福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話・渋沢栄一の生涯(17話)、渋沢栄一と商法会所

2021年08月20日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯(17話)、渋沢栄一と商法会所   

伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
慶応4年、明治政府は、徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府静岡藩、70万石を与え、徳川慶喜公も静岡へ移され駿河宝台院で謹慎しました。
徳川昭武公、渋沢栄一ら欧州遊歴一行は、新政府の命により帰国しました。昭武公は長兄で水戸藩主の徳川慶篤の急死に伴い襲封命令を受け水戸へ向い、渋沢栄一は水戸藩出仕を謝辞し、慶喜公を慕い静岡に移住しました。 
その際、渋沢は外遊中の旅費一切について詳細な決算を行い、鉄道債権などの利殖分を含め1万6千両の残金の一部でスナイドル銃、1個小隊分を購入しました。水戸藩の昭武公へスナイドル銃全てを献上しました。残金全部は神田錦町の静岡藩役所へ納付しました。
明治元年12月、28歳の渋沢栄一は、静岡へ移住し徳川慶喜公に拝謁し静岡藩の勘定組頭の辞令を渡されましたが商農の仕事をしたいと謝辞しました。

明治政府は、維新に際し金融が著しく窮迫し、財政再建のため諸藩へ石高拝借金を借与しました。明治政府はおよそ5千万両の紙幣を製造し、諸藩の石高に応じて新紙幣を貸付け、年3分の利子で13ヶ年賦に償却するといふ方法でした。渋沢は、静岡藩の石高拝借金53万両を別途会計し殖産興業に充て、その運用を合本組織(株式会社)による商会を作り、資本と負債を分離した斬新なアイデアを提案しました。
渋沢は、この石高拝借金を、静岡藩の勘定奉行、平岡準蔵に新案を提案しました。『藩は返済方を如何に処置なさる御見込であるか、果して郡県政治になるとすれば、静岡藩は新に置かれたので、別に余財はない。一旦政事上の破産をした当藩は、再び経済上の破産に陥ることもある。それには石高拝借金を、総て別会計とし、これを基本に興業殖産にあて、その運転中に生ずる利益で返納金に充てることにしたら、藩庁の利益はいふまでもなく、地方人民も豊になる。また、静岡は小都会であるが、相応の商人もいるので、原資金を貸与し、商業を一層盛にすることは難しいことではない。
商売は、一人の力では、盛にすることは難しい。西洋の株式会社を採用するのが最も急務であると思う。今この地方でも株式会社が出来るので、石高拝借金を基礎として、之に地方の資本を合同させ、1個の商会を取立て、売買貸借の事を取扱させ、地方商業は一変し大に進歩の功を助けるであろう。静岡藩がその端緒を開いたなら、自然と各地へ伝播し、日本商業の面目を一新させる一端となる』と述べました。平岡も「至極面白い新案なので、委しく書面にして差出せ』との命で、詳細に方法と計算書を添へて差出しました。渋沢栄一は留学仲間や商人らの知恵も借り、厚さ3尺に及ぶ膨大な計画書を作成して藩庁に提出しました。
静岡藩権大参事、大久保一翁(外国奉行、大目付、幕府会計総裁、明治政府では東京府の第5代知事)は、藩庁の評議を決し、明治2年1月、静岡紺屋町の家屋に事務所「商法会所」設立しました。全体の取締は勘定頭の平岡が、渋沢は頭取として事業運転上の主任となりました。
資本金30万両弱で静岡藩「商法会所」は貸付、預金業務を軸にめざましい活動を展開し、旧幕臣の大挙移住で人口が急増する静岡の経済を支え、製茶や養蚕など殖産興業を開業し、事業資金を用立て、米穀や肥料の大量買付けを行い、蚕卵紙や繭を買付けて横浜の外国商人へ売込み、倉庫と船数隻を買入れ海運業も開始しました。
明治2年10月18日、渋沢は、太政官より、出京の命があり、26日、静岡を発し東京で、民部省の租税正に任じれましたが、辞意し、大蔵大輔兼民部大輔、大隈重信に説得されました。


