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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話「渋沢栄一の生涯」第10話 栄一はパリ万国博覧会へ出発す

2021年07月20日 | 渋沢栄一の生涯
余話「渋沢栄一の生涯」第10
 栄一はパリ万国博覧会へ出発す
 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
 
渋沢栄一は、慶応2年(1866年)12月29日、パリ万国博覧会の名代徳川昭武公随行の一員として京都を出発しました。慶応3年正月元日は、長鯨丸の船中で壮行会を祝い、横浜へ着船したのは4日か5日の頃でした。
 横浜の5、6日の滞在で、渡航の支度をしました。勘定奉行小栗上野介、外国奉行、川勝近江守(書院番兼講武所砲術教授方、歩兵頭並、幕府の横浜フランス語伝習所長、江戸城無血開城の若年寄)にも面会をしました。また語学教師フランス人のビランを招待し、宴会を開き、この時はじめて西洋料理を食べました。 
1月11日、徳川昭武公に随行し、横浜港よりフランス国の郵船アルヘー号に乗込み日本の地を離れました。
 フランス国へは、何万里の旅でした。栄一はじめ、水戸藩士7人の随行員も、外国の旅は全く様子が分らず、船中でも随分可笑しな話もありました。この旅行の記録は、栄一と杉浦露山が、共に記録し、「航西日記」を書き残しました。
 渋沢は、外国へ往くと決した以上は、これまで攘夷論を主張し、外国はすべて夷狄禽獣であると軽蔑していたので、この時より早く外国の言語を覚え、外国の書物が読めなければと思いました。
 栄一は、京都で幕府の歩兵組立の軍制の役目であり、兵制や医学、船舶器械等は、到底外国に及ばないと考える様になりました。何事もヨーロッパの良い処を取り入れたいと思い、船中で熱心にフランス語を学び、文法などの教えを受けました。栄一は、元来、船中では正規の武術の稽古も出来ないので、詩作などをして日々を送ることにしました。
 一行の中にも外国奉行の向山隼人正(昌平坂学問所教授、船には弱く、かつ、渋沢栄一が拝謁した。ナポレオン3世外国奉行支配組頭)と同組頭の田辺太一 (昌平坂学問所、海軍伝習所、外国奉行支配調役並)、同調役の杉浦靄山(徽典館教授、外国奉行支配圭易役、外交宜慓)などは、文学の素養もあり、殊に向山は詩人としても知られていました。お互いに船中では日々漢詩を作り披露しております。
 一行の人数は28人で、船は、日本人がほとんどでした。長い航海は、上海・香港・サイゴン、シンガポル、セイロン、アテネ、スエズ、カイロ。アレキサンドリ、マルセイユーリヨン等を経て、3月7日、パリに着き、カプシンヌ街のノガランドホテルにはいりました。 船旅は、極めて平穏無事であり、各地寄港の土地の滞在は、1両日で、横浜港を出帆してから、59日目、即ち2月29日にフランス南部の地中海に面するマルセーユ港に到着しました。それから首府パリに行き、「大博覧会」の礼典に来会したという趣意書の国書を、フランス国帝第3世ナポレオン(ナポレオンー世の甥)に捧呈し返書を受取り、正式な礼式を終えました。
 この礼式は、外国奉行の向山隼人正の役目で、調役、杉浦露山が取扱うので、栄一は、武昭公の身の回りの事を世話、日本国への報告書を作成は、筆を持って信書としました。昭武公専属の随員への月給を支給し、昭武公の雑品を購入する時には、パリの街でフランス語を使い買い物をし、しかも書記と会計とを兼ねていました。
 平常は、教師1人を雇い、時間の合間にフランス語を勉強しました。
 昭武公、外国奉行などは、パリの有名なグランドホテルに宿泊し、栄一等3人は別に借屋とし、毎日教師を呼び丁寧な授業を受けて、1ヵ月後には、簡単な日常語は覚え、片言のフランス語で買い物に行き、通じる様になりました。
 3月24日、徳川昭武公は、外国奉行、向山隼人正等を伴い、フランス国皇帝ナポレオン3世に拝謁しまた。栄一は随行せず、フランス国皇帝ナポレオン3世への献上品を宮中へ送致する役目でした。3日、パリの青空に上がる軽気球を観ました。
 3月29日、徳川昭武公、栄一らは、ナポレオン3世主催の観劇会に招かれております。翌4月1日、ミニストル館での舞踏会に随行しました。栄一は、パリの文化文明に触れ日本国も積極的に学ばなければと思いました。

