89歳の日々

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 オーストラリア(2)  まだ雨のシドニー

2010-03-04 21:47:21 | 海外旅行
         お腹に子供が入っているカンガルー    

 シドニーの2日目も、サイクロンは未だ居座っていて、
ブルーマンテン辺りでは土砂崩れが報じられたりしています。

午前中にご主人のB氏と近くの コアラパークに行きました。
コアラは夜行性なので昼は木に掴って寝ているのを係りの人が説明するのに、
木から剥がして来るので可愛そうでした。
オーストラリアは離れた大陸なので珍しい鳥や動物が沢山居るので、
この園でもゆっくり見物し(放し飼いのも多い)結構楽しみました。

B氏の家ではうるさいほどの野鳥の声で目を覚まされますが、
レインボウカラーという極彩色の美しい鳥なども来ます。
彼は野鳥の鳴き声を真似て鳥よせ等もなさる方で、色色教えて頂きました。

午後から大きな複合商店街(デパートも2軒入っているほど大きい)
中にあるスーパーに寄り、今夜のパーテイの食べ物を買いました。
私はチャーハンとお豆腐の入った八宝采を副菜に作り手伝いました。
お客様は、ご夫婦共にバーミンガム大学の同窓の友で奇しくも
同じロータリークラブのメンバーです。

お料理は私が作った外には、夫人が果物を綺麗に飾りつけたデザートでしたが、
会話がご馳走なのでしょう、夜遅くまで賑やかに話が弾みました。
お友達の夫人はお医者様ですが、これから手術を控えて居られました。
彼らの家の土地は4800坪あるそうです。
庭に手は掛けていないそうで雑木林の様なのかも知れません。
土地が広い国ですね。

次の3日目は土曜日で、B夫人の甥の家でブランチパーティーがありました。
夫人は何か持ち寄りのお料理を用意して10時に私共も一緒に家を出て
11時頃につきました。
其処は、シドニー旧市街の官邸近くで1860年頃のヴィクトリアンハウスの
内部を極くモダンに改修した 4億円の家ということでした。
外部はそのままの形ですが、内部の改修のデザイナーも有能な方を
選んだと思いますし、モダンなアフリカ系のオーナメントが飾られ、
使うお皿も何もかも決まっていて、如何にもインテレクチュアルな家でした。
若いご夫妻は投資銀行に勤めており、特に上司のご夫人が有能な方でこのような
素晴らしいお家を作られたとの事でした。

そのご当主の婦人は40歳台の優しそうな方で、若い頃に東南アジアを巡る船で
日本に寄られた事がある等と話していました。
ご主人はニューヨークに主張中でした。お子様は居ないのですが、
飼っている大きな犬は優しくて皆に可愛がられていました。

B氏夫妻、B夫人の妹さんご夫妻、若いご夫妻にお子様たちで、
六組の夫妻に子供が5人ほどでしたが、
若い男性たちがベーコンやハムを焼いたり、
女性たちが大きなお皿に沢山の果物を盛り合わせたりで、
アットホームな食事会でした。その外持ち寄りのお料理も沢山あって、
当家の若い夫人バナナケーキを焼きましたが其れはお土産に貰って来ました。^
みな優秀な家系の集まりだったのではないでしょうか?

3日間、B氏ご夫妻のご親切なおもてなしを頂きましたが、
明日はシドニーのホテルに移動します。



 初めてのオーストラリア(1)  雨のシドニー

2010-03-03 22:52:38 | 海外旅行
            居間からの眺め(珍しい鳥たちも来ます) 

 初めてのオーストラリア大陸は、成田からシドニーに入りました。
いつものようにmailで連絡しあったITHF(外国の人達をお互いに親しく泊め合う会)
のメンバーの方が車で空港に迎えに来て下さり、郊外の彼のお宅に向いました。

 シドニーはサイクロンのせいで 降ったり 止んだりの日々でした。
広い道路に芝生が広がり、 大きな家が点在する アメリカ等に在るような
典型的な住宅地に着きました。
彼の地面は800坪ほどですが保護林に面していますので、
広いベランダが付いている部屋は林の中の 別荘にいる様な感じです。

 定年後夫人はボランテイアに関する仕事をされて不在でしたが、
昼食用に美味しいサンドイッチ用意して下さり、一休みした後ご主人が近くの
ブルーマンテインにお連れ下さいました。
 世界遺産なのですが公園のような山で、
別荘のような家並みや小さい商店街もありました。
相変わらず時雨のような雨が降っていましたので、
山の奥にも行かれず大きな滝や山塊なども朧気ながらにしか見られなかった
世界遺産でした。

 ご夫妻は、明日はご自宅にお客様を招かれるそうで、その日の夕食に
中華料理をお誘いしました。
湖のほとりのお安くて美味しいレストランでは、家族の事、
旅行の事などの話で二夫婦の顔合わせでした。