余話・渋沢栄一の生涯(16話) 大政奉還後の渋沢栄一

2021年08月16日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯(16話) 大政奉還後の渋沢栄一             
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
慶応3年1月、慶喜公の弟君、徳川昭武公(後の水戸徳川家11代当主)はパリ万博の使節団を率いて約50日をかけて渡仏しました。使節団の中に御勘定格陸軍付調役(会計係)として渋沢栄一は随行しました。渋沢は、ヨーロッパ各地で先進的な産業、軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受けます。この時渋沢たちに、シーボルトの長男アレクサンダーが語学を教え通訳として同行しました。帰国後もその交友は続き、アレクサンダーと弟のハインリヒは、明治政府に出勤した渋沢に日本赤十字社設立など度々協力しております。渋沢は、フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後、開成所奉行支配調役に転じています。 
慶応4年1月に将軍、慶喜公が大政奉還を行ったことを知り、使節団の立場は微妙なものになりました。3月、鳥羽、伏見の戦いの報がフランスの新聞に掲載され、外国奉行川勝広道から大政奉還と江戸幕府の滅亡の知らせ受けました。
随行していた外国奉行の栗本安芸守(鋤雲)らは帰国し、昭武公をはじめとする7名は残留しました。まもなく明治新政府から帰国要請が届きます。慶応4年4月の段階では慶喜公から、このまま滞在し勉学するように手紙が送られてきました。
渋沢は大政奉還について「幕府衰亡なれば、昭武公の留学はどうするか、この際にわかに帰国されても、将軍家は謹慎恭順して朝命に従うとの御趣意であるので、別段、昭武公の尽すべき事柄もない。むしろこのまま長く留学され、学び帰朝せられた方が得策であらうと思慮しました。
長期留学には、第一に、経費の節約です。昭武公の御伝役、山高信離(昭武の教育係、徳川宗家の一員として静岡県へ移り、版籍奉還後明治政府の官僚となり、奈良、京都帝室博物館長)も留学していたので、委細に協議し、昭武公の5人のお供の内3人を帰国させ、残りは2人とし、昭武公の外に私とお供と都合5人とすれば、留学の経費も維持することが出来ると決めました。昭武公のフランス国、使節団は、最初外国奉行の一行がお付き添い、パリ博覧会の礼典に関係した経費も外国係が取り扱いをしておりました。その後、各国の巡回も済みパリに御留学と決まり、毎月5千弗が日本国から送金されました。倹約し、その中から余剰金の凡そ2万両ばかりで、2月頃に、フランス国の「公債証書と鉄道債券」とを購入しました。
幕府崩壊の様子を詳しく知ったのは、慶応4年3月で、新政府の外国掛、伊達宗城(伊予国宇和島藩8代藩主)、東久世通禧(急進派の公卿、8月18日の政変で長州へ下った七卿の一人)から、昭武公へ、今般王政復古に付き、其許にも帰朝せられよといふ公文書が届きました。渋沢は栗本安芸守(鋤雲、外国奉行、勘定奉行)と話しあいました。この場合は昭武公が帰朝されても仕方がない、先頃昭武公から前将軍家へ、再三、御手書を以て建白なされました。その大意は、「慶喜公が先に大阪を御立退になり江戸御帰城になったのは、実に頼母しくない思召であります。たとえ御帰城なされても、何故速に兵を挙げて京都に向う御手配をなされないのか。現在の朝廷は薩長2藩であるから、これを討滅するには難しいものでありません。
最初から真に朝廷の意を奉じて恭順する思召しならば、なぜ鳥羽伏見の戦争を開かれたのか、戦端を開いた以上は、所詮強き者の申分はいつも正義であるといふフランスの諺に従って、戦いを断行したならば、勝利を得ることはできない」と論じました。



