89歳の日々

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万葉集を読む: 「大津皇子24歳の死を探る」

2021-02-09 12:02:45 | 万葉集

        (奈良県葛城市にある二上山の山頂にある大津皇子に墓地)         

          

                                             万葉集 大津皇子24歳の死を探る          

        大津皇子、石川郎女に窃(ひそ)かに婚(あ)ひし時に 津守連通(つもりのむらじとおる)のその事を                           占へ露はすに皇子の作りませる御歌一首 

大船の 津守が占(うら)に告(の)らむとは 兼ねてを知りて 我が二人寝し  万葉集2109 大津皇子

(津村の占に露見する事は前もって分かっていて、それでも私たちは二人寝たのだ)

    大津皇子は懐風藻に「その人柄は自由気ままで規則に拘らず」と書かれている彼らしい大胆な歌であるが、この大津皇子の自害に至る24年間の人生の一端を資料から調べたいと思う。

    この歌の相手の女性・石川郎女は大津の高祖父・蘇我倉山石川麻呂につながる大和高市郡石川の豪族の出身とみられている。万葉集2‐129の詞書に「大津皇子の宮の侍(まかたち)石川郎女」とあるが、その遠縁であってか侍(まかたち)すなわち大津皇子宮の侍女をしていたことが知られる。

あしひきの 山のしづくに妹待つと わが立ち濡れし 山のしづくに  万葉集2107 大津皇子

吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに 成らましものを 万葉集2108 石川郎女

    大津皇子と石川郎女の相聞歌だが、同時期に皇太子草壁皇子も石川郎女(大名児)に下記の相聞歌を贈っている。(石川郎女は万葉歌人としても非常に有名な女性である。)

                                                                 日並 皇子尊の、石川女郎(大名児)に贈り賜へる御歌一首               

大名児が 彼方(をちかち)野辺に刈る草(かや)の 束の間もわが忘れめや  万葉集2110 皇太子草壁皇子

    皇太子草壁も交えた三角関係であるので一般には非常に難しい恋愛であり、2-109番の詞書にあるように自分の侍女であった石川郎女と“窃(ひそ)かに”逢った事が知られる。にも拘らず大津皇子は「二人寝た事が露見しても構わない」と豪語している。「窃(ひそ)かに」という言葉遣いには、「禁忌を犯す」不倫の意味があって石川郎女は既に草壁皇子の愛人で、大津皇子が奪って恋人にしたのではないかとも考えられている。

   津守連通(つもりのむらじとおる)(当時有名な陰陽師)の占に露見する事はと大津皇子が歌うが、当時彼は常に監視されていてそれも感知していただろうと推測される。                              

 皇太子草壁は現天皇の天武と 鸕野讃良皇后の一人子で681年に皇太子になった。すでに679年に天武天皇との吉野の盟」では第一の皇子であり(大津皇子は第二)この事実上の後継者を6人の皇子で守る事が誓約された。一方大津皇子の母の大田皇女は天智天皇の皇女で 鸕野讃良皇后の姉にあたり普通ならば皇后になり草壁と同年齢の大津が皇太子になり得たと思われるが、母の大田皇女は大津が4歳の時に亡くなり唯一の兄妹である姉の大伯皇女も斎女とされ伊勢に行ったので大津には後ろ盾は乏しかった。                              

 『日本書紀』天武天皇12年(683年)に「大津皇子、初めて朝政を聴しめす」とあり草壁皇太子の2年後の事であるが、これで草壁と同等の皇位継承権が発生し皇太子草壁の後継は曖昧なものになったと言う考えもあり、天武天皇亡き後直ちに草壁の母・鸕野讃良皇后は大津皇子に謀反が有りとして大津を自殺に追い込む。

