福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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福島の焼き物と窯「焼き物の起源」(3)

2021年06月09日 | 福島の焼き物と窯
焼き物の起源(縄文式土器)
宮城城県中田町には「東北縄文式土器記念館」がある。酒蔵を改良して作られた展示資料館で東北地方で縄文土器を見ることが出来る。




◎三内丸山遺跡

ついで紀元前300年から紀元300年頃まで作られていた弥生式土器は、縄文式土器に比べると文様も形もシンプルであるがその形状はさらに優美なもとなる。
(弥生式土器)

弥生式土器は1884年(明治17年)東京都文京区向が岡弥生町で出土した1個の壺が従来知られている縄文式土器と異なった形状のものとして注目し研究の結果弥生式土器として定義された。すなわち縄文式土器時代に後続し、古墳時代に先行する時代を弥生式時代と呼ぶようになった。こん時代には大陸から水稲耕作が伝えられ・金属の精練加工や紡織技術など高度の文化がもたらされた。
弥生式土器は壺・かめ・鉢・高杯などが主な出土品であるが、壺は球形・偏平で頸部が括れ再び口縁部が開いている。口縁部は水平なものが多い。壺には高さ数十センチのものから1メートルを越えるものまで有る。壺は各器種の中でもつとも飾られることの多い土器であるが、壺の用途は貯蔵であり、米・穀類・桃・貝などを入れた。
大型のかめは埋葬のための棺として転用された。
弥生式土器の装飾には沈文が多く見られる。箆描き文・沈線文(前期)・櫛描き文(中期)が多い。この他竹官文・貝殻文も有る。特種なものとしては器の表面に鹿・鳥・船・倉庫などを線書きした原始絵画も見られる。九州の吉野狩り遺跡での建物の原始絵画はとみに有名である。
弥生式土器の制作にロクロが使われたとの解釈は過去のものとなった。その制作技術は縄文土器の場合と同様粘土を輪積みにして成型したものである。しかし、機内地方を中心に前期終りから中期末にかけて、土器の形成・装飾に回転台を用い形跡が有る。

◎東北陶磁器会館

縄文土器は植物の葉の上に粘土を乗せ葉を回転させながら形を整えたものと思われる。弥生式土器の一部にロクロまでは行かないが木の板を用い回転出来る道具を工夫したのではないだろうか。
古墳時代になると前代の流れを組むはじきが作られ始め、しばらくして、大陸より渡来した人達によって新しい技術が伝えられ、奈良・平安・鎌倉時代にかけて全国各地で高温で焼くことが出来る窯とロクロの技法により、薄くしかも形のよい須恵器が作られるようになった。
須恵器とは5世紀から12世紀にかけてわが国で作られた陶質土器である。
始めて穴窯を用いたので、縄文や弥生式土器と違い高温を作り出すことが出来た。
およそ温度は1000度以上あり粘土が焼き締まり吸水性が少ない。この陶質土器の源流は中国殷時代に焼かれた灰陶の技法につながる。灰陶の技法は朝鮮半島に伝わり、5世紀始めには百済の地を中心に定着したものと思われる。まもなくその技法は新羅にと伝わり新羅焼きとなる。そして渡来人により日本に入り須恵器が誕生した。


須恵とは滋賀県蒲生郡竜王町須恵・日本書紀に垂仁天皇3年の条に見えている鏡谷の陶火との遺跡とある。また、須恵の地名は岡山県邑久群須恵町・福岡県粕屋群須恵町に見られる。いずれも須恵器の大窯業生産地である。
須恵器の用途は貯蔵用・供膳用・調理用・祭礼用などに分かれる。

◎須恵器高杯

須恵器の成型過程を見ると2段階に分けることが出来る。成型の1段階は、原則そして器の大小にかかわりなく、粘土紐を積み上げておおよその形を作る工程である。成型の2段階は、主として器の大きさに応じ成型技法が異なる。即ちかめなどの大型のものは輪積みにした粘土の紐のつなぎ目を叩き板を用い叩いて粘土を密着させる方法である。



