余話「渋沢栄一の生涯」第10話
栄一はパリ万国博覧会へ出発す
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一は、慶応2年(1866年)12月29日、パリ万国博覧会の名代徳川昭武公随行の一員として京都を出発しました。慶応3年正月元日は、長鯨丸の船中で壮行会を祝い、横浜へ着船したのは4日か5日の頃でした。
横浜の5、6日の滞在で、渡航の支度をしました。勘定奉行小栗上野介、外国奉行、川勝近江守(書院番兼講武所砲術教授方、歩兵頭並、幕府の横浜フランス語伝習所長、江戸城無血開城の若年寄)にも面会をしました。また語学教師フランス人のビランを招待し、宴会を開き、この時はじめて西洋料理を食べました。
1月11日、徳川昭武公に随行し、横浜港よりフランス国の郵船アルヘー号に乗込み日本の地を離れました。
フランス国へは、何万里の旅でした。栄一はじめ、水戸藩士7人の随行員も、外国の旅は全く様子が分らず、船中でも随分可笑しな話もありました。この旅行の記録は、栄一と杉浦露山が、共に記録し、「航西日記」を書き残しました。
渋沢は、外国へ往くと決した以上は、これまで攘夷論を主張し、外国はすべて夷狄禽獣であると軽蔑していたので、この時より早く外国の言語を覚え、外国の書物が読めなければと思いました。
栄一は、京都で幕府の歩兵組立の軍制の役目であり、兵制や医学、船舶器械等は、到底外国に及ばないと考える様になりました。何事もヨーロッパの良い処を取り入れたいと思い、船中で熱心にフランス語を学び、文法などの教えを受けました。栄一は、元来、船中では正規の武術の稽古も出来ないので、詩作などをして日々を送ることにしました。
一行の中にも外国奉行の向山隼人正(昌平坂学問所教授、船には弱く、かつ、渋沢栄一が拝謁した。ナポレオン3世外国奉行支配組頭)と同組頭の田辺太一 (昌平坂学問所、海軍伝習所、外国奉行支配調役並)、同調役の杉浦靄山(徽典館教授、外国奉行支配圭易役、外交宜慓)などは、文学の素養もあり、殊に向山は詩人としても知られていました。お互いに船中では日々漢詩を作り披露しております。
一行の人数は28人で、船は、日本人がほとんどでした。長い航海は、上海・香港・サイゴン、シンガポル、セイロン、アテネ、スエズ、カイロ。アレキサンドリ、マルセイユーリヨン等を経て、3月7日、パリに着き、カプシンヌ街のノガランドホテルにはいりました。 船旅は、極めて平穏無事であり、各地寄港の土地の滞在は、1両日で、横浜港を出帆してから、59日目、即ち2月29日にフランス南部の地中海に面するマルセーユ港に到着しました。それから首府パリに行き、「大博覧会」の礼典に来会したという趣意書の国書を、フランス国帝第3世ナポレオン(ナポレオンー世の甥)に捧呈し返書を受取り、正式な礼式を終えました。
この礼式は、外国奉行の向山隼人正の役目で、調役、杉浦露山が取扱うので、栄一は、武昭公の身の回りの事を世話、日本国への報告書を作成は、筆を持って信書としました。昭武公専属の随員への月給を支給し、昭武公の雑品を購入する時には、パリの街でフランス語を使い買い物をし、しかも書記と会計とを兼ねていました。
平常は、教師1人を雇い、時間の合間にフランス語を勉強しました。
昭武公、外国奉行などは、パリの有名なグランドホテルに宿泊し、栄一等3人は別に借屋とし、毎日教師を呼び丁寧な授業を受けて、1ヵ月後には、簡単な日常語は覚え、片言のフランス語で買い物に行き、通じる様になりました。
3月24日、徳川昭武公は、外国奉行、向山隼人正等を伴い、フランス国皇帝ナポレオン3世に拝謁しまた。栄一は随行せず、フランス国皇帝ナポレオン3世への献上品を宮中へ送致する役目でした。3日、パリの青空に上がる軽気球を観ました。
3月29日、徳川昭武公、栄一らは、ナポレオン3世主催の観劇会に招かれております。翌4月1日、ミニストル館での舞踏会に随行しました。栄一は、パリの文化文明に触れ日本国も積極的に学ばなければと思いました。