余話・渋沢栄一の生涯(15話) パリで渋沢栄一大政奉還を知る

2021年08月16日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯(15話) パリで渋沢栄一大政奉還を知る   
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一の生涯「青天を衝け」の連載を中断し、4月より「新型コロナウイルスを歴史に学ぶ」を6月29日(月)まで連載しました。
「青天を衝け」は、令和3年の大河ドラマとして、新一万円札の顔となる実業家、渋沢栄一の生涯を放映します。渋沢を演じるのは、人気は俳優の吉沢亮です。
本日より、渋沢栄一の「青天を衝け、渋沢栄一」を掲載いたします。
渋沢栄一は、天保11年(1840)年2月13日、埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれ、家業の畑作、藍玉の製造、販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から学問に励み、従兄弟の尾高惇忠から「論語」などを学びました。
「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取り、横浜街焼き討ちの計画を立てたが中止し、京都へ向かい、一橋慶喜公に仕え、一橋家の財政再建などに実力を発揮し、認められていきます。
栄一は27歳の時、15代将軍徳川慶喜公の実弟、水戸藩主、徳川昭武公に随行しパリの万国博覧会に赴き欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の仕組みを学びました。
戊辰戦争で明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。「第一国立銀行」、株式会社組織による企業の創設、育成に力を入れました。「道徳経済合一説」を説き、500余もの企業に関わり、600余の教育機関、社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力しました。
「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、ノーベル平和賞の候補に2度選ばれています。
慶応3年(1867) 27歳の渋沢は徳川昭武公に従ってパリ万博使節団としてフランスへ出立しました。
大政奉還、王政復古となり、明治元年(1868) 、明治維新によりフランスより帰国し、静岡で慶喜公に面会しました。
渋沢の航西日記には「明治元年戊辰1月幕府亘解ノ報相踵イデ到リ、衆皆愕然タリ。3月21日附朝廷ノ帰朝命令到ル」と記録しております。
 慶応3年の10月中に、京都で、徳川慶喜公が政権を返上したといふ評判がフランス国の新聞で知りました。旅館内外の日本人は勿論、徳川昭武公附添のフランス国士官でナポレオン三世から遣はされ、常に旅館に止宿して学問の世話をしていたコルネルビケツトも、大政奉還は皆虚説であらうと、一向に信じませでした。
渋沢は京都の有様は余程困難の状況にあり、早晩大政変があるに相違ないと思っておりました。新聞報道はまちがいない論弁しました。翌年の1月頃になると、フランス国から報知があり、去年の10月12日に、将軍家には政権を朝廷へ返上し、朝廷もこれを御聞届になり、薩摩と長州とが、一致して幕府を治める有様であり、此上は一層急変を見るであろうと憂慮して居る中に、3、4月になると、正月の始に鳥羽伏見口で幕府の兵と薩長の兵と戦をはじめ、幕兵が敗走し、将軍家は大阪城を立退かれて、海路より江戸へお帰りになり、謹慎恭順の御趣意を幕府の諸士へ示され、水戸へご退隠になったと知りました。数千里を隔てた海外に在って、かかる大政変を聞きおよび心中は、言語に絶した次第でした。渋沢は、日本国の政変知り帰国を急ぎます。
東京都王子、飛鳥山の渋沢栄一記念館も新型コロナウィルス感染症防止のため、4月から臨時休館しておりましたが、7月3日(金曜日)より開館を再開いたしました。



余話・渋沢栄一の生涯 14話  渋沢栄一展の開催について

2021年08月13日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯14話  渋沢栄一展の開催について

 松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長)

