリン・ルーズベルト大統領は5従弟(12親等)で、フランクリンの妻エレノアはセオドアの姪にあたります。
セオドア、ルーズベルトはその精力的な個性、業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップ、「カウボーイ」的な男性らしさで知られています。
共和党のリーダーで、短命に終わった革新党の創設者でもあり、大統領就任までに市、州、連邦政府での要職に在籍し、軍人、作家、ハンター、探検家、自然主義者としての名声も高い人物です。
マウントバーノンはバージニア州アレクサンドリア近くで、合衆国初代大統領ジョージ、ワシントンのプランテーションがあった所です。国定歴史建造物、木製の邸宅は新古典主義ジョージア調建築様式であり、地所はポトマック川の堤にあります。
国祖ワシントンは、軍人、政治家で初代大統領になりました。妻のマーサ・ワシントンは貞淑で公式の儀式をきちんと行い先例を開き、初代ファーストレディとなりました。
渋沢夫婦はワシントンの墓に詣で、同夜出発して17日ニューヨークに帰着。
6月17日、日清戦争後、石油ガスの需用が大に増加しました。会社資本金420万円を倍額増資して840万円とし、事業を拡張しょうとしました。増加資本は海外より調達します。栄一は、欧米巡遊を機とし、ニューヨーク市でコンソリデーテツドガス瓦斯会社社長ブレジーと会い増資株引受について直接の交渉を行いました。この時は、協議が整はず不成立でした。 
21日、同地を発してナイアガラの滝は見物しています。
23日、再びニューヨークに帰り、24日ニューヨーク商業会議所会頭ジェサプ、委員長スミス主催の歓迎会に出席し、今後両国商工業者の交流を益々親密にしなければと力説しました。
7月2日 栄一は、ニューヨークを発してイギリスに向かいました。 
(つづく)
写真  渋沢栄一が訪問したホワイトハウス(明治30年代)


タイトル  「青天を衝け」と渋沢栄一(31話)
サブタイトル 渋沢栄一と夏目漱石
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一が支援した教育機関は、実業教育48校、女子教育27校、その他89校、合計で164校にも及びました。
実業教育で渋沢は、森有礼と商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、高千穂学校(現高千穂大学)の評議員、二松学舍(現二松学舍大学)の第3代舎長(学長)となり教育の普及に努めました。 
国士舘大学(創立者、柴田徳次郎・日本の保守思想家、)を設立し、経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者、新島襄)への寄付金の取り纏めに関わりました。 
渋沢は、男尊女卑の差別の時代、女子教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、日本女子大学、東京女学館の設立にも携わりました。
東京女学館は「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を図る女学校として開校しました。内閣総理大臣伊藤博文が創立委員長となり、政・財・官界の有力者、渋沢栄一(実業家)、岩崎彌之助(実業家)、外山正一(東京帝国大学総長)、ジェームズ・ディクソン(東京帝国大学英語教授)らが設立委員を務めました。創立130年、女子教育の名門校として知られています。
渋沢は、 明治14年から3ヶ年間、 東京大学文学部講師として「日本財政論・銀行および手形」を講義し、東大生に多大の感銘を与えております。
また、渋沢は、二松学舎の第3代舎長となりました。創立者の三島中洲は備中松山藩士で、渋沢と論語を通して親交があり学長となりました。三島は、14歳で陽明学を、昌平黌の佐藤一斎、安積艮斎に学び、幕府老中の備中藩主板倉勝靜と激動の幕末を体験しました。新政府の命により、大審院判事(最高裁判所判事)を務め、明治10年、官を辞し「漢学塾二松学舎」を創設しました。宮中顧問官となりました。
渋沢は、漢文や論語を軸とした教育理念が一致し、「論語」の倫理思想を現代的に解釈し、「道徳経済合一説」を説き、これが三島の思想ともあい合い、第3代二松学舎長に就任し、二松学舎の発展に尽力しました。
 明治の文豪夏目漱石も、漢文を学ぶため二松学舎に入学しました。
 英文学の漱石にとって、少年時代、漢学塾二松学舎で学んだことが、小説における儒教的な倫理観や東洋的美意識を磨いたと云われています。漢詩や俳句を多く残した漱石の二松学舎時代に、明治 14年4月、夏目漱石(夏目金之助)は、二松学舎の門を叩きました。その年の「二松学舎入学者名簿」には「塩原金之助」の名が記載されています。
明治後半に女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてうも、漢文を習いに足を運びました。
 二松学舎は、日本女子大学や津田塾大学より、早い段階から女子を受け入れていたことが分かります。
二松学舎に学んだ柔道の嘉納治五郎がいます。偉大な教育家で、スポーツの発展に功績を遺したことでも知られています。
 日本女子大学は成瀬仁蔵(毛利藩士、キリスト教牧師)は、明治29年から創立に着手し、明治34年開校しました。
渋沢栄一は、設立発起人に加わり、第1回発起人会では創立委員および会計監督を引き受け、建築委員および教務委員も引き受けています。
 栄一は学校の運営資金について、27,500円(約5億5千万円)を寄付し、学生寮も寄付しております。
(つづく)


タイトル「青天を衝け」と渋沢栄一(32話)
サブタイトル 渋沢栄一と社会貢献活動
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一は、民間外交と共に、社会、公共事業にも献身的に貢献しました。栄一が関係した事業は約600とも云われています。
渋沢は、実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の院長を務めたほか、東京慈恵会、済生会、博愛社「日本赤十字社」、日本結核予防協会、癩予防協会の設立などに携わり聖路加国際病院の初代理事長なども務めました。 
栄一は、明治初年に救貧事業で、多くの福祉、医療事業に力を尽しました。これらの事業は、個人的慈善、救済活動から社会事業と移り変わっていく時代に、福祉、医療事業の運営や財政的支援に大きな役割を果たしました。 
 明治5年、東京の困窮者の救済を目的に、公的施設「養育院」が創設され、栄一は、初代院長となり、亡くなるまでの約60年間、職務を全うしました。幼少年の感化を必要する「東京感化院慈善会」なども設置しました。   
博愛社(日本赤十字社)は、慶応3年、佐野常民(佐賀藩主)はパリ万国博覧会に佐賀藩団長として参加しました。そして常民はスイス人アンリ・デュナンが提唱する赤十字を知りました。
パリ万博の幕府代表団に、赤十字運動の先駆者とされる高松凌雲がいます(第11話、栄一と幕府医学留学生に詳細)。凌雲は西洋医学の知識と語学力が評価されて幕府随行医に選ばれました。 
パリには、日本赤十字社の設立に携わった渋沢栄一やシーボルトも滞在しました。万博を終え、凌雲は留学生としてパリに残ります。常民と凌雲は、共に緒方洪庵が大阪に開いた蘭学の私塾「適塾」の門下生です。
常民は、明治6年のウィーン万国博覧会に事務副総として多数の技術者を率いて渡欧し、その貴重な体験をまとめた膨大な報告書は、明治政府の近代化の指針となりました。
常民は、欧米を視察中の岩倉使節団と国際赤十字の本部であるジュネーブを訪ね、政府に国際赤十字の組織と活動の報告をしました。
明治10年5月西南戦争の際、佐野常民、大給恒(三河国奥殿藩主、江戸幕府の老中)等の主唱により、戦地の傷病者を敵味方の別なく救護する目的で博愛社が創立されました。渋沢も日本赤十字社などの設立、支援に携わりました。
明治の初め、東京の困窮者、病人、孤児、老人、障害者の保護施設として福祉事業の原点ともなる養育院が設立されました。 
養育院の創立は、東京府知事大久保一翁が幕府の目付(会計総裁)の時に立案しました。養育院の設置資金は、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金「七分積金」です。 
明治政府になり、七分積金の管理を担当したのが渋沢栄一でした。渋沢は、幕府主席老中、白河藩主の松平定信公の政策(寛政の改革)を学び崇拝し、定信公を祀った白河市の南湖神社の造営に尽力し、大正11年6月竣工、鎮座大祭が執行されました。
松平定信、大久保一翁、渋沢栄一と受け継がれてきた江戸、東京の福祉事業は、板橋の東京都健康長寿医療センターにつながっています。東京養育院(現在の東京都高齢者施策推進室)は、今日、高齢化社会先駆的役割を果たしております。
医療センターの入口に渋沢栄一の銅像が建っています。大正14年に制作され、栄一本人も出席して除幕式が行われました。
(つづく)