◎須恵器
須恵器は、杯などの小型の器はロクロを用いて成型した。大型のかめ壺なども最終的には口作りにはロクロを用いて調整した。
須恵器を焼成した窯は、炊き口から煙出しまでトンエル状になった単室窯で炊き口から奥へ向かって燃焼部・焼成部・奥壁・煙出しと続く。窯本本体は完全に土中をくりぬいた地下式のものと、半地下式のものに分けられる。古墳時代の須恵器窯の大きさは全長10メートル前後、焼成部最大幅2メートル前後、床面より天井までの高さ1、5メートル前後あり、奈良・平安時代になるとこれより小さくなる。須恵器窯内部が階段状をなすものは、いずれも同時に瓦を焼いていた。また、須恵器窯は還元焼成で焼かれたといわれている。
最初は酸化焔で高温を作り出し、製品が焼き上がる頃を見計らい大量の薪を投入し酸素不足の状態になり鉄分が青灰色に発色するのである。
一方で大量の薪が使われることから灰が生まれ、その灰をかぶって自然釉の器が生まれた。この釉は燃料の薪が燃えてできた灰と土が溶け合ったものであるが、この釉薬を灰釉と呼ぶ。さらに意図的に灰釉をかけたものが生まれ、これを灰釉陶器と称した。

福島の焼き物と窯 焼き物の起源(2)

2021年06月01日 | 福島の焼き物と窯
焼き物の起源(縄文式土器)

縄文式土器を用いた地域では北は北海道から南は沖縄にまで及んでいる。しかし縄文を付けていない縄文式土器も多い。特に西日本の新しい縄文土器には縄文が見られない。
九州から出土する土器には貝殻を押しつけて装飾したものが見られる。
一方東日本の弥生式土器・続縄文式土器になどは盛んに縄文が使われている。
早世期・早期の縄文式土器は深鉢のみであり、特に尖底土器が主である。尖底土器は逆三角形をした器であり底部になるにしたって尖っているのでこの名が付いた。また、装飾が一種類に限られていることが多い。これらの深鉢は焚き火のために黒く変色している。このようなことから縄文式土器は、ドングリやトチの実・栗の実などの木の実を煮炊きに用いる土器として作られるたことが解る 。
縄文式土器はおよそ8000年の間使われていたが、その間には紋様も複雑化し中期には祭器に使われた火焔式土器のようなダイナミックで芸術性溢れるものが生まれた。
火炎式土器は中部関東地方において中期縄文式土器に見られる。躍動的な隆起線文様の発達によって縄文式土器の頂点を極めたといっても過言ではない。

◎青森県三内丸山遺跡
 令和3年5月、特別史跡三内丸山遺跡は、正式に世界遺産への推薦が決定しました。
 



福島の焼き物と窯「焼き物の起源」(1)

2021年05月30日 | 福島の焼き物と窯
焼き物の起源

日本で焼き物を作り始めた年代は、今のところ1万2千年前といわれている。それまで狩りで取った動物の肉を植物の葉で包み蒸して加工することをしていた人類は、土器の発明により食べ物を煮るという加工技術を知ることになる。
それは原始的な土器に見られるような粗雑なものであったが、この文化は縄文式土器、弥生式土器へと発展してゆく。人間が火をコントロールすることができるようになって文明が生まれた。縄文式土器が焼かれた温度は約500度から600度、弥生式土器が焼かれた温度は約600度やら700度である。
さらに大陸から伝えられた須恵器は千度以上の高温で焼かれた。
日本で一番古い縄文式土器は、今のところ、1万2千年前(現在の考古学の発達は縄文時代を1万3千年前とする説が有力である)と見られている。長崎県の泉福寺洞窟より出土した豆枝式土器である。この年代測定には炭素14などの放射性同位元素を使って測定されている。その他に現在の考古学の年代考証には最先端技術を駆使し、より正確なクロスチェックが成されている。近年の遺伝子工学による遺伝子地図の解明により、栗が植培され食料として食べられていたことや、稲が渡来し日本国内に伝播していった経路を克明に解析してくれる時代となった。
縄文式土器とは、粘土紐を作り輪形に積み重ねて形にし、ならした粘土の表面に縄の文様をつけたことからその名をついた。
その紋様から押圧縄文・回転縄文・棒巻き回転縄文に分けられる。近年会津の昭和村の「からむし記念館」を尋ねる機会があつた。その折会館職員の方と親しく話しをする機会に恵まれた。
焼き物談義になり昔は縄を作るのに「からむしの紐」を寄り合わせて用いたとの話をお聞した。縄文人も「からむしの紐」を使い紋様をつけたのではないでしょうか」との話をお聞し興味をおぼえた。


◎縄文式土器、郡山市妙音寺遺跡、高さ50.4㎝


福島の焼き物と窯「福島の焼き物が各地へ(2)笠間焼、益子焼へ

2021年05月28日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯が各地に伝わる。笠間焼、益子焼へ

