福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

※掲載画像文章の無断複製・転載を禁ず

余話渋沢栄一の生涯22話~27話

2021年10月08日 | 渋沢栄一の生涯
タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(22話)
サブタイトル 渋沢栄一と富岡製糸場  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
 江戸時代末期、鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めました。その当時最大の輸出品は生糸です。生糸の輸出が急増したことにより需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられ粗製濫造問題がおきました。諸外国から生糸の品質改善の要求、外国資本による製糸工場の建設の要望が出されました。
 明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善と生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場を群馬県富岡(富岡市富岡1番地1)の地に建てることにしました。富岡製糸場の設立にあたって、明治3年大蔵少輔、伊藤博文、租税正、渋沢栄一が命ぜられ、フランス人ブリューナーを雇入れて創業に当たりました。農家出身で蚕桑や蚕種に詳しかった渋沢栄一は、富岡製糸場設置主任に任命されます。工場建設並びに操業開始に尽力したのは当時民部省に出仕していた従兄の尾高惇忠です。惇忠は富岡製糸場の設置を命じられ、建設用地の選定から携わりました。
工場建設の資材、即ち木材からレンガの製造、組立まで努め、工女募集についても自らの子女を率先して応募させました。 
従兄の尾高惇忠は、漢籍などの学問を少年渋沢栄一に教授し、高崎城乗っ取りの謀議、横浜街焼き討ち計画し、彰義隊に参加し箱館まで転戦したサムライです。また、惇忠の妹、千代は栄一の妻です。
  建築資材のレンガや、レンガを接着するモルタルは、当時の日本ではほとんど知られていませんでした。レンガづくりは地元深谷市の韮塚直次郎に依頼して、瓦職人たちにより甘楽町福島の窯で焼き上げ、モルタルは同郷の左官職人である堀田鷲五郎、千代吉親子により日本固有の漆喰を改良して仕上げるなど、苦難の末、富岡製糸場は無事完成しました。着工は、明治4年3月、竣工は、明治5年7月(主要部分)、創業は、明治5年10月4日(新暦明治5年11月4日)です。
富岡製糸場の初代場長となった尾高は、特に工女の教育に重点を置き、一般教養の向上と場内規律の維持につとめました。
 
 深谷市明戸出身の韮塚直次郎は、富岡製糸場の建設にレンガ製造や資材調達のまとめ役をつとめました。韮塚は尾高惇忠宅で家事使用人との間に生まれ、7歳まで尾高家で過ごします。のち彦根藩士の娘を尾高家の見立て養女として妻としました。富岡製糸場建設にあたって、単身、富岡に移住し、レンガづくりなどの任務にあたりました。明治時代の初めに、主要な建築材料となるレンガを大量生産する製造方法は一般的に確立されていなかったため、韮塚直次郎は地元の明戸から瓦職人たちを束ね、設計者の外国人技師バスティアン等からレンガの素材や性質のアドバイスを受けながら、材料の粘土探しからはじめました。そして、富岡に近い笹森稲荷神社(現在の甘楽町福島)付近の畑からレンガに適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、レンガを焼き上げることに成功しました。
 尾高ゆうは、尾高惇忠の長女、万延元年(1860)の生まれ。父の尾高惇忠が苦難を乗り越えて建設した富岡製糸場ですが、フランス人技師の飲む赤ワインが若い娘の血と誤解されたことから、工女の募集は生き血を絞るためという噂が広がり、創業の礎となる工女の募集は困難を極めました。14歳のゆうは、新たな製糸技術の習得に胸を躍らせて、明治5年に伝習工女の第1号となりました。
