余話「渋沢栄一の生涯」第7話 渋沢栄一と天狗党の終焉
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
※天狗党が慶喜様元へ上洛
天狗党は、京都の慶喜公のもとえ赴くという正義のために集団行動をする上で険しい軍律が定められた。元治元年(1864年)11月1日午前1時、千余名の天狗勢が大子村を出立する。
夜空は、満点の星空で、街道を進む天狗勢の行列は壮観であった。総大将武田耕雲斎(水戸藩家老)、大軍師山国兵部(水戸藩目付・田丸稲之衛門の実兄)、本陣田丸稲之衛門(水戸町奉行)、参謀で輔翼の藤田小四郎、隊列は天勇隊、虎勇隊、竜勇隊、正武隊、義勇隊、奇兵隊などの編成である。一行千余名、騎馬武者2百余騎、小荷駝は50頭の長い行列が奥州街道を進む。なかでも「赤心」の二文字を描く旗一流、藤田小四郎の率いる105名の隊士、小四郎は紺糸おどしの鎧を付け、金鍬形の兜を背負い、黒ビロウドの陣羽織を着ていた。藤田小四郎は中肉中背で鼻が高く、眉が太くすずやかな面立ち、「誠に美しい出で立ちにて、緒人目を驚かす」と記録されている。
天狗勢は京都を目指した。奥羽街道を大田原、鹿沼、栃木、高崎、下仁井田、内山峠、望月、和田峠、飯田、駒場、馬篭、中津川、太田、鵜沼、天王、大河原、縄帽子峠、秋生、今生、敦賀、天狗勢の通る道筋では応援のため各藩が軍資金を差し出した。
下仁井田と和田峠では幕府の追悼軍と激し戦いが繰りひろげられた。12月に入り中津川を過ぎるとあたりは大雪となり縄帽子峠の難所は1メートルを越える大雪が天狗勢千余名の前進を妨げた。その雪道を荷駝を引き大砲を担ぎ天狗勢は進んで行った。
慶喜公にお目見えし、天狗党の尊王尊王攘夷の正義を伝えるために。
天狗党は大雪の中を敦賀に辿り着き隊列を整えた。京都で禁裏守衛総監の任にある水戸藩主斉昭公の子、一橋慶喜公に嘆願書を提出した。そして、天狗党の心情を朝廷に嘆願しました。あらゆる苦難を乗り越え、慶喜公にお目通りを願い出ましたが、慶喜公は会うことを許しません。
天狗党の幹部は「ここから山陰道を下り、長州に行けば、尊王攘夷の志しを遂げることが出来る。降伏は良策では無い」との意見もあったが、総大将武田耕雲斎(62歳)は「長州に行くのも一案であるが、慶喜公に弓を引くことは出来ない」と旧暦12月20日加賀藩に823名が降伏した。彼等は敦賀のニシンの肥料土蔵に押し込められ、旧暦2月4日に幕府の吟味を受け翌日、武田耕雲斎、田丸稲之衛門、藤田小四郎以下352名の者が斬首された。
遠島刑120名、水戸藩引き渡し130名、他の者は各藩お預けの身となった。水戸藩では武田耕雲斎の家族を始め天狗勢に荷担した多くの者が処刑された。八溝山の籠った天狗党田中愿蔵隊は塙代官所公事記録によると棚倉藩に降伏し330名余捕殺されている。
この出来事で、水戸藩は時代の魁(さきがけ)として幕末を駆け抜け多くの若い人材を失った。この天狗争乱事件は明治を迎える4年前のことであった。
慶応3年(1863)「王政復古の大号令」により尊王攘夷派は、立場が逆転し水戸藩で天狗党が政権を取り戻した。
渋沢栄一は、慶喜公の家臣であり、幕府側の立場にあり、後年天狗党の乱について「誠に気の毒な天狗党の終焉である。尊王攘夷の思想は水戸藩の内乱となり水戸藩の最大の悲劇となってしまった」と後述している。
因みに弾圧派の水戸藩家老市川三左衛門は北越戦争で水戸藩門閥派を率い、筆者の先祖越後弥彦の大侠客、松宮雄次郎ら旧幕府軍は西軍と戦い敗れ市川三左衛門は処刑されている。
※市川三左衛門
文化13年.4月(1816)生まれ、明治2年.4月.3日(1869.5.14)没54歳
幕末の水戸藩諸生党の指導者。諱は弘美,父は市川弘教,母は岡部以従の娘。水戸生まれ。天保14(1843)年に家督相続。万延1(1860)年2月大寄合頭。戊午の密勅に関し返納反対を唱える長岡勢の弾圧を主張,諸生党の重鎮として幕府の信任を得,文久1(1861)年,藩内取締掛。
元治1(1864)年,激派の筑波山挙兵に対し諸生党を率いて敵対,激派の執政武田耕雲斎らの失脚に鎮派と連携して成功,執政。藩主目代松平頼聡の水戸入城を拒み,幕府軍と共に頼聡軍を降伏させ,武田耕雲斎が率いる激派軍を西上に追い込んだ。大政奉還により執政免職,明治1(1868)年3月朝廷よりの処罰命令で兵を率いて会津、越後に脱走。一旦,水戸に戻り弘道館を占拠したが結局敗北して東京に潜伏。同2年2月に逮捕され生き晒し,茨城郡長岡村(茨城県茨城町)で逆磔に処せられた。海外脱出に備えフランス語を学んでいたという。
筆者は水戸の大学で、水戸学を学び、水戸藩の悲劇は時代の先駆けと云え何であったかをいつも自問している。