笠間焼は茨城県笠間市の焼き物であるがその創業には諸説がある。明治末期より11年程前に信楽の陶工が来て焼いたとする説と相馬焼の工房の陶工が抜けだし友部町に窯を開いたとの説がある。

その製品は粗陶器で土瓶・土鍋・片口などで明治に入って瓶類を製造した。近年は東京から作家を目指す若者が移り住み芸術性の高い作風の焼き物を制作し芸城制のある焼き物を焼いていたが時代の変遷により焼き物の産地は寂れてしまっている。

益子焼は栃木県芳賀郡益子町の焼き物でセッ器物が多い。相馬より笠間に京窯の登り窯が伝えられ益子にも同じ構造の窯が造られた。益子は明治年間に大消費地東京を控え発展した。製品は水甕・片口・すり鉢・であったが土瓶の製造に始まり火鉢・湯たんぽ・花器なども盛んに造られた。
大正13年 浜田庄司が益子で民芸運動に実践者として焼き物を始めた。浜田は、世間の高い評価を受け多くの陶芸を志ざす陶工が集まった。益子は東京に近く、開放的で焼き物の材料も豊富にあり全国的は窯場となって行く。そして、民芸作家も多く現れ昭和50年、350軒の窯元があり、一大窯業地となった。

福島県内の各藩もこぞって製陶活動を奨励し、城下町に起こった白河焼、会津街道沿線の隠れ里の後藤焼・そして棚倉焼や三春丈六焼、さらに二本松万古焼、その流れを組む田島万古焼などが誕生した。



◎益子焼で大量の作られた土瓶は大堀相馬焼の技法であると云われたいる


福島の焼き物と窯「福島県内の焼き物が各地に伝わる(1)

2021年05月13日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯が各地に伝わる(1)
小杉焼きは富山県射水市小杉地区で焼かれた焼き物である。同地の高畑与右衛門が1835年(天保6年)頃に開窯したといわれている。18歳で与右衛門は各地の窯場を訪ね修業し10余年の後相馬風の技法を身に付けて帰郷したという。
花瓶・水差し・茶碗・燭台・急須などがあり徳利の種類が多くあり知られている。
その釉は銅青磁釉(小杉青磁)や飴釉などが使われ焼かれた。4代継承されたが、瀬戸や有田の焼き物の流通により明治21年廃業したといわれている。

◎東北最古の焼き物と伝承されている古本郷焼(水野源左衛門作)



福島の焼き物と窯「ふくしま県内の窯と東北の窯」(1)

2021年04月12日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯と東北の窯(1)

福島県内においても、全国的な焼き物の需要が高まり、その影響を受け、1640年代には本郷焼と相馬駒焼が始められた。本郷焼は、美濃の国(岐阜県)からやってきた水野源左衛門をその祖とし一方、相馬駒焼は京都の名工、野々村仁清に師事した相馬藩の藩士田代源吾衛門をその祖として発展を続けることになる。
もともと本郷焼は陶器が主流であるが、寛政12年(1800年)には、佐藤伊兵衛が西国(有田)で修業し帰国し白磁を焼くことに成功している。この二つの流れはやがていろいろな形で県内に波及し、ことに染め付け磁器はやがて本後焼きの主流になる。
また、江戸末期になると、本郷焼きの磁器の影響を受けて、会津若松の木村左内による蚕養焼(こがいやき)、長谷川兵夫による郡山市湖南町福良の福良焼、長沼町の矢部富右衛門による長沼焼などが生まれて来ることになる。
相馬駒焼は代々藩主の使う焼き物だけを焼く東北最古の登り窯であり、元録3年(1690年)頃になると、藩の殖産興業の一貫として民窯が相馬藩の中に広がり、大掘相馬焼が生まれた。この時代、還元炎焼成は行われず、黄瀬戸風の肌の合いに彩画した絵付けには芸術性の高いものが多い。また、東北の各窯場に影響を及ぼした。久慈焼(岩手県)・白岩焼(秋田県)また笠間焼(茨城県)益子焼(栃木県)等の各窯場にもこうした技術が導入され、強い影響力を及ぼした。
久慈焼は岩手県久慈市小久慈町の日常実用の陶器である。初代熊谷甚右衛門は相馬駒焼の田代窯に稲技を学び、1822年(文政5年)ころ帰国して窯を開いた。以後父子相伝で続けられる。
秋田県の白岩焼は楢岡焼と同系の「なまこ釉」が有名である。
現在の楢岡焼の窯元に尋ねると相馬焼との関係については「およそ百年前、半農半陶の民窯で飯鉢・片口・甕・すり鉢などを焼いた。相馬焼の技法をとりいれて楢岡焼き・白岩焼きが生まれた」との言い伝えではっきりしたことは解らなかった。
平清水焼は、山形県平清水の窯場である。窯場は千歳山の麓にあるところから千歳焼とも呼ばれた。文化年間に同村の丹羽治左衛門は陶業を始めようと隣村に済んでいた常陸の国の小野藤兵衛を招き、丸山の土で陶器を作った。1825年(文政8年)は相馬の安部覚左衛門を招き新窯が開かれた。昭和の初期には上り窯9、角窯3、上絵窯3があった。現在の窯元数は震災後の状況が把握できず解らない。
現在の平清水焼の青龍窯は丹羽治左衛門を祖とする。昭和60年代に当主の丹羽  氏にお目にかかると、「うちの窯は相馬焼きの技法であったが、長い歴史を経て、今の平清水焼は千歳山の陶石を使い、水簸して、梨地肌の半磁器をつくつています」との話しを伺った。梨地肌の壺はしっとりとした肌合いで手元に置きたい焼き物である。
成島焼きは山形県米沢市広幡町で水甕・片口・平鉢・飯茶碗などの黒釉の焼き物を焼いた。江戸時代に相馬駒焼きより技法が伝授されたという。
天保年間越後の国蒲原の二村為八は相馬焼の技法を習得して帰り、三根山藩の御用窯が生まれた。
東北の焼き物は宮城県中田町の「東北陶磁器会館」みることが出来る。
この陶磁器会館は東北大学の芹沢啓介先生のコレクションを元に収集し展示している。東北一の史料館でもある。



