NHK,文部科学省への提言
新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その7)
伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師
松宮輝明
安倍総理は昨日5月4日(日)午後6時、「新たな非常事態を宣言」し、5月31日まで緊急事態を引きの伸ばすと述べました。そして「新たな生活様式を」提示しました。
教育問題の新たな提言がなされるかと期待しましたがありませんでした。しかし、学校での学習についての方向についての提言がなされませんでした。文部科学省からも方向性の提言は現在の時点ではありません。
100年前のスペイン風邪の終息には3年かかりました。新薬が開発され感染者、隠れ感染者に投与されない限り、進化による造られた新型コロナウイルスが3種類(武漢型、広州型、欧州型)が存在すると云われております。
中国の研究者チームは3月4日に、新型コロナウイルスについて論文「国家科学評論」に発表しました。
「新型コロナウイルスは二つの型に分類でき、感染力に差があることが分かった。 ウイルスのサンプル103例の遺伝子配列を調べ、うち101例を「L亜型」か「S亜型」に分類した。約70%がL型。L型の方が感染力が強いとみられ、湖北省武漢で爆発的流行が起きた時期に多く確認され、1月初旬以降は減少した。 S型はコウモリから検出されたコロナウイルスに遺伝子的に近く、古い型とみられる。一つの型にだけ感染する症例が大半だったが、武漢への旅行歴のある米国の患者1人は、両方の型に感染した可能性があった」との論文です。
(感染者の増加が夏まで減少しても、新型コロナウイルスの第2波は秋、今年の10月に来ることが考えられます。南半球は6月、7月、8月が冬季です。新インフルエンザ、新型コロナルスが日本に上陸します。
「人の移動を止めない限り、北半球に再上陸して感染者が蔓延します」。「感染者をふやさないためには、人の移動を止め、隔離することなのです」。
日本放送協会NHKは、番組の編成を早急に検討し、教育課程の各教科の番組を主とし、自宅で学習する児童、生徒にNHKの教育テレビ、NHK学園の放送など、NHKの全てのメディアを使いオンライン授業を始めるべきだと思います。
21世紀は情報の時代です。経団連など未来の人材をそだてる学校教育に前面的に参画、協力すべき時期かと思います。
セーヌ河からウイルスが見つかり、人→物→人に感染すること。物に10日間ウイルスが生存すること、犬、猫ペットに感染していることなど、を攻撃することなどな臓器そして新型コロナウイルスの疑似抗体の新薬はウイルスだけではなく、健全な臓器、肝臓、腎臓などを攻撃することなどの情報があります。DNA,RNEのメカニズム,ラセン構造が解らない学生、生徒では未来の日本は未来は生まれません。日本の大学は、理系専攻の学生が3割、アメリカでは6割の専攻です。先進国な位置付けと自負する日本は、医学、科学教育に転換する必要がります。中国にマスク、タブレット、工業製品を依頼するので心ももとない国家です。
筆者の従妹(東京農工大学教授・免疫学博士、農工大馬術顧問)、甥(名古屋大学工学部准教授・分子生物学博士)でウイルスを研究しております。
東大の児玉龍彦教授の研究報告の様に、このたびのコロナウイルスの発生のメカニズムが未だ解らず、解明には時間がかかるとの見解でした。
このたびのコロナウイルスな発生は、世界の歴史の転換点になると思われます。
今後の対応について、提言をいただいております。
一部紹介をします。
「一年延期したオリンピックですが中止のほうがよいと思っていますが。仮に沈静化したとしても、世界中から関係者が日本に集まれば日本を介して再び広がる可能性が十分あります。来年になって中止となった場合、経済的ダメージは計り知れません。早い決断で損切りし、コロナ対策に専念することが大切と思っています。
やめる決断はやる決断よりはるかに大変ですが。マスク、アルコール消毒液まで未だに不足している現状は経済大国と言われた国とは思えません」。
「知らないうちに日本も相当劣化していたのだと思い知らされました。情報化社会では人、物、情報がとてつもなく早い速度で移動しています。
コロナもそれにのって拡散しております。情報化社会を作り挙げた人間は今や制御不能に陥ってようです。
しかし、コロナをおさめるには情報力(新薬開発、クラスタの発見などなど)に頼ることです。そして、人の移動を止、隔離すとことだと思います」。
「自然に生きる。人は神の摂理により生きることではないでしょうか」。
コロナウイルスの感染の終息をはかるには、真理の探究、学問、科学、若者が真剣に学ぶ社会をつくることなのです。
筆者の先祖、弥彦村観音寺の松宮雄次郎は、松宮屋敷が東軍の本陣となり、北越戦争で河井継之助と同盟を結び1000名の聚義隊(観音寺隊)を率い西軍と戦いました。弥彦村の松宮屋敷は西軍に焼き払われ、会津落城後も戦い、米沢藩に落ち延びました。高田藩預かりとなり明治2年許されて、弥彦村に戻りました。焼け落ちた松宮屋敷の仮住まいの中で、新しい村造り、国造りを考えました。
北越戦争で敗れた長岡藩は分家の三根山藩(弥彦村の隣、3万石)から米100俵の寄進を受けました。長岡藩では、藩士に米を分け飢えをしのごうとの提案が多く、藩の意見は紛糾しました。
小林虎之助は、「米100俵は食べれば、またちまち無くなるが、教育にあてれば明日の千俵、万俵になる」と諭しました。「長岡藩の子弟のためとに米100俵を、未来を担う子供たちの教育資金に充て、三根山藩の温かい気持ちにこたえたい」と主帳しました。
そして米は全て売り払い270両余りの代金で,国漢学校の書籍代や用具代などの資金に使われ、学校設立の基金となりました。教育の成果により、明治以降、越後長岡から多くの優れた人材が輩出しております。
新型コロナウイルス、ご自愛下さい。
◎自宅の椿は満開です。(令和2年5月4日撮影)
(つづく)