タイトル「青天を衝け」と渋沢栄一(33話)
サブタイトル 渋沢栄一と民間欧米外交①
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一の偉業は、欧米との民間親善外交を推進したことです。
栄一は生涯に4度、渡米しています。最初の渡米は明治35年、このとき第26代セオドア、ルーズベルト大統領と会談をしました。
 明治35年4月5日 、栄一は欧米漫遊を計画します。政財界主催「渋沢男爵欧米漫遊送別会」が連日開かれ、4月8日、商工会議所主催(会長大倉喜八郎)帝国ホテルで、12日、清水組、清水満之助主催、18日、伯爵井上馨主催、25日、男爵尾崎三良主催、30日、三井男爵家主催、5月5日、内閣総理大臣伯爵桂太郎主催、12日東京市長松田道之主催の送別会等で、連日連夜、25回開催されました。 
5月15日、 栄一は兼子夫人を同伴し、東京を発し横浜港を出帆しました。
9日間で23日、ハワイ着。在留邦人商人同志会の歓迎会に出席し、24日出帆、サンフランシスコに向い、5月30日 、サンフランシスコ着。6月3日、同地発、8日、シカゴ着。
10日、シカゴを発し、ピッツバーグ、フィラデルフィアを経て、13日、ニューヨークに向い、6月13日、 ニューヨーク着。15日、同地発、ワシントンに着。16日、ホワイトハウスでセオドア、ルーズベルト大統領に拝謁しました。大統領が官命の無い外国人を引見するは異例であると云われました。
大統領は、日本の美術の精妙と軍隊の勇武を褒め讃えました。栄一は「日本の軍隊と美術を称賛する大統領に対し、日本の商工業についても褒めていただけるよう努力します」と応えました。
セオドア、ルーズベルト大統領は、南部出身の軍人で「第25代副大統領、第26代大統領」を勤めました。第2次大戦時の第32代フランクリン・ルーズベルト大統領は5従弟(12親等)で、フランクリンの妻エレノアはセオドアの姪にあたります。
セオドア、ルーズベルトはその精力的な個性、業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップ、「カウボーイ」的な男性らしさで知られています。
共和党のリーダーで、短命に終わった革新党の創設者でもあり、大統領就任までに市、州、連邦政府での要職に在籍し、軍人、作家、ハンター、探検家、自然主義者としての名声も高い人物です。
マウントバーノンはバージニア州アレクサンドリア近くで、合衆国初代大統領ジョージ、ワシントンのプランテーションがあった所です。国定歴史建造物、木製の邸宅は新古典主義ジョージア調建築様式であり、地所はポトマック川の堤にあります。
国祖ワシントンは、軍人、政治家で初代大統領になりました。妻のマーサ・ワシントンは貞淑で公式の儀式をきちんと行い先例を開き、初代ファーストレディとなりました。
渋沢夫婦はワシントンの墓に詣で、同夜出発して17日ニューヨークに帰着。
6月17日、日清戦争後、石油ガスの需用が大に増加しました。会社資本金420万円を倍額増資して840万円とし、事業を拡張しょうとしました。増加資本は海外より調達します。栄一は、欧米巡遊を機とし、ニューヨーク市でコンソリデーテツドガス瓦斯会社社長ブレジーと会い増資株引受について直接の交渉を行いました。この時は、協議が整はず不成立でした。 
21日、同地を発してナイアガラの滝は見物しています。
23日、再びニューヨークに帰り、24日ニューヨーク商業会議所会頭ジェサプ、委員長スミス主催の歓迎会に出席し、今後両国商工業者の交流を益々親密にしなければと力説しました。
7月2日 栄一は、ニューヨークを発してイギリスに向かいました。 
(つづく)


タイトル「青天を衝け」と渋沢栄一(34話)
サブタイトル 渋沢栄一と民間欧米外交②
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