 彼等はスコットランドとイギリス出身で名門グラスゴー大学で学んだ学友
だったそうで、アフリカ等色々な国でも仕事をした後に、
オーストラリアに落ち着かれたのです。
 彼は次のITHFのプレジデントです。先ず第一日目のシドニーでした。


黒海のんびり2週間クルーズ(8) アレクサンドリア

2009-10-14 21:33:28 | 海外旅行
      現代の国立アレクサンドリア図書館

 最終の寄港地になるアレキサンドリアは古代世界では”地中海の真珠”と讃えられた都市だったそうです。「古代世界の七不思議」の中の”図書館”と”大灯台”の二つのもこの町に入っているのです。これらはは市内に有りますので、夫婦で見て廻りました

 先ず波頭にあった小さい銀行(ATMだったか)で現地のお金に変えました。 そこに立って居た人に「タクシーを1時間10ユーロでどうですか」とカモラレましたが、始めに調べていた値段より悪くは無かったのでOKしました。物陰からボロ車が現れ白タクでしが、タクシー乗り場が遠かったので、まあそれに乗る事にしました。

 ドライバーは体の大きなエジプト人で英語もまあまあ話し(私共とて大した事はないのですが)、こちらが行きたい所を言って道順と時間を相談しました。
 彼は早速大変きれいな奥さんと可愛い子供の写真を見せましたが、私共も実際その美人さに驚きました。彼もぼろを着ていますが良く見ると悪い顔立ちでは有りません。彼と半日一緒に過ごす事になりました。

 この街は海岸沿いに広がっており、同じエジブトでもカイロ等とは違い美しく整った町並みが続いています。

 七不思議の”ファロスの灯台”はアレクサンドル大王の案で作られ、120mの高さだったのが、14世紀の大地震で崩壊したと言い、現在も海中からその遺構が探し上げられています。
 その跡地に15世に要塞が造られました。私共も上まで登り、高所の丸窓から若き英雄・アレキサンダーが地中海を雄飛する姿を波間に垣間見ました。
 傍の白いモスクはレース編みのように美しく、夫とのんびりも見たり気持ちの良い日をぶらぶらと楽しみました。

 もうひとつの七不思議の”アレキサンドリア図書館”はBC3世紀にプトレマイオス1世が作った図書館で蔵書は70万冊あったと言われます。
 2002年とかに出来た新しい図書館は、ノルウエーの建築家達が作った半球形のガラス張りの11階建の巨大な建物で800万冊の蔵書があるそうです。沢山な人がコンピューターを使っていたりする現代的な建物で、古地図の展示や地下の考古学博物館もギリシャ・ローマの彫刻など素晴らしい美術品がありました。


 昼食はモンタザ宮殿のレストランを予定していましたが、時間が無くなり、図書館付属の食堂にしましたが、そこはハイヤット・ホテル経営の明るいレストランで、若いおしゃれな人達が賑やかに食事をしていました。

 地下墳墓(カタコンベ)はキプロス島と同じようですが地中海世界の雄・アレキサンドリアのは名を恥じない立派な建物でした。写真のように地下墳墓の入り口の両側には等身大のエジプトの神の彫刻が立っていました。

 何か素敵な物を買いたかったので、上等のショッピングセンターや骨董店にも行きましたが買いたい物がなくて残念でした。

 又又タクシードライバーの繰り言・・はじめ3時間30ユーロを、50ユーロにしたら何時間でも良いと言っていたのを、最後にもっと欲しいと言う。「始めの約束を守るべきよ・・」等言われて 彼は結局OKする。言うだけ言って見るのでしょうか。
  
 船に帰って夕食の同席者は、90歳近いノルウエーの男性と介護の若者。トロントからの夫妻。フロリダの精神科医(前も同席した)私共夫婦と妹の8人の食卓で。
 
 次の日は終日航海。はがきや日記(メモ程度)を書き荷物を纏める。
夕食にはそれぞれお料理を持った沢山のウエイターが、並んで食堂に入って来てテーブルを廻って練り歩き、私共も感謝の拍手で迎えました。
 沢山の人との思い出を残した最後の食事でした。

 このクルージングの期間のチップは、毎日部屋と食堂に、これだけは払って欲しいと船の方から文書で書いてありました。
 チップをどうするかに就いては、今度のように決められているのは珍しく、普通はみんなで相談し、同額にするとか、又は各自好きなだけ払うとか色々話し合って意見を纏めています。

 2週間の黒海クルーズは終わってピレウス港に着きますと、巨大な白い観光船が7隻も入っていて、流石世界の観光地と感心させられました。
 其処でホテル迄送るはずのバスが中々来ず、私共のグループは最終になってしまいましたがこれだけ観光客が多いと大変だと思いました。

