福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

※掲載画像文章の無断複製・転載を禁ず

NHK,文部科学省への提言、新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その6)

2020年04月30日 | 新型コロナウイルスの歴史
NHK,文部科学省への提言
新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その6)

伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師
松宮輝明

平成前後から、欧米の小説や映画やドラマには、「パンデミック」を予想した作品があります。「ブレイクアウト」や「インフェルノ」等が、予兆を感じさせる作品です。
コロナウイルスの感染により、価値観が変わり、歴史の流れが大きく変わるのではないかと思われます。経済も芸術も、特に美術の世界は大きく変化するのではないかと思われます。
 style="font-size: 19px;">人が余り気にしない、雑草の繁殖は、もっとも気象を反映している生態系の変化です。二酸化炭素の増加により「地球温暖化」が進んでいます。大阪大学の研究者が、新コロナウイルスの抗体を大腸菌より造りました。「疑似新型コロナウイルス」の抗体が作られたのです。9月には新薬の抗体として臨床実験が行われるようです。
「3密」にはマスクが必要です。小学校は家庭科の学習で裁縫があります。親に頼るのではなく、自らマスクを作り、コロナウイルスの飛散を防がなければなりません。
消毒液のアルコールは日本中には酒蔵会社がり、簡単にアルコールを造ることが出来ます。手洗い、ウガイを徹底しコロナウイルスから身を守ることです。
これからは各自が消毒液のアルコールを携帯する必要があります。

新型コロナウイルスは人から物へ物から人へ感染することがわかりました。セーヌ河の水からもコロナウイルスが見つかりました。トイレの汚物に含まれるウイルスです。日本の河川からもウイルスが検出されると思います。
100年前のスペイン風邪の終息には3年かかりました。新薬が開発され感染者、隠れ感染者に投与されない限り、新コロナウイルスの第2波は秋、今年の10月からと思われます。南半球は6月、7月、8月が冬季です。新インフルエンザ、新型コロナルスが再発し、人の移動を止めない限り、北半球に再上陸して感染者が蔓延します。「人の移動を止め、隔離することなのです」。
成田空港や羽田空港等でチェックするのでは無く、日本に乗り入れる外国の空港で検査し感染者を日本に入れないことなのです。
世界の約束事として空港のチエックする対策を作る必要があります。

4月30日、現在の報道で小中学校は5月末まで休校になるようです。自宅学習が続きます。
日本放送協会NHKは、番組の編成を早急に検討し、教育課程の各教科の番組を主とし、自宅で学習する児童、生徒にNHKの教育テレビ、NHK学園の放送など、NHkの全てのメディアを使い授業を始めるべきだと思います。

NHKの放送の件、ブログをご覧の皆様にご賛同いただき、広く発信いただきたくお願いいたします。

当、須賀川市への提言としてオンラインの授業を実施するときではないでしょうか。文部科学省もラインの授業を提唱しおります。福島県内でも積極的に実施している学校が増えてきました。
予算のこともありますが、「ふるさと納税の基金」、「予備費」などをあてるのも一考かとおもいます。
また、tetteのウルトラFM放送などで、先生方から生徒達への一日の生活の仕方、勉強についてのアドバイスの放送も考えられます。
21世紀は情報の時代です。須賀川市牡丹園の花も見ごろを迎えます。開花の様子をユーチュウブで広く全国に放映し、須賀川牡丹園の素晴らしさを伝えるのも大切だと思います。
今は「油断大敵」です。「常在戦場」を意識しながら3密の決まりを守り、ウイルスに感染しないように、感染させないように、日常生活を送りましょう。
◎須賀川市は牡丹の街、牡丹園は休園、自宅の牡丹(令和2年5月1日)



◎自宅の牡丹(令和2年5月3日)
















(つづく)




新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その5)

2020年04月28日 | 新型コロナウイルス
新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その5)
伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師
松宮輝明