明治35年、7月2日、渋沢栄一は民間外交の推進のため、ニューヨークよりイギリスに向い、7月10日、リヴァプールに着き、ロンドンに入りました。
25日、ロンドン商業会議所は、渋沢のために臨時総会を開きました。渋沢は、日本経済界発達の現状を述べ、清国、韓国両国の事業を拡張するため、イギリスの協同協力を求める旨の演説をしました。
渋沢は、7月30日より9月20日まで欧州を視察しました。ロンドンよりスコットランド、ベルギー、ブラッセル、ドイツに入り、ベルリン商業会議所会頭のヘルツ邸を訪問し、日本との貿易問題の意志疎通を図りました。ハンブルグ、イギリス、パリに入り、リヨンに着き、ローマに入りました。 
9月20日 、ローマを発し、ブリンヂシより乗船し、ポートサイド、コロンボ、シンガポール、香港を経由し、10月30日、神戸に上陸し、31日帰京しました。
明治時代にアメリカ移民の日本人は差別を受けました。日本人は魚を生で食べる野蛮な人種とされ肉体労働の仕事をしました。
明治39年、サンフランシスコ大地震で、学校が被災し教室が不足し、日本人学童は公立学校から閉め出され、東洋人学校への転校を余儀なくされました。
こうした状況を危惧した外務大臣、小村寿太郎は渋沢に、民間の力で日米関係を改善してほしいと依頼を受けました。
渋沢は、明治41年、東京、大阪、京都などの商業会議所の主催でアメリカの実業家たちを日本に招きました。
米国からの「太平洋沿岸実業団」は、サンフランシスコから委員長のネサンードルマン社長のネサン、ドルマン、ハワイからハワイ銀行頭取のR・ダラー、サンフランシスコからロバートダラー汽船社長A・ケンダルなどです。
訪日実業団は、東京、日光、横浜、京都、奈良、大阪、神戸を訪問し親善を深め、渋沢は飛鳥山の自宅に招き親善に努めました。
明治42年、日本から「渡米実業団」が訪米しました。渋沢を団長する民間代表団は、東京、大阪などの商業会議所の主要メンバーを中心に組織され、団長、渋沢栄一、東京商業会議所会頭(関西鉄道社)中野武営、東京商業会議所副会頭(鐘淵紡績社)日比谷平左衛門、大阪商業会議所会頭(大阪電灯社)土居通夫、京都商業会議所会頭(衆議院議員)西村治兵衛など民間人50余名です。 
 渡米実業団は、シアトルなど4つの商業会議所の招きにより、8月31日から12月1日までの約3か月にわたり、アメリカの主要都市を訪問しました。
各地で歓迎を受けながら産業、経済をはじめ政治、社会福祉、教育など多岐にわたる施設や機関を視察し、25の州、60の都市に及びました。
渡米実業団は、それぞれの都市の商業会議所において、東アジア(特に中国市場)での平和裏の競争、資本、技術提携の可能性について率直に意見を交換しました。
ニューポートで、東インド艦隊総督ペリー将軍の墓参、シカゴの発明王トーマス・エジソン、鉄道王ジェームズ・ヒルなど各界の実力者だけでなく、第27代合衆国大統領ウィリアム・タフトとも会談しました。
貿易摩擦の解消を目的とした日米実業団の相互訪問は両国経済界のパイプづくりに大きく貢献し、互いに相手国の重要性を再認識する契機となりました。

写真 ニューポートのペリー総督の墓参

タイトル  「青天を衝け」と渋沢栄一(35話)
サブタイトル 渋沢栄一のめざしたもの①
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

渋沢栄一は、生涯に約500の企業と約600の社会福祉事業に関わりました。「近代日本創設者、資本主義の父」と称され「道徳経済合一説」を説き、現在の「東京商工会議所」の初代会頭も務ました。『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出しました。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身も心がけた。 

大きな功績を残したその人生は、天保11年(1840)に、現在の埼玉県深谷市に生まれ、少年期より家業を手伝うかたわら7歳になると隣村の従兄の尾高惇忠の許へ通い、四書五経のほかにも『国史略』『日本外史』なども学びました。
青年期に幕臣としてパリ万博の使節員として欧州諸国を見聞した経験が、より一層、官尊民卑打破の考えを強くし、合本組織による事業経営という考えに到達しました。
合本組織とは、「個人主義に基づく利潤の追求ではなく、国家社会全体の利益、すなわち公益を増加させることを第一とし、最も適した人材と資本を集めた組織のこと。したがって、組織形態は必ずしも株式会社ではなくてもよく、会社の目的を達成するために適した組織」を意味しています。
欧州から帰国後、一時期、民部、大蔵省に任官しますが、民間人として企業の創設、育成のほか、教育機関、社会福祉事業の支援に尽力しました。民間経済外交の先駆者としての活動等の功績により、大正15年、昭和2年、2度にわたってノーベル賞の候補となっております。
社会事業に熱心だった渋沢栄一は、東京養育院の院長を務めるとともに、東京慈恵会や日本赤十字社などの設立、支援に携わりました。

大正12年 83歳の渋沢は、関東大震災では、「東京商工会議所」のビル内に「大震災善後会」を創立し副会長(会長徳川家達)となり、被災者救済を支援し、寄付集金にも奔走しました。
教育面では、森有礼の商法講習所(現一橋大学)や大倉喜八郎の大倉商業学校(現東京経済大学)を支援、発展させました。また東京女学館や日本女子大学校にも深く関わり、女子教育に尽力しております。
また、「東京商工会議所」を通じて、不平等条約の改正のため、アメリカ合衆国経済使節団「渡米実業団」の団長も務めるなど、民間人として多くの活動に携わっております。
渋沢は、心から「世界の平和」を願い、国際連盟の加入にも尽力しました。 渋沢は、「日本太平洋問題調査会」の会長として井上準之助、新渡戸稲造、高木八尺らと軍国主義へ向かう政治を阻止し、平和友好の道を懸命に追求したのです。渋沢の発言は現代の国際政治やこの国の行方に重要な示唆を与えています。
昭和2年、 87 歳の渋沢は、日本国際児童親善会を創立し会長となり、雛祭りに向けて米国の子ども達から、日本に11970体の青い目の人形が、福島県には323体のアメリカ人形が 贈られました。
渋沢は、日米親善人形歓迎会を主催し、クリスマスに向けて58体の日本人形を米国に贈りました。
日本人形交換は米国の排日移民法の成立により日米の親善のために企画されたものです。
 今、世界は、いたるところで、戦争があり、貧困があります。
新自由主義経済を進めてきた、経済界は、平成の大不況リーマショック後、渋沢栄一の道徳経済合一説は識者、経済界の間で脚光を浴び、また、新コロナ感染後の経済再生の基本理念として渋沢の理念が広く支持されています。

(完)




 



余話渋沢栄一の生涯22話~27話

2021年10月08日 | 渋沢栄一の生涯
タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(22話)
サブタイトル 渋沢栄一と富岡製糸場  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
 江戸時代末期、鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めました。その当時最大の輸出品は生糸です。生糸の輸出が急増したことにより需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられ粗製濫造問題がおきました。諸外国から生糸の品質改善の要求、外国資本による製糸工場の建設の要望が出されました。
 明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善と生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場を群馬県富岡(富岡市富岡1番地1)の地に建てることにしました。富岡製糸場の設立にあたって、明治3年大蔵少輔、伊藤博文、租税正、渋沢栄一が命ぜられ、フランス人ブリューナーを雇入れて創業に当たりました。農家出身で蚕桑や蚕種に詳しかった渋沢栄一は、富岡製糸場設置主任に任命されます。工場建設並びに操業開始に尽力したのは当時民部省に出仕していた従兄の尾高惇忠です。惇忠は富岡製糸場の設置を命じられ、建設用地の選定から携わりました。
工場建設の資材、即ち木材からレンガの製造、組立まで努め、工女募集についても自らの子女を率先して応募させました。 
従兄の尾高惇忠は、漢籍などの学問を少年渋沢栄一に教授し、高崎城乗っ取りの謀議、横浜街焼き討ち計画し、彰義隊に参加し箱館まで転戦したサムライです。また、惇忠の妹、千代は栄一の妻です。
  建築資材のレンガや、レンガを接着するモルタルは、当時の日本ではほとんど知られていませんでした。レンガづくりは地元深谷市の韮塚直次郎に依頼して、瓦職人たちにより甘楽町福島の窯で焼き上げ、モルタルは同郷の左官職人である堀田鷲五郎、千代吉親子により日本固有の漆喰を改良して仕上げるなど、苦難の末、富岡製糸場は無事完成しました。着工は、明治4年3月、竣工は、明治5年7月(主要部分)、創業は、明治5年10月4日(新暦明治5年11月4日)です。
富岡製糸場の初代場長となった尾高は、特に工女の教育に重点を置き、一般教養の向上と場内規律の維持につとめました。
 