 連載の「青天を衝けと渋沢栄一」は、近代日本の創始者、日本資本主義の父と称された渋沢栄一の生涯を記したものです。「青天を衝け」は渋沢自身が詠んだ漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋気穿白雲唾手征」(青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進む)の意味です。
 栄一は、天保11年(1840)、埼玉県深谷市の養蚕と製藍を営む家に生まれ、幕末動乱の時代、徳川幕府の封建制の矛盾に尊王攘夷の思想となり、高崎城乗っ取り、横浜街焼き討ち事件を計画し未遂に終わり、一橋家の一橋慶喜公に出仕しました、幕臣となりヨーロッパに留学し、明治政府に出仕し、日本国の社会制度を作りました。
 来年、令和3年、渋沢栄一、若き心で挑戦を続けた男が、NHK大河ドラマ「青天を衝け」と決り、人気俳優、吉沢亮の主演で放映されます。また、渋沢栄一は、令和6年の新一万円札の肖像としても注目されています。
筆者は、伊能忠敬研究会員として、渋沢家が所蔵する伊能図の有無の調査で王子の飛鳥山、渋沢栄一史料館、井上潤館長を訪問しました。
 江戸時代、伊能図は軍事機密で、その存在も知らされておりませんでした。徳川宗家、徳川御三家、有力大名家などが秘蔵しておりました。 江戸城の紅葉山文庫(幕府図書館)にあった幕府天文方の伊能図は、戊辰戦争で一部国内外に流失しました。紅葉山文庫の伊能図は、明治となり、伊能本家、東京大学史料館に移管されましたが、関東大震災の火災で正本は焼失してしまいました。
 伊能関係者により、平成22年伊能忠敬関係史料2345点が国宝に指定されました。このたび、飛鳥山の渋沢栄一史料館(渋沢邸の別荘)の史料、パネル30枚と「渋沢栄一展、講演含を企画しました 飛鳥山のリニアールされた史料館の開館は、新型コロナウイルスで4月1日のオープンも4月27日まで延期され、名勝地、8代将軍の吉宗の別荘、飛鳥山のお花見も中止となりました。
 「須賀川・渋沢栄一展」は、新コロナウイルスの終息を待って開催したいと思います。令和元年10月、王子で渋沢栄一アンドロイド制作の記者会見が行われました。王子市の深谷市長、アンドロイド制作の寄附会社、(KK)ドトールコーヒー名誉会長、鳥羽氏、アンドロイド制作の技術指導、監修者の大阪大学大学院石黒浩教授の会見です。工学博士の石黒先生は、世界のロボット制作の第一人者、知能情報学の専門家です。アンドロイドは、外見や動作が人間に酷似する二足ロボットです。渋沢栄一は、二松学舎大学の学長で、教え子に夏目漱石がおります。
王子の記者会見でアンドロイドの夏目漱石が、恩師、渋沢先生の紹介をしました。最先端の科学がここまできたかと感心しました。令和4年、アンドロイドの渋沢栄一は、和服姿が深谷市の渋沢邸で、洋装姿が飛鳥山の渋沢史料館に展示されて観覧者の応対をします。
 慶応3年パリ万国博覧会で、ヨーロッパに渡り、文化思想と経済学を学び、新知識を吸収、帰国し大蔵省に出仕゛明治政府の国家予算を作り、国立銀行条例制定などを定めました。栄一は、大蔵卿の大隈重信に請われ、国家予算を編成します。また、ドイツのゲルマン紙幣を参考に良質の紙幣を発行しました。明治紙幣の印刷は、亜欧堂田善の銅版画の技法が取り入れられていると云われております。第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績など500余の会社設立に関与し、日本資本主義の発展に貢献しました。実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力し、晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度もなっております。
 渋沢栄一と福島県内のゆかりの地は、岩越鉄道、郡山市では、安積疎水沼上の郡山絹糸紡績会社発電所、永戸直之介の止宿、郡山倶楽部での演説、正製社、真製社の製糸場、山絹糸紡績工場、開成山で小憩、一小亭で午餐。白河市では、白河南湖神社の建設、喜多方市では、喜多方小学校で講演、磐梯町で大寺猪苗代水力電気会社第一発電所を視察、寄宿舎で午餐、会津坂下町では坂下町郡役所で講演、福島市では堀切邸、福島富国館製糸工場を視察、いわき市では、常磐炭鉱、品川白煉瓦の設立など、県内には多くのゆかりの地があります。    


 