令和2年は、国難の大変な時代となりました。時季とか時期ではなく、歴史が大きく変わる時代になったようです。
須賀川市からは7名の感染者が出て、須賀川市内の小中学校は、4月22日(水)から5月6日(水)まで臨時休校になりました。
同じく、高等学校は21日(火)から5月6日(水)まで臨時休校です。
新型コロナウイルスの猛威は、収まらず市民の一人ひとりが、拡散予防の自覚をし、そのための務めを果たさなければなりません。
明治の初め、須賀川医学校(現岩瀬公立病院)に学び東京市長も務めた後藤新平(1856~1929年)が改めて注目されています。後藤新平は、医師で、日清戦争後の検疫事業を担うなど公衆衛生の普及に尽力しました。
  医師として活躍しながら、公衆衛生の必要性を訴え続けた後藤新平。日清戦争後、世界でも類を見なかった24万人もの帰還兵を検疫する必要があり、不眠不休で奮闘しました。即席の検疫所を三カ所作り、「蒸気消毒缶」を製作し、感染者の動線を確保し、検疫スタッフの待遇改善をしながら集中し、検疫をわずか2カ月余で終えたことは世界医学界から絶賛されました。
「衛生の概念は、『生』を『衛(まも)る』という視点で、命を守るには何を為(な)すべきかを常に考えていた人です。
 緊急事態宣言が発せられましたが、政府が何かをやってくれるとの期待感のみでは、コロナウイルスを撲滅できません。今こそ、後藤が説き続けた『自治三訣』を思い出し、国民が主権である民主主義を考えるべき時ではないでしょうか。
 新潟県柏崎市の柏崎通信の梶谷恭巨氏は「今回のウイルス問題の解決には、京都大学の今西錦司博士の進化生物学を学ぶ必要があります。今西博士の提唱した棲み分け理論、こまどりの行動理論は、動物の安定した生態系を壊さないことなのです。新コロナウイルスの問題は、進化生物学の立場で考察し生態学、人類学や社会学などの問題を解決しなければと思います」とのコメントをいただきました。
コロナウイルスのシンクロニシティ(同時性)の現象は、ルネッサンスの時代に、ペストが蔓延し、日本でもペストは、安土桃山時代の日本版ルネッサンス時代に、同時期に起った感染症の流行です。
ルネッサンスとは、14~16世紀、イタリアから西ヨーロッパに拡大した人間性解放をめざす文化革新運動で、都市の発達と商業資本の興隆を背景として、個性、合理性、現世的欲求を求める精神運動が躍動し、ルネサンスという言葉が生まれました。
日本にも安土桃山時代にルネッサンスがありペストが流行しました。
 
人類には、遺伝的記憶がDNAに刻まれている様です。
平成前後から、欧米の小説や映画やドラマには、「パンデミック」を予想した作品があります。「ブレイクアウト」や「インフェルノ」等が、予兆を感じさせる作品です。
 
コロナウイルスの感染により、価値観が変わり、歴史の流れが大きく変わるのではないかと思われます。経済も芸術も、特に美術の世界は大きく変化するのではないかと思われます。
 庭の草取りをしていると、季節の変化が実感できます。雑草の生育も年ごとに変化しています。今年は花の咲き具合、雑草の繁殖の仕方が、昨年よりも早い様です。
人が余り気にしない、雑草の繁殖は、もっとも気象を反映している生態系の変化です。二酸化炭素の増加により「地球温暖化」が進んでいます。
 
大阪大学の研究者が、新コロナウイルスの抗体を大腸菌より造りました。「疑似新型コロナウイルス」の抗体が作られたのです。9月には新薬の抗体として臨床実験が行われるようです。

「3密」にはマスクが必要です。小学校は家庭科の学習で裁縫があります。親に頼るのではなく、自らマスクを作り、コロナウイルスの飛散を防がなければなりません。

消毒液のアルコールは日本中には酒蔵会社がり、り簡単にアルコールを造ることが出来ます。手洗い、ウガイを徹底しコロナウイルスから身を守ることです。
これからは消毒液のアルコールは携帯する必要があります。

今は「油断大敵」です。「常在戦場」を意識しながら3密の決まりを守り、ウイルスに感染しないように、感染させないように、日常生活を送りましょう。



◎高野長英の遠縁でもある後藤新平は、ドイツで法医学を学び内務省衛生局長となりで衛生学を確立しました。



新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (その2)

2020年04月17日 | 新型コロナウイルス
新型コロナウイルスを歴史に学ぶ (その3)            
伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師・化学 松宮輝明

内閣総理大臣は、4月16日(木)新型コロナウイルス感染の拡散を防ぐために全国に「緊急事態宣言」を出しました。
  
新型コロナウイルスの猛威は、私達一人ひとりが、拡散予防のために努め、命を守る責務を果たすことです。
新型コロナウイルスとの戦いは、人類が結束することの重要性を教えております。

