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青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話・渋沢栄一の生涯(17話)、渋沢栄一と商法会所

2021年08月20日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯(17話)、渋沢栄一と商法会所   

伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
慶応4年、明治政府は、徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府静岡藩、70万石を与え、徳川慶喜公も静岡へ移され駿河宝台院で謹慎しました。
徳川昭武公、渋沢栄一ら欧州遊歴一行は、新政府の命により帰国しました。昭武公は長兄で水戸藩主の徳川慶篤の急死に伴い襲封命令を受け水戸へ向い、渋沢栄一は水戸藩出仕を謝辞し、慶喜公を慕い静岡に移住しました。 
その際、渋沢は外遊中の旅費一切について詳細な決算を行い、鉄道債権などの利殖分を含め1万6千両の残金の一部でスナイドル銃、1個小隊分を購入しました。水戸藩の昭武公へスナイドル銃全てを献上しました。残金全部は神田錦町の静岡藩役所へ納付しました。
明治元年12月、28歳の渋沢栄一は、静岡へ移住し徳川慶喜公に拝謁し静岡藩の勘定組頭の辞令を渡されましたが商農の仕事をしたいと謝辞しました。

明治政府は、維新に際し金融が著しく窮迫し、財政再建のため諸藩へ石高拝借金を借与しました。明治政府はおよそ5千万両の紙幣を製造し、諸藩の石高に応じて新紙幣を貸付け、年3分の利子で13ヶ年賦に償却するといふ方法でした。渋沢は、静岡藩の石高拝借金53万両を別途会計し殖産興業に充て、その運用を合本組織(株式会社)による商会を作り、資本と負債を分離した斬新なアイデアを提案しました。
渋沢は、この石高拝借金を、静岡藩の勘定奉行、平岡準蔵に新案を提案しました。『藩は返済方を如何に処置なさる御見込であるか、果して郡県政治になるとすれば、静岡藩は新に置かれたので、別に余財はない。一旦政事上の破産をした当藩は、再び経済上の破産に陥ることもある。それには石高拝借金を、総て別会計とし、これを基本に興業殖産にあて、その運転中に生ずる利益で返納金に充てることにしたら、藩庁の利益はいふまでもなく、地方人民も豊になる。また、静岡は小都会であるが、相応の商人もいるので、原資金を貸与し、商業を一層盛にすることは難しいことではない。
商売は、一人の力では、盛にすることは難しい。西洋の株式会社を採用するのが最も急務であると思う。今この地方でも株式会社が出来るので、石高拝借金を基礎として、之に地方の資本を合同させ、1個の商会を取立て、売買貸借の事を取扱させ、地方商業は一変し大に進歩の功を助けるであろう。静岡藩がその端緒を開いたなら、自然と各地へ伝播し、日本商業の面目を一新させる一端となる』と述べました。平岡も「至極面白い新案なので、委しく書面にして差出せ』との命で、詳細に方法と計算書を添へて差出しました。渋沢栄一は留学仲間や商人らの知恵も借り、厚さ3尺に及ぶ膨大な計画書を作成して藩庁に提出しました。
静岡藩権大参事、大久保一翁(外国奉行、大目付、幕府会計総裁、明治政府では東京府の第5代知事)は、藩庁の評議を決し、明治2年1月、静岡紺屋町の家屋に事務所「商法会所」設立しました。全体の取締は勘定頭の平岡が、渋沢は頭取として事業運転上の主任となりました。
資本金30万両弱で静岡藩「商法会所」は貸付、預金業務を軸にめざましい活動を展開し、旧幕臣の大挙移住で人口が急増する静岡の経済を支え、製茶や養蚕など殖産興業を開業し、事業資金を用立て、米穀や肥料の大量買付けを行い、蚕卵紙や繭を買付けて横浜の外国商人へ売込み、倉庫と船数隻を買入れ海運業も開始しました。
明治2年10月18日、渋沢は、太政官より、出京の命があり、26日、静岡を発し東京で、民部省の租税正に任じれましたが、辞意し、大蔵大輔兼民部大輔、大隈重信に説得されました。


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