余話・渋沢栄一の生涯13話  栄一と幕府医学留学生

2021年08月10日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯13話  栄一と幕府医学留学生

 松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長) 
 27歳の澁澤栄一は、慶応3年(1867)8月16日オランダで、シーボルトに面会し、3人の医師が同行しました。伊藤玄朴、林研海、高松凌雲です。
 伊藤玄朴は、榎本武揚ら幕府派遣のオランダ留学生に随行してオランダで医学を学んでおりました。玄朴は、長崎の鳴滝塾で、シーボルトよりオランダ医学を学び、江戸参府でシーボルトに随行しました。シーボルト事件では連座を免れました。玄朴は、天然痘、コレラの流行で、種痘所を自宅に設立しました。文久元年(1861)、「西洋医学所」となり、教授、解剖、種痘の3科に分け西洋医学の教授となり、玄朴はこの西洋医学所の取締役を命じられます。蘭方医として初めて法印(将軍の御匙、侍医長)に進み、蘭方医の頂点にたちます。養子の林研海と共にオランダで医学を修め、後、明治天皇の侍医を勤めました。
孫の伊東貞三は、昭和天皇の侍医を勤め、その死を看取っております。玄朴は、明治4年(1871)死去。墓は東京都台東区谷中の天龍院にあります。林研海は、長崎でボンベに医学を学び、文久2年(1862)幕府第1回海軍留学生として父の伊東玄朴らと共にオランダに渡ります。榎本武揚の海軍留学生らは約1年9ヶ月遅れて、明治元年12月に帰国したが、江戸幕府が既に崩壊していました。
 旧幕府に恩義を感じ朝廷「典薬寮」の役を辞退し、慶喜公に従い駿府に移り静岡藩病院長となりました。明治4年、陸軍に出仕、第2代陸軍軍医総監になり、明治15年、有栖川宮熾仁親王に従ってロシアへ向けて出立し、途中のフランスで急死しました。享年39歳。
高松凌雲の兄は、旗本で古屋作左衛門、洋式陸軍の先達であり、名声が高く、神奈川奉行所の通訳、幕府歩兵頭並となりました。英語とイギリス陸軍の用兵術を学びました。作左衛門は、外国兵書の翻訳に取り組み「歩兵操練図解「英国歩兵操典」を翻訳しております。
慶応4年、北越戦争では、衝鋒隊を組織し各地で新政府軍と戦いました。古屋佐久左衛門の実弟に3歳下の高松凌雲がおります。大坂で医学を修め、江戸で洋学を学びました。高松凌雲は、一橋家の医師で、幕府の奥詰医師として登用され、フランスへ留学しました。しかし、留学生活も1年半で大政奉還となり、鳥羽伏見の戦いが始まり、凌雲がフランスから江戸湾に到着した時には、すでに幕府は瓦解し、江戸城は薩長勢に明け渡され、主君の慶喜公は水戸で謹慎中という状態でした。パリに留学させてくれた幕府の恩義に、蝦夷地に榎本武揚らと幕臣の国を作るため、箱館戦争の医師として参加しました。兄の作左衛門は、榎本総裁の歩兵頭に就任し、陸軍奉行大鳥圭介の指揮下、七重浜で蟇肘歩兵東北として戦いました。
 五稜郭へ向けて新政府の軍艦「甲鉄」から艦砲射撃を受け、作左衛門は、重傷を負って湯川の野戦病院へ送られ4日後に、箱館病院長、実弟高松凌雲に看取られて死去しました。
享年37歳。凌雲は、敵味方を問わず診療し治療しました。当然、最初は敵の兵士を共に治療することを医師たちは否定しますが、パリ留学で学んだ精神を貫きます。この行動は日本で初めての赤十字活動であり、日本史における大きな出来事でした。凌雲は、西欧の常法に準じて、戦闘力を失った傷病兵は、敵味なく診療することを医師に命じ、彼らも院長と生死を共にする覚悟でした。箱館戦争の終戦処理において、黒田清隆が「有為な人材を失うことは国家の損失と主張し明治政府は、比較的寛大な処罰にしました。
箱館戦争後、凌雲は東京に戻り病院を開院します。新政府から多くの役職の誘いを全て断り、町医者として貧困の家庭には治療費を無料とし『神の家』の精神を実行しました。凌雲は、渋沢栄一らと他の医師の協力も得て組織的に無料で診察を行う「同愛社」を設立しました。この同愛社によって診察を受けた貧民は、70万人とも100万人とも云われています。
 高松凌雲は享年81歳。東京都台東区の谷中墓地に墓があります。戊辰戦争では幕府歩兵隊、歩兵指図役頭取の要職にあり、北越戦争では、衝鋒隊長の古屋佐久左衛門と、幕府奥詰医師、高松凌雲兄弟は懼不艦隊の「開陽丸」で涙の再会をし、「佐幕の鬼」と称された、兄、佐久左衛門が力尽き箱館病院で、弟凌雲の手当を受けて死亡しました。箱館戦争で、この兄弟の胸に去来した思いは何であっとろうかと思うと涙がこみ上げてきます。   