令和2年4月17(金)、福島県内の感染者は、42人、須賀川市から7名の感染者が出ました。小中学校が臨時休校になり、高等学校は電車の混雑を避けるため時差登校となりました。
福島県内の国公立の大学は9月まで自宅でのPC授業となり、理系の実習、実験、音楽、美術、体育などの実技の授業は9月以降に実施されます。

人が集まる福島県総合美術展、東北の夏祭り、青森ねぶた祭、秋田竿灯祭り、山形花笠祭り、仙台七夕祭りなど。東日本大震災の慰霊祭「東北6魂祭」中止となりました。

新型コロナウイルスは、全世界の人々に大きな影響を与え、社会の仕組み大きく変える「歴史の転換点」となります。経済、貿易、交通、金融、観光、教育、医療など全ての仕組みが変わると思います。

生命誕生よりウイルスは存在して進化(環境)により強力な毒性のウイルスに変化し来ました。永遠に科学(医学)とウイルスの戦いは今後も続きます。

100年前の大正7年、スペイン風邪が、日本全土に感染し大正7年~9年間の3年間で、人口が5千500万人、約23万人が亡くなりました。
新型コロナウイルスとスペイン風邪の感染の広がりは酷似しています。

世界人口は18億人から20億人、スペイン風邪は全世界で感染者数は約5億人、死亡者は4500万人~5000万人と云われております。
全人類の3割近くがスペイン風邪に感染したことになります。

スペイン風邪は、大正7年3月、アメリカのデトロイトとサウスカロライナ州付近で流行し、アメリカ軍がヨーロッパに進軍し、5月から6月にヨーロッパで大流行しました。


日本でのスペイン風邪の道府県別感染状況は、大正7年8月下旬から9月上旬に勢いを増し、10月上旬、数週間で全國に蔓延し、11月に最も蔓延しました。
12月下旬に少し下火となりましたが翌大正8年初春は酷寒で、再流行を始めました。
発生の都道府県の順番は、①、神奈川、②、靜岡、③、福井、④、富山、⑤、茨城、⑥、福島と感染が拡散して行きました。



最初の感染地が神奈川県なのは、横浜港に貿易船、客船がスペイン風邪が運んで来たからです。計らずもこのたびは豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の乗船者が新型コロナウイルスを横浜港に入港したことに酷似しております。当時の交通手段は海は船、陸は汽車での移動であり、東北本線は明治24年、上野から八戸まで開通しております。

スペイン風邪の大流行は、医師、看護師が感染し医療体制が完全に崩壊してしまい、全世界に拡大したのです。現在の新型コロナの感染に似た現象が100年前に起きていたのです。




新型コロナウイルスの感染を終息させるためには、感染症は先人の感染症対策を学び早期に適切な政策を打ち出すことです。
「人の交流を遮断し隔離し」新型コロナウイルスを移動させないことなのです。現時点で「抗体」が出来ないのです。ウイルスをせん滅させる後遺症を引き起こさない「特効薬」を世界の研究者が一日も早く開発することなのです。


◎新型コロナウイルス(80~100ナノメーター)

(つづく)



新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その1)

2020年04月15日 | 新型コロナウイルスの歴史
(新型コロナウイルスを歴史に学ぶ(その1)            
伊能忠敬研究会東北支部長
元日本大学工学部講師・化学 松宮輝明

新型コロナウイルスの猛威は、収まらず国民の一人ひとりが、拡散予防のための自覚を新たにし、そのための努力を重ねていく必要があります。
逆に考えると、新型コロナウイルスは、人類が結束することの重要性を教えております。皆様、油断大敵です。十分注意してお過ごし下さい。
福島県須賀川市の桜も満開ですが、花もかすんで見えます。

令和2年4月14日(火)午後8時現在、筆者の福島県内の感染者は、39人、当須賀川市から7名の感染者が出てしまいました。4月6日は各学校が入学式でしたが、6日の午後、小中学校が臨時休校になってしまいました。

高等学校は電車の混雑を避けるため時差登校となりました。福島県内の各大学は9月までは自宅でのPC授業となり、理系の実習、実験、音楽、美術、体育などの実技の授業は実施が秋以降なりました。
教え子のお孫さんが早稲田大学に合格しました。入学手続きも終え、マンションも決まり、荷物も搬入し親も慶び上京しましたが、早稲田大学は休校となりました。