 やっとバスでアテネのホテルまで送られ、この2週間の旅は終わりました。

  
 
 
 

黒海のんびり2週間クルーズ(6) キプロス島・パフォス

2009-10-13 22:06:25 | 海外旅行
         パフォスのモザイク(世界遺産)

 クルージンクの船はエルサレムから、キプロス島、アレクサンドリアを巡りました。このキプロス島の海の泡からアフロデーテイ(ヴィーナス)は生まれ、パフォスの町でで敬われるようになったと言われます。
 
パフォス(世界遺産のモザイク)
 ここは、BC310年頃の王の首都でアフロデーテイの聖域、宮殿などの遺構があったのですが、AD2世紀頃のローマ時代の貴族の豪邸群のモザイク床が世界遺産になっています。
 地中海世界では最も美しいモザイクタイルと言われ、デオニソスの館、オルフェウスの館、テセウスの館などギリシャ神話がモチーフとなっていてベージュ系の典雅な色合いで作られています。邸宅の他、大きな宮殿などもありました。 

地下墳墓(ネクロポリス)
 この海岸近くにはの王族や貴族の地下墳墓がありました。紀元3世紀頃のもので墓の数は100以上もあるそうですが、まだ発掘中です。洗骨して大きな壷に入れて埋葬しました。その金庫には地中海を囲む各地アレキサンドリア、ギリシャ、ペルシャ等の様々な金貨はあったそうです。地下には部屋の数も多く、ギリシャ風彫刻のある柱や棺の置かれた場所などもあって立派なお墓が沢山あります。
 キプロスを訪れたのも1年前になりますので、書くのはこの位にします。

黒海のんびり2週間クルーズ(5) エルサレム、

2009-10-12 20:59:08 | 海外旅行
     イエスの時代からの オリーブの樹

 黒海クルーズの最後のコースは ”エルサレム、ベツレヘム、アレキサンドリ、キプロス”になりました。私が「地中海クルージング」を選んだのはこれらの町の魅力に惹かれたからです。 それらは、何と魅力的な名前なのでしょう!

ベツレヘム、エルサレム:キリストが生まれ、そして最後となった町。
アレクサンドリア:「この町で無い物は雪だけ」と、高校の世界史で習いました。
キプロス:ここでヴィーナスは貝から生れたと言われます。

 黒海からのクルージングで中近東に行くためには、ボスホラス海峡を越えて終日航海をしました。その間に、船内の劇場に乗客を集めてエルサレムやベツレヘム、に行くバスツアーが詳しく説明されました。私共は「終日エルサレム」のコースを選びました。

オリーブ山
先ずバスはオリーブ山に着きました。写真のオリーブの巨木はイエスの時代からの樹と言われます。 確かにそうかも知れません。
と言うのは屋久島の杉は3,000年位のは沢山ありましたので、イエスの時代2,000年前からのオリーブなど珍しくは無いのではないでしょうか?
 このオリーブの茂るゲセマネの庭でイエスは人生で最後の祈りを捧げた所といわれます。

悲しみの道
 ヴィア・ドローサ・悲しみの道と呼ばれるこの道はイエスが十字架を背負ってゴルゴタの刑場に向ったところです。しかし道の両側には店がひしめき観光客があふれアラブ風な猥雑な雰囲気を漂わせる 世界一の門前町になっています。

聖墳墓教会
 「刑場のゴルゴタの丘」と「埋葬された所」と「復活した所」を覆って建てた巨大な聖堂です。最初は326年にコンスタンチヌス大帝の母ヘレナによって建てられ、現在のは12世紀の十字軍の後に、このロマネスク風な建物になったと言われます。

 内部にはキリスト教会、ギリシャ正教、アルメニア教会、コプト教会などが混在して居る複雑な建物の中には、世界中からの信者や私共の様な唯の観光客でいっぱいでごたごたしていました。
 でも入口の大きな平らな石はイエスの遺体に塗油した場所との事で、人人が口ずけしたり、涙を流している人も居ました。中には金色に輝く豪華な礼拝堂もあります。

嘆きの壁
 嘆きの壁の由来・・・BC20年ヘロデ王はエルサレムに大きな神殿を築きましたが、AD70年「ユダヤの反乱」を期にローマ軍に破壊されてしまいました。
 その戦いの後、世界に四散したユダヤ人は4世紀になって1年に1日だけエルサレムに入る事を許され、彼らは破壊を免れた神殿の遺構の前で祖国が失われた事を嘆きました。