 尾高ゆうの決断は近郷の少女たちの気持ちを刺激し、下手計村の松村くら(17歳)をはじめ5人の少女や、くらの祖母わしは62歳の高齢ながら志願し、工女取締役として富岡製糸場の繁栄を支えました。
 平成26年(2014)、世界文化遺産とり「富岡製糸場」は多くの見学者が訪れています。その後、深谷で焼いたレンガの建造物は東京駅、旧日本銀行、東京大学など多くの建築に使われました。
(つづく)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(23話)
サブタイトル 渋沢栄一と富岡製糸場②  
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治4年3月に着工した富岡製糸場は、深谷市明戸出身の韮塚直次郎がレンガ製造や資材調達のまとめ役をつとめました。韮塚は尾高惇忠家の家事使用人との間に生まれ、7歳まで尾高家で過ごしました。直次郎は彦根藩士の娘を尾高家の見立て養女として妻としました。
富岡製糸場建設に、単身、富岡に移住し、レンガづくりなどの任務にあたりました。明治時代の初め、建築材料のレンガを大量生産する製造方法は確立されていなかったため、直次郎は地元の明戸から瓦職人たちを束ね、設計者の外国人技師バスティアン等からレンガの素材や性質のアドバイスを受け、材料の粘土探しからはじめました。
そして、富岡に近い笹森稲荷神社(現在の甘楽町福島)付近の畑からレンガに適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、レンガを焼き上げることに成功しました。
 平成26年(2014)、「富岡製糸場」は、世界文化遺産となりは多くの見学者が訪れています。
深谷で焼かれたレンガは、東京駅、旧日本銀行、司法省(現在の法務省旧本館)、旧警視庁、旧三菱第2号館、信越線碓氷峠の鉄道施設など多くの建築に使われました。
深谷のレンガ工場は利根川の支流小山川に面しており製造されたレンガは舟運で小山川から利根川そして江戸川に入り東京に運ばれました。
渋沢栄一は、輸送力向上のため明治28年に日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道を敷きました。 
尾高惇忠の長女、尾高ゆうは、万延元年(1860)の生まれ。父の尾高惇忠が苦難を乗り越えて建設した富岡製糸場は、フランス人技師の飲む赤ワインが若い娘の血と誤解されたことから、工女の募集は生き血を絞るためという噂が広がり、創業の礎となる工女の募集は困難を極めました。14歳のゆうは、新たな製糸技術の習得に胸を躍らせて、明治5年に伝習工女の第1号となりました。
 尾高ゆうの決断は近郷の少女たちの気持ちを刺激し、下手計村の17歳の松村くらをはじめ5人の少女や、くらの祖母わしは62歳の高齢ながら志願し、工女取締役として富岡製糸場の繁栄を支えました。
ここで技術を得た「伝習工女」たちは、フランス人から最先端の技術を学ぶパイオニアでした。
「伝習工女」は、研修期間を終え帰郷すると、その技術を地元に伝習する指導者となりました。このため、集まった伝習工女は、士族など地方の名望家の子女が多数を占めており、なかには、公家、華族の姫までいたので、地域の人は、伝習工女のことを「糸姫」と呼んでいました。
富岡製糸場で最先端の技術を身に着け、そして指導者になるという、誇りも高く研修作業に励みました。
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(24話)
サブタイトル  近代税制、地租改正① 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
明治2年3月、陸奥宗光から「租税制度改革の建白書」が提出され、大蔵省の渋沢栄一は、「地租改正案」を起案しました。
維新直後の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼らざるを得ず財政基盤がぜい弱で、年貢による税制度を改革し、全国統一の安定した税源を確保することが急務となっていました。