6月16日(火)の東京都美術館の展覧会(日工会展)は、本年度は中止となりました。
福島県総合美術展、仙台市の河北新報美術展(藤崎デパート、東北学院大学2会場)、そして青森のねぶた祭、秋田の竿灯祭り、山形花笠祭り、仙台七夕祭りなど。東日本大震災の慰霊祭「東北6魂祭」の東北の祭りも中止となりました。

生命誕生よりウイルスは存在しますが進化(環境)により強力なウイルスに変化しおります。科学とウイルス生命体の戦いは今後も永遠に続きます。

父が東京府豊島師範学校の学童の時、スペイン風邪で日本全土で、約23万人の人が亡くなった話を聞いて育ちました。

急激な人口移動により風土病のスペイン風邪のウイルスが一部地域に収まらず全世界に拡散したものです。今後、新型コロナウイルスを放射線などで刺激し変異させないようにしなければならないと思います。

私達の周りには、地球温暖化現象、原発の放射能問題、新経済政策問題、医療体制、観光行政など早期に再検討しなければならない問題が沢山あります。
為政者は最近「想定外の出来事」であるとの言葉を使いで説明します。

想定外の出来事が起きた時どうするか予見した政策は常に準備されていなければないと思います。
想定外の事象は歴史の中にあります。そこで歴史に学ぶことなのです。政府は賢明な学者、科学者のアドバイスを受け入れ新コロナウイルスの早期の終息を計るようにあらゆる政策をうちださなければなりません。

新型コロナウイルスの感染経緯は、大正7年に全世界に感染した「スペイン風邪」のパンデミックスに酷似しております。


◎東京府立豊島師範学校全景


◎豊島師範学校跡地に建つ顕彰碑(豊島師範学校は昭和20年4月第2次世界大戦東京大空襲で全焼しました)

筆者の祖父は明治15年の生まれ、陸軍省の官吏(法務部・奏任官)を勤めていました。父は、明治41年生まれ4です。東京府豊島師範学校附属小学校(現東京学芸大学付属小学校)の4年生の大正7年の学童の時に、スペイン風邪が大流行し日本全土に拡散し3年間で約2300万人が感染し,23万人の命が失われました。
当時の日本の人口は、5500万人です。 




大正7年の感染症のスペイン風邪は、世界全体の推定感染者数は約5億人で死亡者は4500万名~5000万名とも云われております。

当時の世界人口は18億人から20億人であると推定され、全人類の3割近くがスペイン風邪に感染したことになります。
スペイン風邪の始まりは、大正7年、3月にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行しました。



スペイン風邪の大流行は、最初に医師・看護師の感染者が多く感染し医療体制が完全に崩壊してしまったため、感染者の被害が全世界に拡大したのです。現在の新型コロナの感染に似た現象が100年前に起きていたのです。


◎筆者の父、松宮俊明の学習証書,大正9年のスペイン風邪の3年目、14万人が亡くなりました。

豊島師範付属小学校は、伝染病の対策は厳格でスペイン風邪に感染すれば直ちに休校にし、登校禁止でマスクの着用が義務づけられウイルスの感染を防ぎました。
また、トラホームの感染では学童の制服に黄色の腕章を付けさせ、トイレも区別して使用させたそうです。


◎豊島師範学校の学習証書の裏面には伝染病の天然痘(疱瘡)の予防接種の経過の記録が記載されている。

時の豊島師範学校の3代目御園生金太郎校長、大正3年~大正11年5月までの8年1ヶ月間在職しました。
◎東京府豊島師範学校で手腕を発揮された3代目校長の御園生金太郎校長






明治22年、東京駒込の生まれの御園生金太郎校長は、東京高等師範学校中学師範科を卒業し、長崎県師範学校教諭、富山県師範学校教諭・主事、・福島県師範学校教諭、主事を歴任し、京都府市視学官さらに、福井県師学官を務めました。
明治33年、職を辞して高等師範学校研究科で学び、その後東京府視学官・学務課長となり東京府立園芸学校、東京府立農林学校、豊島師範学校、東京府第四高等授学校などの新設学校の運営に尽力しました。