                 


余話「渋沢栄一の生涯」第9話 パリ万博の命下る

2021年07月20日 | 渋沢栄一の生涯
余話「渋沢栄一の生涯」第9話 パリ万博の命下る
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

 
 栄一にパリ万博の命が慶応2年(1866)8月11日、26歳の渋沢栄一は、徳川慶喜公の名代として長州に出征しました。栄一は、一ツ橋家の勘定組頭となり御使役を兼任し、併せて御用人手附を拝命しました。栄一は、長州征伐で死を覚悟し、遺言と懐剣を夫人に贈り死を覚悟しました。
 9月7日、幕臣の陸軍奉行支配謫役となりました。世情が不安定の中、新撰組の沖田総司らと命令に依り書院番士大沢源次郎を逮捕し、武勇を褒めたたえられましたが、不本意で心が休まりません11月に、幕臣を辞退しょうと決意しました。
 逮捕した大沢源次郎(文政12年生まれ)は武蔵国の出身で、元治元年には見廻組勤方となり、7月に上京し、敦賀で田沼意尊(曾祖父は田沼意次)の命で渋沢と天狗党を制圧し、慶応2年に陸軍奉行並となった人物です。大沢源次郎は謀反の罪で薩摩人との親交関係の容疑です。新撰組の島田魁日記によると、慶応2年、新撰組が源三郎を兵庫港まで護送し、江戸の評定所で裁かれ、翌慶応3年9月に「御目見以下小普請人」左遷されました。維新後の大沢源次郎の詳細については不明です。
 慶応2年秋、渋沢は、将軍慶喜公の命に依り蕃書調所の市川斎宮のもとで電信の技を学びます。市川は、万延1年(1860年)、プロシアの東洋遠征艦隊が来航の際ドイツ語を学び、翌年には幕府洋書調所にドイツ学科を開設し、ドイツ語読本(官版独逸単語篇)を出版した先駆者です。
慶応2年11月29日、将軍慶喜公の弟君、徳川昭武公をフランスのパリで開かれる万国博会に派遣し、併せて昭武をフランスに留学することにしました。栄一は、内命を承けてパリ万国博覧会の徳川家の名代徳川昭武徳昭武公に随行することとなりました。12月7日、総務係の命を受け、12月21日班を勘定格に栄進します。
 栄一は、女子が一人で男子がなく、「御用中重病または不遼の事故により、勤仕が出来なくなる。18才の義弟平九郎を養嗣子(見立養子)として家督を相続させたいと願い出て認められました。平九郎は、栄一の妻藍香の弟で、義弟を養嗣子としました。平九郎は、彰義隊結成に参画し、振武軍に参加し飯能戦争で新政府軍との戦いで戦死します。享年20歳。
 慶喜公に、慶応2年6月、ナポレオン3世からパリ万博の参加の要請がありました。口ツシユの話によれば、日本君主の名代をパリに派遣し、徳川家と国交の親善を図るべく勧告を受け、博覧会への日本国の出品を承諾し、弟徳川昭武公の派遣を決めました。
 15歳の昭武は、水戸藩主、徳川斉昭の第18男子、この年、12月9日、水戸藩より御三公卿の清水家の当主となっております。フランス国に派遣し、併せて、ヨーロッパの締盟国を訪問し、友好を厚くし、フランス国に留学させることにしました。
 翌年、慶応3年11月28日昭武公にフランス国派遣の公命が下りし渋沢も随行の内命がありました。
 11月29日、原市之進(幕府目付)は渋沢を自宅に招き、詳しく昭武公海外派遣の事情を語りました。原は「昭武公の洋行に、水戸藩士の間に反対があった。異議も収まり、昭武公の御世話の係として、水戸藩士7名に随行を命じた。しかし、水戸藩士たちは、頑固もので、更に攘夷の志を捨てていない。昭武公の留学に種々の問題が出てくる。慶喜公の御内意に、栄一は、かねて攘夷論者であったが随行員の中にあって、調停に適任である。殊に有為の材なれば、栄一の前途の為にも、海外に遊学しヨーロッパの世界を学べとの仰せである。幸い庶務会計の任に適任者である。即、準備せよ」との下命がありました。
 渋沢は大に喜び、即座に命を拝しました。この時期、渋沢は、既に幕府の前途に望みを絶ち、浪人生活に戻ろうと考へおりました。この外遊は、苦境を脱し、近代日本社会の先覚として、時代を指導する人物の基因となりました。渋沢のグローバルな考えは、徳川昭武公のパリ万博随行によるものです。 



