福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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「青天を衝け・渋沢栄一」(12話) 渋沢栄一展の開催について

2020年07月30日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け・渋沢栄一」(12話) 渋沢栄一展の開催について
令和2年4月6日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
あさかの学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明


「青天を衝け・渋沢栄一」(9話) 栄一が見たパリ万国博覧会

2020年07月21日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け・渋沢栄一」(9話) 栄一が見たパリ万国博覧会
令和2年3月16日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
あさかの学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明





「青天を衝け・渋沢栄一」(8話) 栄一にパリ万国博覧会に出発す

2020年07月20日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け・渋沢栄一」(8話) 栄一にパリ万国博覧会に出発す
令和2年3月9日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
あさかの学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明


「青天を衝け・渋沢栄一」(6話) 一橋家に仕え、幕臣となる

2020年07月18日 | 新型コロナウイルスの歴史
「青天を衝け・渋沢栄一」(6話) 一橋家に仕え、幕臣となる
令和2年2月26日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
安積の学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明




「青天を衝け・渋沢栄一」(4話) 一橋家の家臣となる

2020年07月18日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け・渋沢栄一」(4話) 一橋家の家臣となる
タイトルの「青天を衝け」の渋沢栄一は、天保11年(1840)、埼玉県深谷市の養蚕と製藍を営む家に生まれました。来年、2021年、若き心で挑戦を続けた男、渋沢栄一のNHK大河ドラマは「青天を衝け」に決りました。
渋沢栄一は、2023年の新一万円札の肖像としても注目されています。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会で徳川慶喜公の弟君徳川昭武公のお供として、ヨーロッパに渡り、文化思想と経済学を学びました。新知識を吸収,維新後帰国し大蔵省に出仕,明治政府の国家予算を作り、国立銀行条例制定などを定めました。明治6年(1873)退官後,第一国立銀行,王子製紙,大阪紡績など500余の会社設立に関与し,朝鮮や中国への投資も企て,日本資本主義の発展に貢献しました。実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力しました。
「日本資本主義の父」と称されました。
晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度も選ばれています。
「青天を衝く」のように高い志を持って未来を切り開きました。「緻密な計算」と「誠意」をモットウに、近代日本のあるべき姿を追い続けました。
渋沢栄一の生涯を紹介します。(伊能忠敬研究会東北志部長 松宮輝明文責)
令和2年2月10日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
安積の学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明





◎一橋慶喜公(徳川慶喜公)
◎渋沢栄一を取り立てた一橋家重臣平岡円四郎。円四郎は徳川斉昭、藤田東湖の信頼も厚く幕末の水戸藩と朝廷、幕府の調停役として活躍をしました。水戸藩士の内紛、誤解がもとで暗殺されました。(享年43歳)

「青天を衝け・渋沢栄一」(3話) 尊王攘夷派志士から、徳川慶喜公の家臣へ

2020年07月15日 | 渋沢栄一の生涯
「青天を衝け・渋沢栄一」(3話) 尊王攘夷派志士から、徳川慶喜公の家臣へ
タイトルの「青天を衝け」の渋沢栄一は、天保11年(1840)、埼玉県深谷市の養蚕と製藍を営む家に生まれました。来年、2021年、若き心で挑戦を続けた男、渋沢栄一のNHK大河ドラマは「青天を衝け」に決りました。
渋沢栄一は、2023年の新一万円札の肖像としても注目されています。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会で徳川慶喜公の弟君徳川昭武公のお供として、ヨーロッパに渡り、文化思想と経済学を学びました。新知識を吸収,維新後帰国し大蔵省に出仕,明治政府の国家予算を作り、国立銀行条例制定などを定めました。明治6年(1873)退官後,第一国立銀行,王子製紙,大阪紡績など500余の会社設立に関与し,朝鮮や中国への投資も企て,日本資本主義の発展に貢献しました。実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力しました。
「日本資本主義の父」と称されました。
晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度も選ばれています。
「青天を衝く」のように高い志を持って未来を切り開きました。「緻密な計算」と「誠意」をモットウに、近代日本のあるべき姿を追い続けました。
渋沢栄一の生涯を紹介します。(伊能忠敬研究会東北志部長 松宮輝明文責)
令和2年2月3日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
安積の学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明






◎尾高惇忠翁

◎尾高惇忠の生家



◎尾高惇忠の生家の煉瓦造蔵(明治時代)
栄一の妻・千代は、天保12年(1841)武蔵国榛沢(はんざわ)郡下手計村で、代々名主を勤める尾高家(渋沢家の支系)の三女として生まれました。
千代と栄一の二人が結婚したのは安政5年(1858)十二月。千代は数え年十八歳で栄一は一つ年上の19歳でした。幼い頃から見知った従兄妹だっただけに、お互い遠慮のない夫婦関係だったといえましょう。
 