東京府豊島師範学校が設立されると、教頭となり、大正3年に校長に昇格しました。東京府豊島師範学校の初代校長の 大束重善、(明治42年 - 大正2年5月31日までの4年1ヶ月間)、 (前)学習院教授でした。
初代校長の大束重善校長は,明治天皇のための教育機関、学習院の第10代学長野木希典陸軍大将のもとで教授の任にありました。









陸軍省勤めの祖父の話では「スペイン風邪では、東京では、火葬場が順番待ちで使用不能となり、池袋の原っぱで荼毘(だび)にした」と聞きました。

大正7年の秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性のウイルスがさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増しました。第3波は大正9年春から秋にかけて、大正7年とより爆発的に大流行しました。

感染症は、微生物の病原体の細菌がヒトや動物の身体や体液に侵入し、定着、増殖して感染をおこすと組織が破壊され、病原体が毒素を出し身体に害を与えると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となります。人の身体に入り込んだウイルスは増殖し臓器を破壊し死にいたります。
新型コロナウイルスの大きさは80ナノメーター~100ナノメーター(ナノとは1億分の1の意)の大きさで強力な毒素を持った細菌です。



また、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではありません。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行しました。 
 スペインかぜの道府県別・月別死亡者数は、(原文のまま)
 第1回目は「大正7年8月下旬から9月上旬に漸ク其ノ勢ヲ增シ、10月上旬病勢頓ニ熾烈トナリ、數旬ヲ出テスシテ殆ント全國ニ蔓延シ、11月最モ猖獗ヲ極メタリ、12月下旬ニ於テ稍々下火トナリシモ翌8年初春酷寒ノ候ニ入リ再ヒ流行ヲ逞ウセリ最モ早ク發生ヲ見タルハ「神奈川、靜岡、福井、富山、茨城、福島の諸県で感染しております。
神奈川県とは最初に横浜港に船でスペイン風邪が上陸したものと思われます。
図らずもこのたびの新型コロナウイルスが豪華客船の横浜港の入港に酷似しております。

これと前後して「埼玉、山梨、奈良、島根、昤島、等ノ諸県を襲い、九州に於て9月下旬より10月上旬に渉り「熊本、大分、長崎、宮崎、福岡、佐賀」の各地を襲い、10月中旬には「山口、廣島、岡山、京都、和歌山、愛知を侵し、同時に東京、千葉、栃木、群馬等の關東方面に蔓延し、爾餘の諸縣も殆んど一旬の差を見すして悉く本病の侵襲を蒙れり、10月下旬北海道に入リ11月上旬には遠く沖縄地方にニ及びたり」との報告書が残されております。

「死亡の状況もこの報告と軌を一にして,1918年10月に大分県で756人という死者を記録した後,急速に各県で死亡者が増加し11月にはほとんどの道府県で死亡者が500名を超えた.12月に入り,死亡者数が減少する道府県も多くなったが,1月から3月にかけて東京・大阪近郊では死亡者数の増加が見られた」とあります。

 第2回目は「大正7、8年に亘る前回の流行は概略右の如く春夏の交に至り全く終熄を告げたるも再び8年10月下旬、向寒の候に及びて「神奈川、三重、岐阜、佐賀、熊本、愛媛」等に流行再燃の報あり、次に11月に至り「東京、京都、大阪を始めとし茨城、福島、群馬、長野、新潟、富山、石川、鳥取、静岡、愛知、奈良、和歌山、廣島、山口、香川、福岡、大分、鹿兒島、青森、北海道等」に相前後して散發性流行を見、爾餘の諸縣も漸次流行を來する至れり」との報告が残されています。
また,「感染者ノ多數ハ前流行ニ罹患ヲ免レタルモノニシテ病性比較的重症ナリキ、前回ニ罹患シ尚ホ今回再感シタル者ナキニアラサルモ此等ハ大體ニ輕症ナリシカ如シ」という事実や「各地流行ノ状ヲ見ルニ都鄙、交通等ノ關係ニヨリ相違アルモ、概シテ前回激シキ流行ヲ見サリシ地方ハ本回ハ激シキ流行ヲ來シ、前回ニ甚シキ慘状ヲ呈シタル地方ハ本流行ニ於テハ其ノ勢比較的微弱ナリシカ如シ」の知見も報告されています。さらに,「斯クテ各地ニ散發セル病毒ハ再ヒ漸次四圍ニ傳播シ、遂ニ一二縣ヲ除キテハ何レモ患者ノ發生ヲ見サル處ナキニ至リ、翌春1月ニ及ヒ猖獗を極メ多數ノ患死者ヲ出シタリ、3月ヨリ漸次衰退シテ6、7月ニ至リ全ク終熄シタリ」と報告されている.すなわち,スペインかぜの地域流行には,明確なパターンが見られなかったこと,1回目の流行が激しかった地域では,2回目の流行が比較的軽微だったことが明らかとなっている。