明治6年、全国の府県知事を集めた地方官会同での審議を経て、地租改正条例などが成立し、明治政府は地租改正に着手しました。
初期の明治政府の財政政策は、歳入は国債や政府紙幣発行収入、民間からの借入金で、歳出には国債償還や紙幣償却、借入金返却が含まれていました。
 決算第1期(1867年12月~1868年12月)は歳出の85%の赤字、第2期、第3期と赤字幅を縮小し、第4期は小幅な黒字となりました。
この期間は明治政府の直轄地である府県のみが対象で、廃藩置県後の全国を対象とした第5期~第8期は小幅の黒字です。これは主として歳出の抑制によるものです。明治8年~明治20年の財政バランスは西南戦争期を除いてすべて黒字となりました。
廃藩置県後の明治政府は年間経常歳入の2倍に及ぶ旧藩の累積債務の処理問題に直面しました。
 明治政府は、成立直後から歳出削減を図るために秩禄の削減を進める一方、歳入面では租税の金納化する財政改革を実施しました。
秩禄(家禄と賞典禄を合わせた呼称。家禄は、華族や士族に与えるお金、賞典禄は明治維新期の功労者に付与されたお金)の整理、処分は版籍奉還時点から着手され、明治9年の金禄公債証書の交付まで続きました。
秩禄の支給額は廃藩置県後の経常歳出の33%を占め、国家予算歳入の大半を占めている地税収入の42%に相当しました。
明治5年2月、明治政府は秩禄処分で、明治9年に江戸時代に武士がもらっていた俸禄(秩禄)を廃止した政策です。
秩禄の支給は、戸主の家禄に限定し、明治6年12月100石未満の家禄、章典禄の奉還者に6か年分を現金と利付秩禄公債を交付し、翌年100石以上の者にも拡大しました。
また、秩禄奉還を申し出ない華士族の家禄について家禄税を賦課、明治9年8月金禄公債の交付によって、秩禄の支給が廃止されました。このことこのことが西南戦争を起こすことになります。
 また、藩債、藩札などの累積債務処理について本格的に取り組むのは廃藩置県以降でした。
明治政府が外交経路を通じて旧藩の外国人に対する債務の返済を厳しく要求されており、同様に藩札のどの内国債についても対応が迫られました。
外国債は9割強が返済、内国債は名目額で5割、時価換算で9割弱が返済出来ません。また藩札は36%が返済出来ません。
明治6年,新旧公債証書発効条例によってその処理方針が決定されました。
渋沢栄一と井上薫は、明治6年、大蔵省議事章程で、各地方の長次官70余名を集め、井上薫大蔵大輔が議長となり地方要務の諸件を議決しました。土地・税制改革の 地租改正は、「土地にかかる税金」のことです。
(つづく)


タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(25話)
サブタイトル  近代税制、地租改正② 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
 明治5年3月、東京、大阪間に郵便が開設され、4月に江戸時代の宗門人別帖に代わり、戸籍法が制定されました。当時の日本国の総人口は。現在の4分の1の人口で3311万人でした。
壬申(こうしん)の干支に生まれた「壬申戸籍」は、皇族、華族,士族、平民、卒族、旧神官、僧、尼、等を個別に集計しました。明治11年までこの戸籍を戸長が管理し、郡村制施行後は役場が戸籍を管理しました。 
渋沢栄一(32歳)は、6月20日、東京府平民となり、11月22日 父・市郎右衛門(62歳)が他界し、12月12日、従五位に叙され、12月、神田小川町裏神保小路に妻ちよと転居しました。
12月9日、大蔵省各寮に関する事務を、丞官に分課され、渋沢栄一は、造幣寮、紙幣寮、統計寮、駅逓寮、ニユーヨーク往復・ドイツのフランクホールド往復の事務担当となり、明治政府の財政政策を進めました。
 7月に廃藩置県、文部省が設置され、10月に遣欧岩倉使節団が出発しました。12月に新紙幣発行が布告されます。明治4年、大蔵省「紙幣司」が創設され翌年、初代紙幣頭(現在の理事長)に渋沢栄一が就任し、「太政官正院印書局」が創設されました。
当時政府の印刷工場が紙幣を印刷し、国立銀行に発行機能を持たせるとする構想から、紙幣寮から印刷局の初期にかけては銀行の監督業務も職掌しました。