◎昭和60年代に執筆した「福島のやきものと窯」

福島の焼き物と窯(1) [焼き物に魅せられて」

2021年04月09日 | 福島の焼き物と窯
初めに

日本人の繊細な感性は四季の移り変わりのなかから生れたものである。この感性は次代の人達にも大切に受け継いで行かなければならない。
新型コロナウイルス感染拡大が続き、生活様式も大きく変わり、心の余裕もなくなり、文化芸術の良さが失われてきていることは誠に残念なことです。
人生のうち、最も感受性の強い中学・高校時代に創造性豊かな美術や音楽、日本の古典などに触れる必要があると思う。
私も中学生の頃から、奈良や京都の仏像、庭園などに興味を持ち日本の伝統文化の素晴らしさに直接触れて見たいとの思いがあった。
私ごとであるが、東京にいる伯父の故芳村伊左衛門は、長唄界の第一人者で若山富三郎や勝新太郎の兄弟子でもあった。
杵屋の社中で多くの門人を抱えていたが、松竹歌舞伎の世界では長唄・三味線を演じていた。
そのような環境にあったので、上京すると歌舞伎、能、狂言などにも関心を寄せ鑑賞をしていた。
大学では化学を専攻し原子や分子などのミクロの世界を覗いていた。およそ芸術とは縁のない理論や実験の学問なので、全く正反対のものに魅かれたのかも知れない。
陶芸を志したのは、幼い頃から時々母が立てくれたお茶の茶碗や茶道具などに触れたことがきっかけとなった。
お茶は裏千家の作法であったが、子供心に長時間和室に正座させられて足の痛みのみが、記憶に残っている。抹茶をいただく前のお菓子の甘さが魅力だったのかも知れない。
 そして何よりも焼き物の色の美しさと、陶器の肌の滑らかさに魅了され、焼き物の道に入った。
私の住んでいる福島県須賀川市岩瀬地方には古く江戸時代より焼かた長沼焼きがあった。そして東北地方の焼き物の源流は福島県にある。福島県内、東北地方の窯を訪ねてその歴史の流れをまとめてみた。
陶芸の道に入り、ロクロを引き始めて50年になるが、より焼き物の魅力にひきつけれれている。



◎例年より1週間早く満開となった自宅の桜(令和3年4月8日)

◎自宅の桜4月9日



松宮輝明「戦前、戦中、戦後を生きる(幼少編)」第3話  アメリカ空軍の爆撃から逃げまとう

2017年08月16日 | 福島の焼き物と窯

マメタイムス新聞社掲載
平成27年9月28日(月)







◎石城郡湯本町(現いわき市常磐)の鹿島変電所、父松宮俊明は後列左から2人目



◎常磐炭鉱に送電していた鹿島変電所の変圧器はアメリカ軍の空爆で焼夷弾で攻撃され炎上した。