 深谷市明戸出身の韮塚直次郎は、富岡製糸場の建設にレンガ製造や資材調達のまとめ役をつとめました。韮塚は尾高惇忠宅で家事使用人との間に生まれ、7歳まで尾高家で過ごします。のち彦根藩士の娘を尾高家の見立て養女として妻としました。富岡製糸場建設にあたって、単身、富岡に移住し、レンガづくりなどの任務にあたりました。明治時代の初めに、主要な建築材料となるレンガを大量生産する製造方法は一般的に確立されていなかったため、韮塚直次郎は地元の明戸から瓦職人たちを束ね、設計者の外国人技師バスティアン等からレンガの素材や性質のアドバイスを受けながら、材料の粘土探しからはじめました。そして、富岡に近い笹森稲荷神社(現在の甘楽町福島)付近の畑からレンガに適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、レンガを焼き上げることに成功しました。
 尾高ゆうは、尾高惇忠の長女、万延元年(1860)の生まれ。父の尾高惇忠が苦難を乗り越えて建設した富岡製糸場ですが、フランス人技師の飲む赤ワインが若い娘の血と誤解されたことから、工女の募集は生き血を絞るためという噂が広がり、創業の礎となる工女の募集は困難を極めました。14歳のゆうは、新たな製糸技術の習得に胸を躍らせて、明治5年に伝習工女の第1号となりました。
 尾高ゆうの決断は近郷の少女たちの気持ちを刺激し、下手計村の松村くら(17歳)をはじめ5人の少女や、くらの祖母わしは62歳の高齢ながら志願し、工女取締役として富岡製糸場の繁栄を支えました。
 平成26年(2014)、世界文化遺産とり「富岡製糸場」は多くの見学者が訪れています。その後、深谷で焼いたレンガの建造物は東京駅、旧日本銀行、東京大学など多くの建築に使われました。
(つづく)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(23話)
サブタイトル 渋沢栄一と富岡製糸場②  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治4年3月に着工した富岡製糸場は、深谷市明戸出身の韮塚直次郎がレンガ製造や資材調達のまとめ役をつとめました。韮塚は尾高惇忠家の家事使用人との間に生まれ、7歳まで尾高家で過ごしました。直次郎は彦根藩士の娘を尾高家の見立て養女として妻としました。
富岡製糸場建設に、単身、富岡に移住し、レンガづくりなどの任務にあたりました。明治時代の初め、建築材料のレンガを大量生産する製造方法は確立されていなかったため、直次郎は地元の明戸から瓦職人たちを束ね、設計者の外国人技師バスティアン等からレンガの素材や性質のアドバイスを受け、材料の粘土探しからはじめました。
そして、富岡に近い笹森稲荷神社(現在の甘楽町福島)付近の畑からレンガに適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、レンガを焼き上げることに成功しました。
 平成26年(2014)、「富岡製糸場」は、世界文化遺産となりは多くの見学者が訪れています。
深谷で焼かれたレンガは、東京駅、旧日本銀行、司法省(現在の法務省旧本館)、旧警視庁、旧三菱第2号館、信越線碓氷峠の鉄道施設など多くの建築に使われました。
深谷のレンガ工場は利根川の支流小山川に面しており製造されたレンガは舟運で小山川から利根川そして江戸川に入り東京に運ばれました。
渋沢栄一は、輸送力向上のため明治28年に日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道を敷きました。 
尾高惇忠の長女、尾高ゆうは、万延元年(1860)の生まれ。父の尾高惇忠が苦難を乗り越えて建設した富岡製糸場は、フランス人技師の飲む赤ワインが若い娘の血と誤解されたことから、工女の募集は生き血を絞るためという噂が広がり、創業の礎となる工女の募集は困難を極めました。14歳のゆうは、新たな製糸技術の習得に胸を躍らせて、明治5年に伝習工女の第1号となりました。
 尾高ゆうの決断は近郷の少女たちの気持ちを刺激し、下手計村の17歳の松村くらをはじめ5人の少女や、くらの祖母わしは62歳の高齢ながら志願し、工女取締役として富岡製糸場の繁栄を支えました。
ここで技術を得た「伝習工女」たちは、フランス人から最先端の技術を学ぶパイオニアでした。
「伝習工女」は、研修期間を終え帰郷すると、その技術を地元に伝習する指導者となりました。このため、集まった伝習工女は、士族など地方の名望家の子女が多数を占めており、なかには、公家、華族の姫までいたので、地域の人は、伝習工女のことを「糸姫」と呼んでいました。
富岡製糸場で最先端の技術を身に着け、そして指導者になるという、誇りも高く研修作業に励みました。
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(24話)
サブタイトル  近代税制、地租改正① 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治2年3月、陸奥宗光から「租税制度改革の建白書」が提出され、大蔵省の渋沢栄一は、「地租改正案」を起案しました。
維新直後の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼らざるを得ず財政基盤がぜい弱で、年貢による税制度を改革し、全国統一の安定した税源を確保することが急務となっていました。
明治6年、全国の府県知事を集めた地方官会同での審議を経て、地租改正条例などが成立し、明治政府は地租改正に着手しました。