明治維新の3大改革の一つには,国家財政を安定させるために,地租改正(地券)を実施しました。 まず初めに,明治5年,江戸時代に禁止されていた土地の自由売買を認め,地価を定めました。さらに,土地の所有権と納税者を確認するため,地主と自作農に地券を発行しました。 翌年の明治6年,地租改正条例が公布され,豊作、凶作にかかわらず地価の3%を土地の所有者が現金で納めることになりました。しかし, 従来の年貢額を減らさない方針で地租率が決定されたため,そ の負担は軽減されませんでした。農民は負担軽減を求め,明治9年,各地で地租改正反対一揆を起こし、一揆が不平士族の乱と結びつくことを恐れた政府は,明治10年,地租率を3%から2.5%に引き下げました。 地券には、所在地,土地の地目、面積,所有者名,地価,地租額を記入します。
 また、地券を土地所有者に交付する府県の印と大蔵省が府県に配付した「地券之証」印が押印され、上部には地券台帳との割印があることが多い。譲渡や売買により所有者が変わる場合には、地券台帳を訂正して新たに地券が発行されました。一方、地券の裏には、土地所有者は必ず地券を所有すること、日本人民以外の土地所有禁止などの4項目、が記載されました。
 当初の地券用紙は和紙の木版印刷で製造されていたため大量生産は困難でした。地租改正の期限が明治9年までとされたことから、地券用紙の供給を早急に進めなければなりません。
 明治9年4月に地券用紙の製造担当であった大蔵省紙幣寮刷版局が、東京府王子村に新たな工場(現在の国立印刷局王子工場)を開業させ、輸入した印刷機器と外国人技師を使い洋紙による地券用紙の製造(洋紙の製紙及び印刷)を開始しました。

写真 渋沢栄一が設立した明治8年王子村の製紙「抄紙会社」(現・王子製紙)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(26話)
サブタイトル  国立銀行設置へ 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明

明治政府は殖産興業政策の遂行ため、健全な通貨制度と近代銀行制度を確立するため渋沢栄一の起案により国立銀行条例を制定しました。模範となる国立銀行の設立をアメリカのナショナルバンクの制度をモデルとしました。大蔵小輔(現大蔵省事務次官)渋沢栄一(32歳)は、合本主義(渋沢の資本主義は、(1)公益に資することを資本主義の本題とすること、(2)株式会社のステークホルダー(株主、顧客、地域社会、債権者、取引先、従業員、行政など企業を取り巻く利害関係者の集団)と定義し、広く民間資金を集める銀行の設立を急ぎました。
幕末戊辰戦争で新政府軍に資金提供した両替商の重鎮三井組、小野組の大口出資の協力を得て国立銀行の開設が決まりました。渋沢は、バンクを銀行と命名しました。
明治5年9月1日、三井組の大番頭三野村利左衛門、斎藤純造は、渋沢栄一を訪ね、国立銀行設立の許可を、三井組のみと要望しましたが、渋沢は、合本主義、株式会社の仕組みを再三説明しました。三野村利左衛門、斎藤純造は、協同経営を了承し、三井、小野両組の協同経営が決まりました。即日9月1日、井上薫大蔵大輔(大蔵省副大臣)と渋沢は、三野村の邸を訪問し、三井組の総領、三井八郎右衛門と面談し、国立銀行の方針を授け、頭取には三井八郎右衛門(当主は代々八郎右衛門・三井高福)、小野善助(京都の豪商の8代目,生糸販売,両替業、新政府の為替方、巨額の資金を調達)を挙げ、取締役、支配人、副支配人等を指名し、日本橋兜町に新築した三井組の為替座を営業所にあてることも決まりました。
資本金250万円(約500億円)のうち、三井組、小野組が各100万円を拠出し日本最初の株式会社の銀行です。頭取は、三井組、小野組それぞれからを選任する一方で、その上に経営の最高責任者である総監役を置きました。総監役は政府にあって国立銀行条例の立案にあたり、三井組と小野組を勧奨し設立を準備した渋沢栄一が大蔵省を辞して自ら就任しました。 