 『日本書紀』大津皇子が死を賜った(686年)10月3日の記事の後に「彼は威儀備わり、言語明晰で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み・・・」とある。         『懐風藻』に「大津皇子は天武天皇の第一皇子である。丈高くすぐれた容貌で度量も秀でて広大である。た。性格はのびのびとし自由に振舞って規則などには縛られなかった。高貴な身分でありながらよくへりくだり人士を厚く待遇した。このために皇子につき従う者は多かった。                                                                                                 当時、新羅の僧で行心という者がいた。天文や占いをよくした。僧は皇子に告げてこう云った。“皇子の骨柄は人臣に留まっていて良いという相ではございません。長く下位に留まっておりますなら、おそらく身を全うすることはできないでしょう”」などと書かれている。                                                                                 第二の皇位継承者がこのように有能で人々に慕われる人物であった事は、古今の歴史でもその直近の事件を見ても非常な危険を伴っていた。

   まず658年、天智天皇が中大兄皇子の時代に実権は中大兄皇子が握りながら叔父を孝徳天皇にし、その天皇亡き後は天皇の子の有間皇子を蘇我赤兄にそそのかせて謀反の罪で処刑した。19歳の有間皇子の痛切な嘆きの歌に、人々は未だに同情を寄せている。                  

磐代の 浜松が絵を引き結び 真幸くあらばまた還り見む        万葉集2141  有間皇子           家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る     万葉集2142 有間皇子

   更に672年、古代日本最大の内乱と言われる壬申の乱では、天智天皇は我が子の大友皇子を後継にする意思を示すと天智天皇の弟の大海人皇子は大友皇子を皇太子に推挙して自分は出家して吉野に下った。しかし天智天皇が崩御されると直ちに大友皇子を攻め、戦いに敗れた大友皇子は24歳で自決した。反乱者の大海人の皇子が天皇の後継者を自害させて、天皇になったと言う日本では例を見ない事件も大津皇子の死のわずか14年前の事であった。

   大友皇子が叔父大海人皇子との戦いに敗れ24歳で自決した当時、大津皇子は10歳位だったが親しい従兄の皇位継承者としての悲劇を目の当たりにして、凡庸ではなかった彼が第二の王位後継者である吾身の危険を感じざるを得なかったであろう。大津皇子が死に臨んだ時に中国の臨刑詩を元にしたと思われる漢詩を遺している。「鼓声生命の短を催す、日光西に向いて斜めなり、黄金に客主なし、今夜誰が家に向かはむ」この隋の捕虜になって受刑を待つ長安に連行された陳後主(553~604)の詩を常々吾身と重ねていたのではないか。この詩は丁度天武元年672年に唐から智蔵法師が帰国し彼の弟子の智光が陳後主の詩を収録していたので、智蔵法師と大津皇子は天武期の詩壇での交流があった可能性が高い事から大津に伝わったと考えられる。

日本書紀』には「天武天皇が686年9月9日崩され24日以降に本格的な殯宮礼儀が始まり、この時に大津皇子は皇太子に謀反を企てたとして、10月2日その謀反は発覚して逮捕され、合わせて皇子大津に欺かれた人々30余人を捕らえた。10月3日皇子大津は自宅の訳語(おさだ)田(た)で死を賜った。時に年24歳。妃の山辺皇女(天智天王の皇女)は髪を乱し裸足で走り出て殉死し、見る者は皆すすり泣いた」と書かれている。妃が裸足で走り寄って殉死されたと言う稀有な事柄ほどに大津皇子は妻にも愛された人物だったのであろう。

    皇太子草壁のライバルとしては有能で人望の厚い大津皇子は、父の天皇亡き後に生き残れる道は今謀反を起こすしかないと思ったかもしれないし、「人士を厚く待遇し、皇子につき従う者は多かった」と言われた大津を支持する人も少なく無かったであろう。特に天智天皇に愛されたと言う大津皇子には天武天皇の急激な改革に親しまず天智天皇を慕う人々の支持も当然多かったであろう。彼の性質からして、僧になって一時でも逃れるとか姑息な手段で生きようとは思わなかったと推測する。『懐風藻』に河島皇子一首として「はじめ大津皇子と莫逆の契を為しつ、大津の逆を謀るに及びて河島則ち変を告ぐ・・・」とあり、大津皇子が疑いもせずに親友の河島皇子に心の内を語った処、河島が直ちに皇后方に知らせたと言われている。