初期の明治政府の財政政策は、歳入は国債や政府紙幣発行収入、民間からの借入金で、歳出には国債償還や紙幣償却、借入金返却が含まれていました。
 決算第1期(1867年12月~1868年12月)は歳出の85%の赤字、第2期、第3期と赤字幅を縮小し、第4期は小幅な黒字となりました。
この期間は明治政府の直轄地である府県のみが対象で、廃藩置県後の全国を対象とした第5期~第8期は小幅の黒字です。これは主として歳出の抑制によるものです。明治8年~明治20年の財政バランスは西南戦争期を除いてすべて黒字となりました。
廃藩置県後の明治政府は年間経常歳入の2倍に及ぶ旧藩の累積債務の処理問題に直面しました。
 明治政府は、成立直後から歳出削減を図るために秩禄の削減を進める一方、歳入面では租税の金納化する財政改革を実施しました。
秩禄(家禄と賞典禄を合わせた呼称。家禄は、華族や士族に与えるお金、賞典禄は明治維新期の功労者に付与されたお金)の整理、処分は版籍奉還時点から着手され、明治9年の金禄公債証書の交付まで続きました。
秩禄の支給額は廃藩置県後の経常歳出の33%を占め、国家予算歳入の大半を占めている地税収入の42%に相当しました。
明治5年2月、明治政府は秩禄処分で、明治9年に江戸時代に武士がもらっていた俸禄(秩禄)を廃止した政策です。
秩禄の支給は、戸主の家禄に限定し、明治6年12月100石未満の家禄、章典禄の奉還者に6か年分を現金と利付秩禄公債を交付し、翌年100石以上の者にも拡大しました。
また、秩禄奉還を申し出ない華士族の家禄について家禄税を賦課、明治9年8月金禄公債の交付によって、秩禄の支給が廃止されました。このことこのことが西南戦争を起こすことになります。
 また、藩債、藩札などの累積債務処理について本格的に取り組むのは廃藩置県以降でした。
明治政府が外交経路を通じて旧藩の外国人に対する債務の返済を厳しく要求されており、同様に藩札のどの内国債についても対応が迫られました。
外国債は9割強が返済、内国債は名目額で5割、時価換算で9割弱が返済出来ません。また藩札は36%が返済出来ません。
明治6年,新旧公債証書発効条例によってその処理方針が決定されました。
渋沢栄一と井上薫は、明治6年、大蔵省議事章程で、各地方の長次官70余名を集め、井上薫大蔵大輔が議長となり地方要務の諸件を議決しました。土地・税制改革の 地租改正は、「土地にかかる税金」のことです。
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(25話)
サブタイトル  近代税制、地租改正② 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
 明治5年3月、東京、大阪間に郵便が開設され、4月に江戸時代の宗門人別帖に代わり、戸籍法が制定されました。当時の日本国の総人口は。現在の4分の1の人口で3311万人でした。
壬申(こうしん)の干支に生まれた「壬申戸籍」は、皇族、華族,士族、平民、卒族、旧神官、僧、尼、等を個別に集計しました。明治11年までこの戸籍を戸長が管理し、郡村制施行後は役場が戸籍を管理しました。 
渋沢栄一(32歳)は、6月20日、東京府平民となり、11月22日 父・市郎右衛門(62歳)が他界し、12月12日、従五位に叙され、12月、神田小川町裏神保小路に妻ちよと転居しました。
12月9日、大蔵省各寮に関する事務を、丞官に分課され、渋沢栄一は、造幣寮、紙幣寮、統計寮、駅逓寮、ニユーヨーク往復・ドイツのフランクホールド往復の事務担当となり、明治政府の財政政策を進めました。
 7月に廃藩置県、文部省が設置され、10月に遣欧岩倉使節団が出発しました。12月に新紙幣発行が布告されます。明治4年、大蔵省「紙幣司」が創設され翌年、初代紙幣頭(現在の理事長)に渋沢栄一が就任し、「太政官正院印書局」が創設されました。
当時政府の印刷工場が紙幣を印刷し、国立銀行に発行機能を持たせるとする構想から、紙幣寮から印刷局の初期にかけては銀行の監督業務も職掌しました。
明治維新の3大改革の一つには,国家財政を安定させるために,地租改正(地券)を実施しました。 まず初めに,明治5年,江戸時代に禁止されていた土地の自由売買を認め,地価を定めました。さらに,土地の所有権と納税者を確認するため,地主と自作農に地券を発行しました。 翌年の明治6年,地租改正条例が公布され,豊作、凶作にかかわらず地価の3%を土地の所有者が現金で納めることになりました。しかし, 従来の年貢額を減らさない方針で地租率が決定されたため,そ の負担は軽減されませんでした。農民は負担軽減を求め,明治9年,各地で地租改正反対一揆を起こし、一揆が不平士族の乱と結びつくことを恐れた政府は,明治10年,地租率を3%から2.5%に引き下げました。 地券には、所在地,土地の地目、面積,所有者名,地価,地租額を記入します。
 また、地券を土地所有者に交付する府県の印と大蔵省が府県に配付した「地券之証」印が押印され、上部には地券台帳との割印があることが多い。譲渡や売買により所有者が変わる場合には、地券台帳を訂正して新たに地券が発行されました。一方、地券の裏には、土地所有者は必ず地券を所有すること、日本人民以外の土地所有禁止などの4項目、が記載されました。
 当初の地券用紙は和紙の木版印刷で製造されていたため大量生産は困難でした。地租改正の期限が明治9年までとされたことから、地券用紙の供給を早急に進めなければなりません。
 明治9年4月に地券用紙の製造担当であった大蔵省紙幣寮刷版局が、東京府王子村に新たな工場(現在の国立印刷局王子工場)を開業させ、輸入した印刷機器と外国人技師を使い洋紙による地券用紙の製造(洋紙の製紙及び印刷)を開始しました。

