福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

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福島の焼き物と窯「福島の焼き物が各地へ(2)笠間焼、益子焼へ

2021年05月28日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯が各地に伝わる。笠間焼、益子焼へ

笠間焼は茨城県笠間市の焼き物であるがその創業には諸説がある。明治末期より11年程前に信楽の陶工が来て焼いたとする説と相馬焼の工房の陶工が抜けだし友部町に窯を開いたとの説がある。

その製品は粗陶器で土瓶・土鍋・片口などで明治に入って瓶類を製造した。近年は東京から作家を目指す若者が移り住み芸術性の高い作風の焼き物を制作し芸城制のある焼き物を焼いていたが時代の変遷により焼き物の産地は寂れてしまっている。

益子焼は栃木県芳賀郡益子町の焼き物でセッ器物が多い。相馬より笠間に京窯の登り窯が伝えられ益子にも同じ構造の窯が造られた。益子は明治年間に大消費地東京を控え発展した。製品は水甕・片口・すり鉢・であったが土瓶の製造に始まり火鉢・湯たんぽ・花器なども盛んに造られた。
大正13年 浜田庄司が益子で民芸運動に実践者として焼き物を始めた。浜田は、世間の高い評価を受け多くの陶芸を志ざす陶工が集まった。益子は東京に近く、開放的で焼き物の材料も豊富にあり全国的は窯場となって行く。そして、民芸作家も多く現れ昭和50年、350軒の窯元があり、一大窯業地となった。

福島県内の各藩もこぞって製陶活動を奨励し、城下町に起こった白河焼、会津街道沿線の隠れ里の後藤焼・そして棚倉焼や三春丈六焼、さらに二本松万古焼、その流れを組む田島万古焼などが誕生した。



◎益子焼で大量の作られた土瓶は大堀相馬焼の技法であると云われたいる


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