国立銀行本店での創立総会は明治6年6月11日開催し、同年7月20日に本店と横浜、大阪、神戸の三支店で営業を開始し、12月には行章として赤い二重星(ダブルスター)を大蔵省に届け出ました。
開業翌年の明治7年11月に、小野組は、政府の一方的な金融政策の急変と三井組の競争に敗れに破綻し、小野組関連貸出等が回収困難となり経営危機を招きましたが、小野組保有の株式100万円の資本減少を行い、総監役を廃止し渋沢栄一が単独で頭取となる新体制を敷き危機を回避しました。 
渋沢栄一の日本初の国立銀行(第一国立銀行)は、現在のみずほ銀行です。渋沢の指導により、この条例を基に民間によって数多くの銀行が設立されました。明治12年の時点で全国に153の国立銀行が設立されました。 
(つづく)

タイトル 「青天を衝け」と渋沢栄一(27話)
サブタイトル  国立銀行を清水組が建設 
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
大蔵小輔(現大蔵省事務次官)渋沢栄一(32歳)は、通貨制度と近代銀行制度を確立するため国立銀行条例を制定しました。
渋沢栄一が、民部、大蔵省に在籍した時期は、合併したり分離したりと諸改正と人事異動があわただしく行われました。中心的な役割を担ったのは、大蔵卿の伊達宗城、大久保利通、大蔵大輔の大隈重信、井上薫、大蔵小輔の伊藤博文などです。栄一は、明治6年、国家予算に対する司法、文部省の歳出「定額増加論」に反対し、井上薫と共に奏議書を提出し、辞意を表明しました。
5月4日、「各省経費増額の要求益々烈し。大蔵大輔井上馨極力論争したれども、遂に拒む能はず。5月3日に至り辞意を決し、栄一之に同じ、是日辞表を奉呈す。14日願に依り出仕を免ぜられる」。
34歳で大蔵省を退官した渋沢栄一は民間人となり、すぐに自ら設立に関わった第1国立銀行の総監役に就き、頭取として同行の発展に努めました。
第1国立銀行は後に、合併を繰り返して第1勧業銀行となり、現在のみずほ銀行へとつながります。
他に、第16、19、20、77などの国立銀行の設立を指導し、日本勧業銀行、北海道拓殖銀行、秋田銀行、台湾銀行などの設立、運営にも関わりました。
 第77国立銀行(仙台市)は、明治11年、創立発起人総代らは渋沢栄一に会い銀行設立に関する指導を受けました。
同年10月に、栄一は従兄弟の渋沢喜作とともに開業前の同行に立ち寄り、現地で銀行設立を指導しました。その後も株主として出資し、同行の創立を物心両面から支援し、明治42年には相談役に就任しています。
 また東北地方の発展に心を砕いていた栄一は、大正6年10月に東北振興会会長として北陸、東北六県を18日間かけて巡回、「国の繁栄には地方の振興が欠かせない」「地方振興には現地の奮起努力が不可でさる」と説きました。
国立銀行の設計者は2代目清水組(現清水建設)の清水喜助で、日本橋兜町の海運橋東詰に国立第1銀行を建てました。国立銀行の豪華な姿は人々の目に留まり、東京の名称の一つとして、錦絵や写真に収められました。
設計施工すべてを自分たちで手掛け、木骨石造、日本屋根、塔を組み合わせ、和洋折衷の建設です。
2代清水喜助(井波清七)は、富山県南砺市井波の出身で、初代喜助と同郷で、宮大工輩出の地として知られています。
2代目清水喜助は、幼少の頃から社寺建築に親しみ、大工を天職と決め、天保年間に初代喜助を頼って江戸に出ました。初代喜助は江戸城西ノ丸の造営に参加し、22歳の清七は、清水喜助の娘婿になりました。 
2代清水喜助は、横浜のデント商会の外国人技術者、ブリジェンスから西洋建築を学び、慶応2年、横浜新田北方製鉄所、神奈川ドイツ公使館を建て、明治3年には、横浜居留地商館を請け負いました。
2代清水喜助は隅田川のほとりに三井財閥の守護神とされている三圍稲荷内社を完成させました。
三井組の大番頭、三野村利左衛門介は、清水喜助に三井の建築を請け負わせ、渋沢栄一の知遇を受けました。
明治5年9月には第1国立銀行は、使用を開始し、明治8年、イタリアのパルミエーリ姉妹によるオペラ・コンサートが開催されました。 
(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