写真 渋沢栄一が設立した明治8年王子村の製紙「抄紙会社」(現・王子製紙)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(26話)
サブタイトル  国立銀行設置へ 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

明治政府は殖産興業政策の遂行ため、健全な通貨制度と近代銀行制度を確立するため渋沢栄一の起案により国立銀行条例を制定しました。模範となる国立銀行の設立をアメリカのナショナルバンクの制度をモデルとしました。大蔵小輔(現大蔵省事務次官)渋沢栄一(32歳)は、合本主義(渋沢の資本主義は、(1)公益に資することを資本主義の本題とすること、(2)株式会社のステークホルダー(株主、顧客、地域社会、債権者、取引先、従業員、行政など企業を取り巻く利害関係者の集団)と定義し、広く民間資金を集める銀行の設立を急ぎました。
幕末戊辰戦争で新政府軍に資金提供した両替商の重鎮三井組、小野組の大口出資の協力を得て国立銀行の開設が決まりました。渋沢は、バンクを銀行と命名しました。
明治5年9月1日、三井組の大番頭三野村利左衛門、斎藤純造は、渋沢栄一を訪ね、国立銀行設立の許可を、三井組のみと要望しましたが、渋沢は、合本主義、株式会社の仕組みを再三説明しました。三野村利左衛門、斎藤純造は、協同経営を了承し、三井、小野両組の協同経営が決まりました。即日9月1日、井上薫大蔵大輔(大蔵省副大臣)と渋沢は、三野村の邸を訪問し、三井組の総領、三井八郎右衛門と面談し、国立銀行の方針を授け、頭取には三井八郎右衛門(当主は代々八郎右衛門・三井高福)、小野善助(京都の豪商の8代目,生糸販売,両替業、新政府の為替方、巨額の資金を調達)を挙げ、取締役、支配人、副支配人等を指名し、日本橋兜町に新築した三井組の為替座を営業所にあてることも決まりました。
資本金250万円(約500億円)のうち、三井組、小野組が各100万円を拠出し日本最初の株式会社の銀行です。頭取は、三井組、小野組それぞれからを選任する一方で、その上に経営の最高責任者である総監役を置きました。総監役は政府にあって国立銀行条例の立案にあたり、三井組と小野組を勧奨し設立を準備した渋沢栄一が大蔵省を辞して自ら就任しました。 
国立銀行本店での創立総会は明治6年6月11日開催し、同年7月20日に本店と横浜、大阪、神戸の三支店で営業を開始し、12月には行章として赤い二重星(ダブルスター)を大蔵省に届け出ました。
開業翌年の明治7年11月に、小野組は、政府の一方的な金融政策の急変と三井組の競争に敗れに破綻し、小野組関連貸出等が回収困難となり経営危機を招きましたが、小野組保有の株式100万円の資本減少を行い、総監役を廃止し渋沢栄一が単独で頭取となる新体制を敷き危機を回避しました。 
渋沢栄一の日本初の国立銀行(第一国立銀行)は、現在のみずほ銀行です。渋沢の指導により、この条例を基に民間によって数多くの銀行が設立されました。明治12年の時点で全国に153の国立銀行が設立されました。 
(つづく)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(27話)
サブタイトル  国立銀行を清水組が建設 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
大蔵小輔(現大蔵省事務次官)渋沢栄一(32歳)は、通貨制度と近代銀行制度を確立するため国立銀行条例を制定しました。
渋沢栄一が、民部、大蔵省に在籍した時期は、合併したり分離したりと諸改正と人事異動があわただしく行われました。中心的な役割を担ったのは、大蔵卿の伊達宗城、大久保利通、大蔵大輔の大隈重信、井上薫、大蔵小輔の伊藤博文などです。栄一は、明治6年、国家予算に対する司法、文部省の歳出「定額増加論」に反対し、井上薫と共に奏議書を提出し、辞意を表明しました。
5月4日、「各省経費増額の要求益々烈し。大蔵大輔井上馨極力論争したれども、遂に拒む能はず。5月3日に至り辞意を決し、栄一之に同じ、是日辞表を奉呈す。14日願に依り出仕を免ぜられる」。
34歳で大蔵省を退官した渋沢栄一は民間人となり、すぐに自ら設立に関わった第1国立銀行の総監役に就き、頭取として同行の発展に努めました。
第1国立銀行は後に、合併を繰り返して第1勧業銀行となり、現在のみずほ銀行へとつながります。
他に、第16、19、20、77などの国立銀行の設立を指導し、日本勧業銀行、北海道拓殖銀行、秋田銀行、台湾銀行などの設立、運営にも関わりました。
 第77国立銀行(仙台市)は、明治11年、創立発起人総代らは渋沢栄一に会い銀行設立に関する指導を受けました。
同年10月に、栄一は従兄弟の渋沢喜作とともに開業前の同行に立ち寄り、現地で銀行設立を指導しました。その後も株主として出資し、同行の創立を物心両面から支援し、明治42年には相談役に就任しています。
 また東北地方の発展に心を砕いていた栄一は、大正6年10月に東北振興会会長として北陸、東北六県を18日間かけて巡回、「国の繁栄には地方の振興が欠かせない」「地方振興には現地の奮起努力が不可でさる」と説きました。
国立銀行の設計者は2代目清水組(現清水建設)の清水喜助で、日本橋兜町の海運橋東詰に国立第1銀行を建てました。国立銀行の豪華な姿は人々の目に留まり、東京の名称の一つとして、錦絵や写真に収められました。
設計施工すべてを自分たちで手掛け、木骨石造、日本屋根、塔を組み合わせ、和洋折衷の建設です。
2代清水喜助(井波清七)は、富山県南砺市井波の出身で、初代喜助と同郷で、宮大工輩出の地として知られています。
2代目清水喜助は、幼少の頃から社寺建築に親しみ、大工を天職と決め、天保年間に初代喜助を頼って江戸に出ました。初代喜助は江戸城西ノ丸の造営に参加し、22歳の清七は、清水喜助の娘婿になりました。 
2代清水喜助は、横浜のデント商会の外国人技術者、ブリジェンスから西洋建築を学び、慶応2年、横浜新田北方製鉄所、神奈川ドイツ公使館を建て、明治3年には、横浜居留地商館を請け負いました。
2代清水喜助は隅田川のほとりに三井財閥の守護神とされている三圍稲荷内社を完成させました。
三井組の大番頭、三野村利左衛門介は、清水喜助に三井の建築を請け負わせ、渋沢栄一の知遇を受けました。
明治5年9月には第1国立銀行は、使用を開始し、明治8年、イタリアのパルミエーリ姉妹によるオペラ・コンサートが開催されました。 
(つづく)



