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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話・渋沢栄一の生涯(16話) 大政奉還後の渋沢栄一

2021年08月16日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯(16話) 大政奉還後の渋沢栄一             
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
慶応3年1月、慶喜公の弟君、徳川昭武公(後の水戸徳川家11代当主)はパリ万博の使節団を率いて約50日をかけて渡仏しました。使節団の中に御勘定格陸軍付調役(会計係)として渋沢栄一は随行しました。渋沢は、ヨーロッパ各地で先進的な産業、軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受けます。この時渋沢たちに、シーボルトの長男アレクサンダーが語学を教え通訳として同行しました。帰国後もその交友は続き、アレクサンダーと弟のハインリヒは、明治政府に出勤した渋沢に日本赤十字社設立など度々協力しております。渋沢は、フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後、開成所奉行支配調役に転じています。 
慶応4年1月に将軍、慶喜公が大政奉還を行ったことを知り、使節団の立場は微妙なものになりました。3月、鳥羽、伏見の戦いの報がフランスの新聞に掲載され、外国奉行川勝広道から大政奉還と江戸幕府の滅亡の知らせ受けました。
随行していた外国奉行の栗本安芸守(鋤雲)らは帰国し、昭武公をはじめとする7名は残留しました。まもなく明治新政府から帰国要請が届きます。慶応4年4月の段階では慶喜公から、このまま滞在し勉学するように手紙が送られてきました。
渋沢は大政奉還について「幕府衰亡なれば、昭武公の留学はどうするか、この際にわかに帰国されても、将軍家は謹慎恭順して朝命に従うとの御趣意であるので、別段、昭武公の尽すべき事柄もない。むしろこのまま長く留学され、学び帰朝せられた方が得策であらうと思慮しました。
長期留学には、第一に、経費の節約です。昭武公の御伝役、山高信離(昭武の教育係、徳川宗家の一員として静岡県へ移り、版籍奉還後明治政府の官僚となり、奈良、京都帝室博物館長)も留学していたので、委細に協議し、昭武公の5人のお供の内3人を帰国させ、残りは2人とし、昭武公の外に私とお供と都合5人とすれば、留学の経費も維持することが出来ると決めました。昭武公のフランス国、使節団は、最初外国奉行の一行がお付き添い、パリ博覧会の礼典に関係した経費も外国係が取り扱いをしておりました。その後、各国の巡回も済みパリに御留学と決まり、毎月5千弗が日本国から送金されました。倹約し、その中から余剰金の凡そ2万両ばかりで、2月頃に、フランス国の「公債証書と鉄道債券」とを購入しました。
幕府崩壊の様子を詳しく知ったのは、慶応4年3月で、新政府の外国掛、伊達宗城(伊予国宇和島藩8代藩主)、東久世通禧(急進派の公卿、8月18日の政変で長州へ下った七卿の一人)から、昭武公へ、今般王政復古に付き、其許にも帰朝せられよといふ公文書が届きました。渋沢は栗本安芸守(鋤雲、外国奉行、勘定奉行)と話しあいました。この場合は昭武公が帰朝されても仕方がない、先頃昭武公から前将軍家へ、再三、御手書を以て建白なされました。その大意は、「慶喜公が先に大阪を御立退になり江戸御帰城になったのは、実に頼母しくない思召であります。たとえ御帰城なされても、何故速に兵を挙げて京都に向う御手配をなされないのか。現在の朝廷は薩長2藩であるから、これを討滅するには難しいものでありません。
最初から真に朝廷の意を奉じて恭順する思召しならば、なぜ鳥羽伏見の戦争を開かれたのか、戦端を開いた以上は、所詮強き者の申分はいつも正義であるといふフランスの諺に従って、戦いを断行したならば、勝利を得ることはできない」と論じました。



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