千代は色白で凛とした容貌の幼い頃から向学心の強い、芯のしっかりした気丈な性格の女だったと伝えられています。
千代の長兄・尾高新五郎は栄一の生涯(特に青年時代)に重要な役割を果たしたことで知られています。尾高新五郎は非常に優れた人物として評判で、少年期の栄一の指導役として栄一に学問を教えていました。
渋沢栄一といえば生涯、『論語』をたしなんでいたことで有名ですが、その素養は少年期からの父親の指導とこの千代の兄・尾高新五郎の影響がありました。千代もわずかな時期ではありますがこの兄・尾高新五郎から『論語』をはじめとする学問の指導を受けています。千代にとっても栄一にとってもこの尾高新五郎の存在は親以上に大きかったといえます。
 


「青天を衝け・渋沢栄一」(2話) 渋沢栄一の誕生 幕末激動の地を行く

2020年07月13日 | 渋沢栄一の生涯

「青天を衝け・渋沢栄一」(2話) 渋沢栄一の誕生

タイトルの「青天を衝け」の渋沢栄一は、天保11年(1840)、埼玉県深谷市の養蚕と製藍を営む家に生まれました。来年、2021年、若き心で挑戦を続けた男、渋沢栄一のNHK大河ドラマは「青天を衝け」に決りました。
渋沢栄一は、2023年の新一万円札の肖像としても注目されています。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会で徳川慶喜公の弟君徳川昭武公のお供として、ヨーロッパに渡り、文化思想と経済学を学びました。新知識を吸収,維新後帰国し大蔵省に出仕,明治政府の国家予算を作り、国立銀行条例制定などを定めました。明治6年(1873)退官後,第一国立銀行,王子製紙,大阪紡績など500余の会社設立に関与し,朝鮮や中国への投資も企て,日本資本主義の発展に貢献しました。実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力しました。
「日本資本主義の父」と称されました。
晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度も選ばれています。
「青天を衝く」のように高い志を持って未来を切り開きました。「緻密な計算」と「誠意」をモットウに、近代日本のあるべき姿を追い続けました。
渋沢栄一の生涯を紹介します。(伊能忠敬研究会東北志部長 松宮輝明文責)

令和2年1月27日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
安積の学園大学講師
安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮 輝明



 ◎髷を切る前の渋沢栄一

 

◎群馬県深谷市の渋沢栄一邸の門前

◎渋沢栄一邸の母屋

◎渋沢栄一邸居間

 

 ◎高崎城襲撃事件の舞台となったたお城(復元された高崎城)


「青天を衝け・渋沢栄一」(1話) 近代社会の創始者、渋沢栄一

2020年07月12日 | 渋沢栄一の生涯

「青天を衝け・渋沢栄一」(1話) 近代社会の創始者、渋沢栄一

タイトル 「青天を衝け」の渋沢栄一は、天保11年(1840)、埼玉県深谷市の養蚕と製藍を営む家に生まれました。来年、2021年、若き心で挑戦を続けた男、渋沢栄一のNHK大河ドラマは「青天を衝け」に決り,2021年2月14日(日)より放映が始まります。
渋沢栄一は、2023年の新一万円札の肖像としても注目されています。
慶応3年(1867)パリ万国博覧会で徳川慶喜公の弟君徳川昭武公のお供として、ヨーロッパに渡り、文化思想と経済学を学びました。新知識を吸収,維新後帰国し大蔵省に出仕,明治政府の国家予算を作り、国立銀行条例制定などを定めました。明治6年(1873)退官後,第一国立銀行,王子製紙,大阪紡績など500余の会社設立に関与し,朝鮮や中国への投資も企て,日本資本主義の発展に貢献しました。実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力しました。

「日本資本主義の父」と称されました。
晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度も選ばれています。
「青天を衝く」のように高い志を持って未来を切り開きました。「緻密な計算」と「誠意」をモットウに、近代日本のあるべき姿を追い続けました。

渋沢栄一の生涯を紹介します。(伊能忠敬研究会東北志部長 松宮輝明文)

令和2年1月20日(月)
マメタイムス新聞掲載 松宮輝明著
伊能忠敬研究会東北支部長
あさかの学園大学講師
 安積歴史塾・二本松グレートアカデミー講師
旧長岡藩主牧野公奉賛会
松宮輝明

 

◎再建された伊能忠敬遺功表 平成30年4月24日 (左筆者、伊能研究会員松宮由生子氏)

昭和40年5月8日除幕式、再建の世話人は渋沢栄一の孫故渋沢敬三氏(昭和19年、日銀総裁、昭和20年、大蔵大臣)外28名、設計は、日展作家、彫刻家円淵勝三作

 

◎旧伊能忠敬遺功表【1889年~1944年9月】第二次世界大戦の金属回収命令により撤去されました。

明治20年(1887)6月30日,総代(東京地学会幹事)渡辺洪基, 渋沢栄一、大鳥圭介、大蔵喜八郎、福地源一郎の5名の名で、伊能忠敬の「遺功表」を芝公園に建設する旨、東京府知事宛て出願し、8月17日付けで許可されました。

この遺功表は青銅製で、正面に「贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表」の文字が刻まれている。(資料提供 伊能忠敬研究会戸村茂昭氏)