余話渋沢栄一の生涯18話~21話

2021年10月07日 | 渋沢栄一の生涯
タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(18話)
サブタイトル 渋沢栄一と大隈重信  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治政府は、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けました。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の8省を統括する最高機関です。
29歳の渋沢栄一に、明治2年10月21日、太政官から東京出仕の書状が、静岡藩に届きました。しかし、渋沢は、静岡藩の常平倉(商法会所)の事務も多く、至急上京は出来ぬ、何卒半月も御猶予を願いたいと申し出ました。静岡藩権大参亊、大久保一翁は、「イヤそれはならぬ、直に出京しろ」との厳達がありました。渋沢は、「これまで丹精した新創の商法会所を成功させなければなりません。一身を捧げるので今更朝廷へ仕官するつもりはありません」。
太政官の弁官の2局は、左弁官局、右弁官局で、少納言局と共に3局の組織です。各局に大弁、中弁、少弁の3弁、大史2名、少史2、史生10、官掌2、使部80名の上級官僚です。左弁官局は中務省、式部、民部、治部で、右弁官局は兵部省、刑部、大蔵、宮内で、各4省を分管し、諸官省や諸国より申出る庶務を弁理し大納言に上申し、宣旨、官符、官牒を書き、その他の太政官内の総ての文書は取扱う所です。  
渋沢は、「太政官卿の誰の招請か」聞くと、伊達宗城(伊予松山藩主)で、門閥により、この位地に居られる方だと推察しました。
「大蔵省の大輔は大隈重信(32歳)、少輔は伊藤博文(27歳)の2人である」と云います。大隈重信は(佐賀藩、明治政府の参議で後の大蔵卿、立憲改進党の党首、早稲田大学創立者、教育問題など多方面に弁論を展開、言論界の重鎮)、伊藤博文は(長州藩、松下村塾、討幕運動で活躍)、大蔵省中全ての事務の多くはこの2人の管理で行はれているとの事でした。
渋沢は、築地宅の大隈重信を訪ね「駿河で計画し従事している事がある。大久保一翁聊も経験のない職務なので、頗る迷惑するので、速に御免を蒙りたい。早速の御許容を願います」と言いました。
大隈は多用で、談話する時間がないので更に18日に来いと云う。再び18日に大隈宅へ伺いました。大隈は「辞職などといはずに、駿河の事務を片附け、その上で大蔵省に勉励されるのが良い。渋沢君は、大蔵省の事を知らぬといが、誰ひとり知らない。貴君の履歴を聞くに、矢張我々と同じく新政府を作るといふ希望を抱いて、艱難辛苦した人である。されば出身の前後は兎も角も元来は同志の一人である。維新の政府はこれから我々が智識と勉励と耐忍とによって、造り出すもので殊に大蔵の事務に就いては少し考案もあるので、是非とも力を合わせてほしい」と懇切に説諭されました。
今日の任命は、後に聞けば、大蔵卿の伊達宗城が、自分の名を承知しておられたのと、面識はないが、郷純造(美濃国黒野村、旗本、新政府に理財の才能を買われ,会計局与頭、大蔵少輔兼主税局長、大蔵次官)が、渋沢の事を聞きおよび任命したとのことが分りました。
大隈は、維新の世になり真成の国家を創立するには、有能な人々が奮励努力し、第1に理財と法律と軍務教育にある。その他、工業商業とか、拓地殖民とかが急務である。また、大蔵省に就いては、貨幣の制度、租税の改正、公債の方法、合本法の組織、駅逓の事、度量制度など、その要務に枚挙がない。今日この省務に従事して居る人々は、渋沢君も僕も皆同じで、この新事務に就いて、学問も経験もあるべき筈はないから、勉めて一致協力して、成功を期する外はない」。「新しい事をやるのに、従来の習慣などは役には立たぬ。新政府が計画し諸制度に就いて、参考になる昔の法律などありはしない。強いて申せば、大宝律令くらいだ。しかし、大宝律令など、今日にあてはまるものではない。凡てが新規蒔き直しである」と云う。「それには欧米の進んだ新知識が必要である。君は我々よりもよく知っているのではないか。それを実行して貰へれば結構である」と、大隈は渋沢を熱心に説得しました。
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(19話)
サブタイトル 渋沢栄一が大蔵官僚になる  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治2年、29歳の渋沢栄一は、静岡より居を湯島天神中坂下に定め、妻ちよ(従兄尾高惇忠の妹)を呼寄せました。
大隈重信に説得され、維新政府の民部大蔵省(改正掛と租税正)に就任し、明治6年5月に退官するまでの3年半の間、大蔵大輔、井上馨に重用され、租税制度、貨幣、銀行制度、度量衡制度の改革など、多くの実績を残しました。
改正掛は、民部省に設置された部局で、明治政府に必要な制度改革の重要案件を作成しました。 
民部大蔵省の大輔、大隈重信は、郷純造の薦めによって旧幕臣の渋沢栄一を登用しようとしましたが、渋沢は現状の民部大蔵省のあり方ではとても新しい国家建設は出来ないと辞退しました。
若手官僚より、渋沢がその体制を作る中心人物になるべきであると説得を受け、また大隈や伊達宗城卿(伊予松山藩主)からも要請を受け、渋沢を掛長(租税正兼務)として省内改革を推進する組織として発足しました。 
大隈は伊藤博文や井上馨を通じて省内に抱える政策課題の諸問題について下問を行い、渋沢ら改正掛が企画、立案をしました。更に、海外留学などで欧米の事情に明るい前島密、赤松則良、杉浦譲らを加えて組織を充実させました。
特に度量衡の統一、電信や鉄道の建設、郵便制度の創設、助郷の廃止、殖産興業の推進、廃藩置県の提言などが実行に移され、戸籍法や地租改正、身分解放令などの提言が発案となり、日本におけるシンクタンクの先駆けとなりました。
改正掛長であった渋沢は伊藤や井上とともに大隈邸に出入りして改正掛での議論を大隈に報告するとともに大隈と親交があった山口尚芳や五代友厚たちの優秀な若手官僚とも議論を重ね、後に「築地梁山泊」と称されました。
また、当時幕末以来の盟友であった同郷で佐賀藩の大木喬任や副島種臣らと路線の違により疎遠であった大隈は、改革の提言をもたらす改正掛の存在が頼もしい存在であったことを『大隈公昔日譚』に記しています。 
 江戸時代、日本はいくつもの藩に分かれ、独自の税が存在していました。当時の税制は、年貢負担などは農民に負担の重い税制でした。明治政府は、幕府時代の「旧弊」を一新することを宣言しました。
 急激な税制改革は、社会が不安定化することに配意して当面は「旧慣」に依るとしながらも、税の公平化をはかり、安定した租税収入の確保に腐心し、徐々に税制の近代化を図りました。
明治4年に新幣貨条例が制定され、円、銭、厘の3種類を用いた貨幣制度がスタートし、欧米にまねて金、銀、銅を用いた貨幣が発行されました。この条例により、金1.5gを1円とする金本位制が採用され、1円=100銭=1000厘とするように決められました。しかし、政府の用意した金銀の量が少なく、実質的には不換貨幣でした。
明治通宝(ゲルマン札)は、明治時代初期に発行された政府紙幣(不換紙幣)です。日本には、高度印刷機は無く、渋沢栄一がパリ万博でヨーロッパを視察したドイツの西洋式印刷機により紙幣が作られました。ドイツのフランクフルトの民間工場でゲルマン製造されました。 
戊辰戦争の軍事費を出費する必要もあり大量の紙幣が発行されていました。紙幣は太政官札、府県札、民部省札、為替会社札など、江戸時代の藩札の様式を踏襲して官民が発行した多種多様で雑多なものであり、偽造紙幣も大量に出回りました。
共通通貨「円」の導入により、近代的紙幣の導入が必要でした。 紙幣寮の長に渋沢栄一が就任し、また太政官正院印書局が創設されました。
明治通宝は、明治5年4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められました。 
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(20話)