余話「渋沢栄一の生涯」第8話 渋沢栄一が一橋家の家臣となる

2021年07月20日 | 渋沢栄一の生涯
 余話「渋沢栄一の生涯」第8話 
渋沢栄一が一橋家の家臣となる
 
松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長)
  慶応元年(1865)1月、25歳の渋沢栄一は、配下が10人となり、上司の信任が厚く「御用談所調方」となりました。
 2月下旬、「歩兵取立御用掛」を命ぜられます。一橋家の領地は、8国22郡に散在し、石高は、西国に10万石、関東に2万石の石高です。渋沢は、西国の備中(3万2300石)、播磨(2万石)、摂津(1万5千石)、和泉(7800石)4ヶ国を巡廻し、兵400数名を募集しました。
 一橋家の兵備は、御床机廻(弓馬槍剣の壮志が、100人ばかりで、足軽の御徒士兵は少数です。幕府から派遣の歩兵「御持小筒組」は、小銃隊の兵備が僅か2小隊で、訓練されたものでありません。
 一橋家は隠居役で、京都守衛総督としては不十分な兵備です。渋沢は黒川嘉兵衛(一橋家の目付)に「御守衛は、2小隊や3小隊の歩兵では、京都守衛総督として何の役にもたちません」。
 黒川は「それは適切の論であるが幕府から兵隊を借り、月々、金15万両、米5千石の手当がされている。再び借用といふことも出来ぬ」。
 渋沢は「御領内の農民を集め、1000人位の歩兵隊を編成することが出来ます。お金があれば、2大隊の兵は忽ち備へる事が出来ます」と進言し、慶喜公に拝謁します。
 渋沢は西国の巡回で、一橋家の代官手代、角田米三郎の案内で備中寺戸村(岡山県)に漢学者の阪谷希八郎(朗廬、文政5年生)を訪ねました。
 希八郎は、大坂で大塩平八郎、江戸で昌谷精渓らに学び、郷里の郷学校、興譲館館長の任にありました。希八郎は、高邁な学者で、渋沢の言上で黒川も面会し、慶喜公に拝謁します。
 慶応2年、希八郎は、京都で慶喜公に論語の講義をします。希八郎は、慶喜公に激しく勤王を説き「徳川家の300年の恩は大なれども、天朝の3千年の鴻恩には比すべくもあらず」と述べます。一橋家の家臣達は、手に汗を握りましたが、慶喜公は頷かれ、反論しません。慶喜公は、希八郎の子弟教授の労を賞せられ、銀5枚、5人扶持を下賜しました。希八郎は、これを辞して「これは臣の私にすべきにあらず。興譲館のために使う」と。渋沢は、4月「学問所俗事役」となります。
 維新後は、希八郎は、陸軍省、文部省、司法省、東京学士会院会員となります。享年60歳。一橋家の郷学校の初代の館長、希八郎の興譲館(岡山県井原市、現学校法人興譲館高等等学校)を訪ねると校庭に希八郎が植えた紅梅が咲いていました。校門に渋沢栄一が明治45年に揮毫した「興譲館」の扁額が掲げられ、登校する女学生らが一礼をして校門をくぐる姿に感動しました。
 希八郎の子は、阪谷芳郎(文久3年生)は、東大教授(法学博士)、東京市長、大蔵大臣となりました。阪谷芳郎の妻の琴子は、渋沢栄一の次女で、芳郎の曾孫に元首相の橋本龍太郎の妻久美子夫人かおり、希八郎の孫、阪谷希一(満州国総務庁次長)の妻の兄は福島県令の三島通陽です。
 渋沢は、8月一橋家の財政充実を提案し、三案を建言します。「勘定組頭並」に転じ、「御用談所役」を兼務しました。
 慶応元年秋冬、2年春、一橋家財政の充実を図るため、兵庫、大阪、備中、播磨に出張し、年貢米を兵庫に直売し、備中に火薬原料の「硝石製造所」を設立し、藩札を発行し、播州木綿の買入をして、その功により「勘定組頭」となりました。
 慶応2年(1866)7月20日に14代将軍徳川家茂が薨去しました。享年21歳。幕府は、一橋慶喜公の将軍就任を要請します。渋沢栄一と従兄の喜作は、原市之進(慶喜公の側用人)に受けない方が良いと談判します。