福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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福島の焼き物と窯「焼き物の起源」(1)

2021年05月30日 | 福島の焼き物と窯
焼き物の起源

日本で焼き物を作り始めた年代は、今のところ1万2千年前といわれている。それまで狩りで取った動物の肉を植物の葉で包み蒸して加工することをしていた人類は、土器の発明により食べ物を煮るという加工技術を知ることになる。
それは原始的な土器に見られるような粗雑なものであったが、この文化は縄文式土器、弥生式土器へと発展してゆく。人間が火をコントロールすることができるようになって文明が生まれた。縄文式土器が焼かれた温度は約500度から600度、弥生式土器が焼かれた温度は約600度やら700度である。
さらに大陸から伝えられた須恵器は千度以上の高温で焼かれた。
日本で一番古い縄文式土器は、今のところ、1万2千年前(現在の考古学の発達は縄文時代を1万3千年前とする説が有力である)と見られている。長崎県の泉福寺洞窟より出土した豆枝式土器である。この年代測定には炭素14などの放射性同位元素を使って測定されている。その他に現在の考古学の年代考証には最先端技術を駆使し、より正確なクロスチェックが成されている。近年の遺伝子工学による遺伝子地図の解明により、栗が植培され食料として食べられていたことや、稲が渡来し日本国内に伝播していった経路を克明に解析してくれる時代となった。
縄文式土器とは、粘土紐を作り輪形に積み重ねて形にし、ならした粘土の表面に縄の文様をつけたことからその名をついた。
その紋様から押圧縄文・回転縄文・棒巻き回転縄文に分けられる。近年会津の昭和村の「からむし記念館」を尋ねる機会があつた。その折会館職員の方と親しく話しをする機会に恵まれた。
焼き物談義になり昔は縄を作るのに「からむしの紐」を寄り合わせて用いたとの話をお聞した。縄文人も「からむしの紐」を使い紋様をつけたのではないでしょうか」との話をお聞し興味をおぼえた。


◎縄文式土器、郡山市妙音寺遺跡、高さ50.4㎝


福島の焼き物と窯「福島の焼き物が各地へ(2)笠間焼、益子焼へ

2021年05月28日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯が各地に伝わる。笠間焼、益子焼へ

笠間焼は茨城県笠間市の焼き物であるがその創業には諸説がある。明治末期より11年程前に信楽の陶工が来て焼いたとする説と相馬焼の工房の陶工が抜けだし友部町に窯を開いたとの説がある。

その製品は粗陶器で土瓶・土鍋・片口などで明治に入って瓶類を製造した。近年は東京から作家を目指す若者が移り住み芸術性の高い作風の焼き物を制作し芸城制のある焼き物を焼いていたが時代の変遷により焼き物の産地は寂れてしまっている。

益子焼は栃木県芳賀郡益子町の焼き物でセッ器物が多い。相馬より笠間に京窯の登り窯が伝えられ益子にも同じ構造の窯が造られた。益子は明治年間に大消費地東京を控え発展した。製品は水甕・片口・すり鉢・であったが土瓶の製造に始まり火鉢・湯たんぽ・花器なども盛んに造られた。
大正13年 浜田庄司が益子で民芸運動に実践者として焼き物を始めた。浜田は、世間の高い評価を受け多くの陶芸を志ざす陶工が集まった。益子は東京に近く、開放的で焼き物の材料も豊富にあり全国的は窯場となって行く。そして、民芸作家も多く現れ昭和50年、350軒の窯元があり、一大窯業地となった。

福島県内の各藩もこぞって製陶活動を奨励し、城下町に起こった白河焼、会津街道沿線の隠れ里の後藤焼・そして棚倉焼や三春丈六焼、さらに二本松万古焼、その流れを組む田島万古焼などが誕生した。



◎益子焼で大量の作られた土瓶は大堀相馬焼の技法であると云われたいる


福島の焼き物と窯「福島県内の焼き物が各地に伝わる(1)

2021年05月13日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯が各地に伝わる(1)
小杉焼きは富山県射水市小杉地区で焼かれた焼き物である。同地の高畑与右衛門が1835年(天保6年)頃に開窯したといわれている。18歳で与右衛門は各地の窯場を訪ね修業し10余年の後相馬風の技法を身に付けて帰郷したという。
花瓶・水差し・茶碗・燭台・急須などがあり徳利の種類が多くあり知られている。
その釉は銅青磁釉(小杉青磁)や飴釉などが使われ焼かれた。4代継承されたが、瀬戸や有田の焼き物の流通により明治21年廃業したといわれている。

◎東北最古の焼き物と伝承されている古本郷焼(水野源左衛門作)