サブタイトル 渋沢栄一と廃藩置県 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治2年、渋沢栄一、 30歳、大蔵省(兼民部省)に入省し租税正(局長)となり、租税制度,土地制度、殖産興業政策などの改革案を企画しました。
 嘉永6年(1853)ペリー来航により、日本の近代が幕を開け、安政5年(1858)には日米修好通商条約が結ばれましたが、日本の関税自主権は認められず、明治政府は、関税を新たな財源とすることが出来ませでした。
 維新直後の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などを財政基盤としました。そこで年貢による税制度を改革し、全国統一の安定した税源を確保することが急務となりました。
 明治政府は、五箇条の御誓文により「公議輿論」のもと、議事機関として公議所を設置しました。公議所は、各藩から1名が任命された公議人から成り、税制改正など重要案件について諮問しました。明治政府に全国の農業者の税負担を軽減することなどの意見が多く寄せられました。
 公議所で、神田孝平(岩手出身、幕府開成所教授、御用掛、新政府に出仕し兵庫県令、考古学会の先駆者,東京人類学会初代会長)や陸奥宗光(紀伊藩士、脱藩して国事に奔走、外相として条約改正や下関条約締結に貢献)などから地価に一律に課税する方式が提言されました。これらの提言をもとに明治6年、全国の府県知事を集めた地方官会同の審議を経て、明治政府は地租改正に着手しました。
明治4年7月、各藩を廃し、府県に改めることにより、日本が近代的集権国家体制としました。長州藩の木戸孝允は最も積極的で、すでに明治2年、版籍奉還が実現しましたが、実質的には藩体制が存続しておりました。それは、「藩治職制」と「府藩県三治制」です。「藩治職制」は、明治元年10月28日に公布された明治政府の職制です。諸藩でまちまちの職制を,藩主、執政、参政、公議人などの職制に統一しました。 「府藩県三治制」は、従来の藩は暫定的にそのまま存続し、旧幕府直轄領については,初め「鎮台」、次いで「裁判所」の名称が付され、慶応4年閏4月「政体書(政府組織理、官制などの法令」が公布されて裁判所はさらに府および県と改称され,江戸府など主要な9地方(東京府、大阪府など)は府の名称を与えられ,藩、県の三治制としました。
明治2 年6月の版籍奉還で、従来の藩主は知藩事となり,次いで7月、府は東京、大阪、京都だけで,他は藩および県とされ,同4年7月の廃藩置県で3府302県となりましたが、その後43県に整理されました。府,県の職制は,知事,大参事,小参事,大属,少属,史生などであって,版籍奉還後は藩の職制もこれにならって改称されました。明治政府、さらに実質的廃藩に踏切るための準備を進め、明治3年9月藩制改革を命じて課税権を確立し,次いで武士に威望のある薩摩藩の西郷隆盛を参議とし,薩長土3藩により、同4年4月、1万人の政府軍(親兵)を統率する西郷隆盛の率いる陸軍が編制されました。
これに肥前藩が加わり、7月詔勅をもって全国諸藩の制度の廃止を布告しました。反対する藩は武力で討伐する決意をしましたが、意外にもこの布告は抵抗なく受入れられました。素因は、財政窮迫に苦しむ藩が多く、政府が債務を継承するとの条件で異議をいだく理由がなくなりました。
この結果、全国は府県の行政単位に統一され、旧藩知事はすべて華族に列し、東京移住を命じられ、代って政府から新たな府知事、県令がそれぞれ任命されて、ここに中央集権国家体制が確立しました。
福島県は、明治2年、初代知事に清岡公張(高知県)、明治5年、2代宮原積(鳥取県)、明治5年、3代安場保和(熊本県)、明治8年、4代山吉盛典(山形県)、明治9年8月21日に福島県、若松県と、磐前県とが合併され、明治15年、5代三島通庸(鹿児島県)は、高圧的施策で地方開発を強行して、福島事件、加波山事件を起こし、自由民権運動を弾圧しました。鬼県令三島は、明治16年に栃木県令も兼任しました。県知事、県令は絶対的な権力を持っておりました。
(つづく)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(21話)
サブタイトル 渋沢栄一と鉄道、電信電話
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治3年3月14日、渋沢栄一( 32歳)は、大蔵省改正掛の立案に基き「電信機、蒸気車」建設の発義がなされ、渋沢栄一は改正掛長(局長)として裁可しました。
明治2年、政府は官営による鉄道建設を検討しておりました。 渋沢栄一は慶応2年、徳川慶喜公の命によりパリ万博で汽車に試乗し、文明の利器を知りました。大隈志重信、伊藤博文の発義により鉄道,電信建設を進めました。世論は大反対でしたが、改正掛長(局長)として計画を進めました。
慶応3年、幕府老中、外国事務総裁、小笠原長行は、アメリカ領事館書記官のアントン、ポートマンに江戸、 横浜間の鉄道設営の免許を与えました。この免許はアメリカ側に経営権のある「外国管轄方式」でした。明治政府は、アメリカ側に「この書面の幕府側の署名は、新政府発足後のもので外交的権限を有しない」と却下しました。
その後、新政府は鉄道建設について検討が行われ、明治2年11月に自国管轄方式による新橋、横浜間の鉄道建設を決めました。しかし、明治政府は、自力の建設は無理で、技術や資金の援助を鉄道発祥国イギリスに求めました。日本の鉄道について提言した駐日公使ハリー・パークス(薩摩、長州の武力討幕派を援助し,明治維新の立役者)の提言がありました。鉄道起業は、大隈重信、伊藤博文の2人の議によるものです。その計画は東京、京都を連絡し神戸に達する幹線を布き、別に敦賀と横浜とに支線を設けるものです。第1次として東京、横浜間の工事に、経費50万円を計上しましたが、財源を得るために、イギリス人、レーの提議を入れ、海関税(輸入貨物に課せる租税)抵当とし100万円を予算計上しました。
明治3年、イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し本格的な工事が始まりました。明治4年に井上勝(長州藩士、伊藤博文らと密航した長州5傑の1人、ロンドン大学で鉱山、土木工学を学ぶ、日本の鉄道の父)により、明治5年(新暦10月14日)に、新橋駅 、 横浜駅間が開業しました。
鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上し、運賃収入の大半は旅客収入によるものでした。 
開業時に輸入されたイギリス制のバルカン社製1号機関車は、国際標準軌 (1,435 mm) より狭い狭軌の1,067 mmでした。車両は全てイギリス制でした。
軌間が広いほど大きな列車を速く走らせることができます。しかし、建設費がかさむことが欠点でした。特に軌間が大きいほどカーブを大きく取る必要があり、山国の日本では標準軌は建設費として無理でした。 
機関士は外国人で、運行ダイヤ作成もイギリス人のページに一任しました。これらの外国人技術者は「お雇い外国人」と呼ばれ、高給を取っていました。京阪神地区の代理人兼運輸長に就任したページには月給500円で、これは当時日本側で鉄道のトップの鉄道局長の350円より高額でした。
鉄道建設には、高額な建設資金が必要です。明治政府は、全国の鉄道建設のため民間人の建設資金を当てることにしました。
明治16年に現在の東北本線が着工し、明治20年7月16日郡山まで開通しました。
渋沢栄一は、後年民間人となり、福島県知事、日下義雄の提案により自からも出資し
明治39年磐越西線の建設を進めております。
1854年に再度来航したペリーが幕府に献上した電信機によって、日本人はエレキテルの応用である電信技術を知りました。
重要性を熟知していた明治政府は、明治元年に電信の官営を廟議決定し、電信電話事業は、明治2年12月、東京、横浜間で「電報」の取り扱いが開始されました。明治2年政府が鉄道布設を決める際、渋沢栄一は、電信布設の急務を説得しました。
明治3年1月に、東京、熱海間で市外電話の取り扱いが開始され、同年12月には東京、横浜間で電話交換業務が開始されました。創業当初の加入者数は、東京155軒、横浜42軒との記録があります。
(つづく)