余話渋沢栄一の生涯12話「渋沢栄一とシーボルト」

2021年08月07日 | 渋沢栄一の生涯
渋沢栄一の生涯12話「渋沢栄一とシーボルト」

松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長)
 27歳の渋沢栄一は、慶応3年(1867)8月6日、徳川昭武公のお供でパリを発ち、7日スイスのベルンに入りました。スイスは、時計細工が花形産業で、工業全般に高度な技術を誇り、金融業が盛んでした。安政3年(1856)スイス銀行(クレディースイス)はチューリッヒに設立されております。国土の大半が山岳地帯であり、農工業が不向きで、貧しいスイス国を支えたのは「血の輸出」と呼ばれた外人部隊の傭兵の葉軒派遣でした。
 8月8日、徳川昭武公は、スイス国ベルンの大統領を訪問し、栄一らもお供し、観兵式、武器庫、時計工場、電信機製造所等を視察しました。スイスはドイツ語で、ベルンは「熊」の意味、紋章には熊がデザインされておりました。
 8月16日、スイスを出発し、18日オランダのベーダに到着しました。昭武公は、オランダ国王ウィルヘルム第3世を訪問しました。数日滞在し、栄一らは、軍艦製造所を観覧し、シーボルト別荘に招かれました。シーボルトの館は風光明媚な地にありました。オランダ書記官の案内で、隼人正石見守、高松凌、山内文次郎、渋沢栄一らがシーボルトに面会しました。
 30年前、オランダ商館付医官シーボルトは、文政11年(1828)帰国に際し、日本調査のため集めた品物の中に、当時、国禁であった日本地図(伊能忠敬図、蝦夷地図)、将軍家の家紋である葵の紋付きの着物などは日本から持ち出すことが禁じられていました。関係者は処罰され、シーボルトは国外追放を申し渡されました。幕府天文方の高橋景保は、逮捕され、獄死しました。死骸は塩漬にされ、死刑の判決を受け、その家族、部下、通詞、医師40数名が遠島などのお仕置きを受けました。幕府は、これを機会として、より一層蘭学者の行動をきびしく監視するようになりました。
 シーボルトは、オランダに帰国し、日本で集めた資料や知識をもとに、日本についての本格的な研究書である『日本(ニッポン)』を出板し日本を紹介しました。嘉永6年(1853)アメリカ提督ペルーはシーボルトに日本国への同行を求めます。国外追放の身であり、日本国との開国の交渉には問題がると考えシーボルトの著「日本」を読み日本国の情報を得て、浦賀に来航し幕末の歴史の歯車が大きくまわります。
 31年後、安政6年(1859)シーボルトは、国外追放がとかれ、ふたたび日本に来ることができました。なつかしい長崎の鳴滝に住み、昔の門人たちや、娘、楠本いねたちと交流し、日本国の研究を続けました。また、幕府に招かれて、薑府の顧問となり、ヨーロッパの学問を教えました。3年後に日本を去ります。シーボルトは、渋沢達が訪れた1か月後、10月18日、ドイツのミュンヘンで風邪に感染し70歳で亡くなりました。シーボルトの娘、楠本いねは、日本で最初の女医になりました。父と同じ医学の道をこころざし、石井宗謙、二宮敬作、ボンベに医学を学びます。医師として、長崎や東京で開業し、明治2年刺殺された長州藩の医師、天才軍事戦略家、村田蔵六(いねの養父、大村益次郎)を看護しております。明治6年、宮内省御用掛となり、明治天皇の若宮(明治12年生まれ、大正天皇)の出産に立ち会いました。
 いねは享年77歳、シーボルト親子は日本の医学に貢献しました。渋沢栄一は、明治になり医療機関の運営支援を行い、慈恵会(現東京慈恵医大)、恩賜財団済生会、聖路加国際病院幕末ドイツに留学した北里柴三郎の日本結核予防協会などの財務監督や事業運営にあたりました。100年前、日本では3年間に20万人が亡くなったスペイン風邪(世界の死亡者は4千万人~5千万人)の伝染病の対策にあたりました。
北里柴三郎は「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献しました。
 私立伝染病研究所(現、東京大学医学科学研究所)初代所長、土筆ヶ岡養生園(現、東京大学医科学研究所附属病院)、北里大学学祖、慶應義塾大学医学部の創立者、日本医師会創立者初代会長を勤めました。現在の厚生省「新コロナウイルス対策本部」は、前身が日本結核予防協会を設立した渋沢栄一と北里柴三郎によるものです。              