 近年においても,インフルエンザの地域流行のパターンは明確には解明されておらず,患者数がピークを示す時期は年により地域により例年異なる。スペインかぜでも同様に明確な流行パターンは観測されてはいない。今後,地域流行のパターンについて検討していくことが必要であろう。また,1回目の流行が激しかった地域で2回目の流行が比較的軽微だったことは,当該地域住民が1回目にインフルエンザに罹患したことにより,ウイルスに対する抵抗力が高まり,その結果として2回目の流行が軽微に終わったと考えることができる」との分析がなされております。

明治になり、 国外からはコレラなどの伝染病がたびたび持ち込まれ 国内に大流行を引き起こしました。
ドイツ留学の北里柴三郎はこの事態を憂い, 「大日本私立衛生会附属傳染病研究所」を設立しました。
この研究所では, 北里柴三郎によるペスト菌の発見, 破傷風菌の純粋培養, ジフテリアの血清開発や, 志賀潔による赤痢菌の発見, 黄熱病の野口英世の輩出など, 伝染病撲滅に多大の貢献をし, 多くの学術的功績を残しております。

大正3年には 伝染病研究所が文部省に移管され, これに反対する北里ら職員の多くが辞職して「私立北里研究所」を設立しました。その後 幾度かの変遷を経て「東京大学医科学研究所」となり、 現在も日本における先駆的な生命科学の研究所として活動しています。


地球上、生物が誕生、人類がひとり勝ちして人口を増やし領域を越えた科学の進歩、自然、環境破壊などが、神の摂理に触れての疫病、自然災害などで警告されているのではないかと思います。

◎細菌学の祖北里柴三郎博士

このたびの新型コロナウイルスの感染を終息させるためには、歴史の事象を学び先人の感染症対策を取り得れ政策を打ち出すことが大切です。
人の交流を遮断し新型コロナウイルスを移動させないことなのです。

(つづく)


感染症と新型コロナウイルスについて

2020年04月08日 | 新型コロナウイルスの歴史
 感染症と新型コロナウイルスについて             
 令和2年4月8日(水)
伊能忠敬研究会東北支部長(元日本大学工学部講師・化学者) 
松宮輝明

筆者の祖父は明治15年越後新潟の弥彦村の生まれ、上京し陸軍省の官吏(法務部・奏任官)になりました。父は明治41年、東京市板橋区板橋町6丁目822番(東京都板橋町)の生まれで豊島師範学校附属小学校(現東京学芸大学付属小学校)の学童でした。父が、付属小学校5年生の時に、スペイン風邪が日本全土に拡散し多くの人命が失われました。


◎右より祖父、父(豊島師範小学校の制服)、叔母達





大正7年の感染症スペイン風邪は、世界全体の推定感染者数は約5億人で死亡者は4500万名~5000万名とも云われております。。
当時の世界人口は18億人から20億人であると推定され、全人類の3割近くがスペイン風邪に感染したことになります。
日本では、当時の人口5500万人に対し約2300万人が感染したとされる。 
世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅があります。



◎アメリカ陸軍の野戦病院


◎シアトルの警察

当時の日本の人口は、5500万人、全国でスペイン風邪に感染した人は約2300万人との報告があります。 
スペイン風邪の各年の死亡者数は,
大正7年、男子34,488名,女子35,336名,計69、824名
大正8年、男子21,415名,女子20,571名,計41、986名
大正9年、男子53,555名,女子54,873名、計108、428名で合計220、238名が死亡しました。
日本においてはインフルエンザの死亡は冬季に多く発生しています。そこで,大正7年1月から大正9年12月までの死亡者数を月別に集計によると,スペイン風邪による死亡者のピークは,大正7年の11月と、大正9年の1月の2回であったことがわかります。
豊島師範付属小学校では、伝染病の対策は厳格でスペイン風邪にかかれば登校禁止でマスクの着用が義務づけられウイルスの感染を防ぎました。
また、トラホームの感染では学童の制服に黄色の腕章を付けさせ、トイレも区別して使用させたそうです。