 10月2日に謀反として発覚し次の3日には大津皇子は死を賜る。初めから監視され、予定されていたような早さであり大津皇子以外30余人の杵(ときの)道作(みちつくり)は伊豆に、新羅の沙門行心は飛驒に流されたが、他は全て詔により許された。大津の刑執行の速さとそれ以外の者の刑の軽さが不自然と思われている。

 『日本書紀』には、「大津皇子は有能で才学に富み、特に文筆を愛されたこの頃の詩賦の興隆は大津皇子に始まったと言える」と讃えられていて、彼の七言絶句「春苑言宴」、「狩猟」など優れた作品と言われ、臨終の歌は陳後主の臨刑詩を思いながらであろう、下記を遺している。

鳥は西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す 泉(せん)路(ろ)賓主無し                                                                                                             此の夕べ家を離(さか)りて向ふ       大津皇子           

ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ 万葉集3-416   大津皇子        

   皇太子草壁については『日本書紀』に「13日皇太子草壁皇子尊が薨去された。」と半行あるのみで大津皇子に就いての様々な記事とは違い皇太子草壁自身の個人的な記述は何処にもない。大津皇子の自害の3年後に皇太子のままでの病死であった。柿本人麻呂が日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時に作った有名な長歌と短歌があるが一般的な壮大な歌である。

   大伯皇女は大津皇子の姉であり、父は天武天皇、母は大田皇女(天智天皇の娘で持統天皇の同母の姉)であり、大伯皇女は実存する初代斎宮で壬申の乱の戦勝を感謝するために13歳で選ばれた。大伯皇女は非常に高貴な血筋の女性であったので有力な皇子と結婚すると弟の大津皇子の強力な後ろ盾になり皇太子草壁の地位を危うくすることを恐れられ遠い伊勢の斎宮に任命されたと考えられている。

          大津皇子秘かに伊勢新宮に下りて 上り來る時に大伯皇女の作らす歌二首                 我が背子を 大和へ遣るとさ夜ふけて 暁(あかとき)露(つゆ)に我が立ち濡れし 万葉集2‐105  大伯皇女        二人行けど 行き過ぎ難き秋山を 如何にか君がひとり越ゆらむ                             万葉集2‐106    大伯皇女

    万葉集の中でも人々の胸を打つ大伯皇女の歌は、全て弟の大津皇子への哀傷歌である。上記は大津皇子が伊勢に行って姉の大伯皇女に会った後に作られた歌とされ、斎宮に会えるのは天皇の勅使のみで弟でも許されなかったと言われるが, 彼は禁を破り死をも予測して今生の別れを唯一の姉に会いに訪れたのであろうか。『万葉集全注』によると飛鳥から伊勢まで約100キロ、大津皇子は人目を避けて吉野を経て行く迂回路を馬で往復したとしても朝早く発つと夕方には伊勢に着くそうである。

        大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大伯皇女の哀しび傷みて作りませる御歌二首         うつそみの 人なる我や 明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む                   万葉集2165      大伯皇女      磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに 万葉集2166 大伯皇女

    この歌により、大津皇子の遺体は二上山に移葬されたと思われていて、私も以前高さ500mの二上山に 登ってその墓地を訪れた事がある。度々お詣りに登っていると言う男性に会うと「あなたも皇子を偲んでですか、全国からも来られるのですよ」と言った。                                  大伯皇女は天武天皇の崩御が686年9月で、それに依って斎宮の任を解かれ京に着いたのが11月であったが、その前月10月に弟大津皇子は死を賜っていた。701年には大伯皇女が41歳で亡くなった。                           2021年5月                            石川県小松市「万葉集をよむ会」   寺前みつ子  


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