余話渋沢栄一の生涯11話「栄一が見たパリ万国博覧会」

2021年08月03日 | 渋沢栄一の生涯
余話渋沢栄一の生涯11話「栄一が見たパリ万国博覧会」

松宮輝明(伊能忠敬研究会東北支部長)     
 髷(まげ)を切った27歳の渋沢栄一は、慶応3年(1867)4月3日、幕府名代の徳川公のお供で、セーヌ河のほとり皇帝の居城チユイロリー宮の舞踏会に招待され華麗な踊りに目を見張りました。4月15日には、フランス陸軍の大砲製造工場を視察します。
 幕府がフランスより購入した大砲や兵器と新しく制作されている兵器の性能の違いを目の前にして、外国の威嚇に備えるための方策を考えました。4月24日、昭武公は、栄一らを従いパリ市街を視察し、整然と整備された街並みを見物し日本国での都市造りの基本を学びます。 5月4日午後2時、昭武公のお供でナポレオン皇帝、ロシア皇帝らとボワデブロンギユの競馬を観戦し競走馬サラブレッドを知りました。この日、ナポレオン3世は、パリ城郊外の演習場で、大観兵式を行いました。
 昭武公、ロシア皇帝、各国公使、武官らが招待され、栄一もお供をします。約6万人のフランス軍の観兵式で歩兵26大隊、騎兵、大砲兵、軍楽隊などいずれも華麗な正装の軍服の装いでした。ナポレオン3世皇帝が駒を進め閲兵し、次に司令官の指揮で、軍楽隊の見事な行進が披露されました。
 5月7日、徳川昭武公は、フランス皇帝、ロシア皇帝、ドイツ北部のプロイセン帝(首都ベルリン)と共にヴェルサイユ宮殿に招待さます。
宮殿には王族だけでなく貴族も住んでいました。庭園には民衆も入ることが許された公園で、その豪華な宮殿と庭を見て民衆は王の力の偉大さを知ったと云われています。
 最高の職人たちにより完成された宮殿とフランス式の庭園は、いずれも高い芸術性を持ち、栄一らは荘厳華麗な宮殿に目を見張りました。この日、昭武公、栄一らは、パリのパツシー郷ペルゴレイズ街53番の館に転居しました。
 5月18日、徳川昭武公、栄一らは、パリ万国大博覧会を観ました。万国博覧会は4月1日から11月3日まで首都パリで開催され、42ヶ国が参加し、1500万人が来場しました。
日本が初めて参加した匡際博覧会であり幕府、薩摩藩、佐賀藩等がそれぞれ出展しました。
 薩摩藩は、幕府とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で展示し、独自の勲章(薩摩国琉球国勲章)まで作成しました。薩摩藩がベルギー、フランス貴族のシャルルドモンブラン伯爵の勧めで製造した日本で最初の勲章です。
 薩摩琉球国勲章は、ナポレオン3世、フランス高官らに贈られ、その返礼として皇帝から記念メダルが授与されました。栄一ら幕府側は、日本国の代表は徳川幕府であると薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争、戊辰戦争の機縁が如実に現れたパリ万博となりました。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の「葵勲章」の制作を開始しましたが、結局幕府は倒れ、幻の日本勲章となってしまいました。
 幕府の出展は、数寄屋造りの茶室、日本庭園、薩摩焼、相馬藩、相馬駒焼など陶磁器、漆、金工細工などの工芸品、伊能忠敬の日本地図も展示されたと云われております。3人の板橋芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽(コマ)を回して遊んだり、煙管をふかしたりする光景が、物珍しさから、萇府や西南雄藩の公式展示以上の人気になったと云われています。
栄一は、5月29日から8月3日まで4回に渡り日本国出品に関する批評を調べました」。栄一は、各国の有名な肖像画、宗教画、風景 戦争画を鑑賞し「油画は欧俗最珍重する。各国の有名な肖像画、宗教が、風景画、戦争画を鑑賞し、「油画は欧俗最珍重するところにいて,その学科もまた盛に至り」と油絵を高く評価しております。栄一らは、パリの水道貯水池、ボワデブロンギユ、パリ郊外等を観覧し、その後、締盟各国を歴訪し親睦を図るために、スイス国に向う準備を始めました。
出発するに先だちの外国掛と昭武公随行員との人数の調整が紛糾し、栄一が調停に入りました。日本では幕末激動の時代となり、天からお札が舞い「えいじゃないかの踊り」が始まり、混乱の時代に入りました。