◎マスクをつける女性


◎マスクをつける女性

陸軍省勤めの祖父の話によると「スペイン風邪では、東京では、火葬場が順番待ちの満杯で使用不能となり、池袋の原っぱで荼毘(だび)にした」と云われました。
スペイン風邪は、諸説がありますが、記録にある限り人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)なのです。 
スペイン風邪の始まりは、大正7年、3月にアメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行しました。 
次に、大正7年の秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増しました。第3波は大正9年春から秋にかけて、大正7年と同じく世界で大流行しました。
スペイン風邪の大流行は、最初に医師・看護師の感染者が多く感染し医療体制が完全に崩壊してしまったため、感染者の被害が全世界に拡大したのです。現在の新型コロナの感染に似た現象が100年前に起きておりました。

感染症(伝染病)は、微生物の病原体(マイコプラズマなどの細菌、スピロヘータ、リケッチア、ウイルス、真菌)がヒトや動物の身体や体液に侵入し、定着、増殖して感染をおこすと組織が破壊され、病原体が毒素を出し身体に害をあたえると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となります。また、伝染病(感染症)の流行を疫病(はやり病)と呼びました。 
感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきました。感染症や疫病に関する記録は、映画「十戒」でエジプトのファラオの息子が厄病にかかり亡くなりました。
古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに「四災厄」のなかのひとつに数えられ、同時期のエジプトでもファラオの威光は悪疫の年における厄病神に比較されています。中国にあっても、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されています。
また、医学の歴史は感染症の歴史に始まったといっても過言ではありません。感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって流行しました。
歴史上知られている伝染病は、
明治8年(1875)、ハンセン氏病は、発見者が、アルマウェル・ハンセン(ノルウェー)です。 
明治13年(1880)、マラリアは、 シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン(フランス) 
明治13年(1880)、腸チフスは、 カール・エーベルト(ドイツ) 
明治15年(1882)、結核は、ロベルト・コッホ(ドイツ) 
明治16年(1883)、コレラは、ロベルト・コッホ(ドイツ) 
明治27年(1894)、ペストは、北里柴三郎(日本)、アレクサンドル・イェルサン(フランス)です。
大正7年~大正9年 スペイン風邪


◎北里柴三郎博士

アテナイのペストは、アテナイ全盛時代の政治家ペリクレスがペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年、篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリス、アテナイ(アテネ)を感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出しました。この疫病は、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれ、記録に残る症状の分析と検討により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス、あるいはそれらの同時流行と考えられており、ペスト説は否定されています。
なお、古代ギリシャ最大の民主政治家として知られ、アテナイにおいてペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの疫病で死亡しており、この戦争でのアテナイの敗北およびデロス同盟の解体を招きました。 
14世紀の「黒死病」は、14世紀のヨーロッパで猛威をふるったペストは、感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれました。
カナダ出身の歴史家ウィリアム・ハーディー・マクニールによれば、「黒死病」は、中国の雲南省地方に侵攻したモンゴル軍がペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを中世ヨーロッパにもたらしたことによって大流行したものでと記しております。 西洋の貴族の女姓が舞踏会でドレスの胸元と背中を広く開け「黒死病・ペスト」ではないとワルツを踊ったと云われております。

黄熱病のウイルスは昭和2年(1927)に分離されており、野口英世は昭和3年(1928)、黄熱の研究中に英領ゴールド・コースト(現在のガーナ)の首府アクラで死亡しています。


◎野口英雄博士

感染症のウイルスは、地球が誕生し、生命が誕生した時代より存在しました。生命体の進化(環境)により強力な毒性の強いウイルスに変化してしまいました。
環境の変化とは、急激な人口移動により風土病が一部地域に止まらず全世界に移動し拡散を続けております。
科学とウイルス生命体の戦いは今後も永遠に続きます。今後、ウイルスを放射線などで刺激し変化させないようにしなければならないと思います。
感染症の薬としてノーベル賞の大村智北里名誉教授が開発した抗寄生虫薬「イベルメクチン」が新型コロナウイルスに有効なようです。
新型コロナウイルスの抑制に効果があったとオーストラリアのモナシュ大学の研究チームから報告されております。
地球温暖化、二酸化炭素の削減、原発問題、新経済政策、医療体制の早期の再検討が望まれます。