 今でも沢山の黒い服を着て小さい帽子を被ったユダヤ人男性と華やかな服装の女性達がこの壁の前で祈りを捧げています。おかしいのは大風呂敷ほどの大きさの巻物の様な物を持ってくる人達です。何かと思いましたら其処に書かれているトーラ(旧約聖書の一部)を其処で読み上げるのです。
 暗記が出来ない多くの人のためには、貸バイブルが沢山置いてありそれを壁の前で読み上げていました。
 壁の隙間には、願いを書いた紙を差し込んでいるので、私共も真似をして何か書いて差し込みましたが、何を書いたかは忘れました。エルサレムはこの位にします。

孫娘と訪れたメキシコの人々 (1) メキシコ市とMさん

2009-10-10 02:26:59 | 海外旅行
       9月16日の独立記念日の飾りつけ

 メキシコ(1)    メキシコ市 と Mさん
ヒューストン経由でメキシコシテイに午後着きますと、白いブレザーを着た長身のMさんが迎えに来て下さいました。 当地のロータリーの会長が「彼はとても立派な方です」とmailを下さり、4日間も私共のホストを申し出て頂いた方に、ここで初めてお目に掛かりました。やさしい感じの方で、日系の3世のこの彼に4日間のスケジュールを総てお任せしています。

  まず日本人会館に迎いました。ここは、テニスコートやプールもある広い敷地に立派な庭園に面してお寿司や、焼肉のレストランもあり、中のお部屋では草月流の生花教室に参加している彼のお2人のご姉妹にご紹介頂きました。お1人はここでメキシコ人の生け花教師をなさっておられます。

  ここのお庭には、この土地も寄付された松本三四郎氏の胸像がありました。                   第2次世界大戦開戦の時、アメリカ国境近くの日本人が72時間以内に持てる物だけ持って、メキシコシテイ等に強制移動された時、大統領の知己でも有った高名な造園家の松本三四郎氏は自分の農園の建物を提供して百何十人もの日本人を救済された事を、後でMさんのお母様に伺いました。

 84歳のお母様はとてもお元気でお宅ではお嬢さん一家と住んでおられ、妹様も来られて賑やかな夕食でした。Mさんが大きなマンゴー入りのケーキを、甥ごさんが海老のフライをと、ここでは男性陣もお料理上手です。巻き寿司や蛸のお酢の物など沢山の美味しい日本料理で 初めてのお宅でこんなご親切にして頂き感激しました。

 お母様やその妹様も小さい時のことを良く覚えてお出でで、沢山の日本人が入植されたメキシカリには立派な日本人学校があり、幼稚園時代から日本に帰っても困らない様にと、その日本人学校に通い、メキシコの小学校に行った時には、夕方から夜まで、又日本人学校に通いとても眠かったそうですが、そのお陰で今でも立派な日本語を話されます。ご子息Mさんは英語の方が楽な用ですが日本語もかなり話されます。

 このお宅は50年も前に建てられ鉄筋造りでは広い居間や食堂などのとても立派なお家ですが、強制移動されて10数年後に広い敷地にこのような家も作られたのは、ここでお父様が短期間に大変成功された証と思いました。

 Mさんは独身ながら、500坪余のお庭がある48坪程の自宅マンションに住んでおられ、小さな別室付きのベッドルームを私共に提供して下さったのです。彼の作る朝食も、お庭の色々な果物も使って素敵なものでした。彼はかなり楽そうな自営業ですが、庭作りも趣味で広い庭を綺麗に保ち、片隅に作られたアスレチックジムで定期的に運動をなさるそうです。

 2日目、フランス人が治めていた時にシャンゼリーゼのように作られた大きい並木に面したロータリ会館に Mさんは私共を連れて来て下さり、ガヴァナーのチャーミングなF夫人をご紹介下さいました。九谷焼の“鴛鴦の箸置”を差し上げましたら、私共のホームページを開かれ、何もかも素晴らしいと言われ、特に九谷美陶園の売れっ子の「メキシカンシリーズ」を喜ばれました。

 美しい彼女の一番お勧めのシックなインテリアのメリアホテルでお食事をご一緒に頂きましたが、「M氏一族のプールのある7寝室の別荘は行くべきよ」など話され楽しい時間でした。 

 その後私共は有名な考古学博物館を見に行きましたが、巨大な石造文化に押しつぶされる程で予習して来た筈ですが、オルメカ、マヤ、トルテカ、アステカなどの各文明をとても消化できませんでした。

 丁度9月16日の独立記念日前で町はその飾り付け中でしたが、F夫人が夜はロータリーの独立記念パーテイに招いて下さいました。女性たちは皆、ひらひらの地方ごとの民族衣装を着て、男性でも銀色のメタルを飾った素敵な衣装の方もありました。カップルの衣装コンテストがあり、皆上気した顔で大騒ぎです。何と言ってもこのF夫人は真っ白い豪華なドレスに大きな花の髪飾りをつけ、にこやかに挨拶して廻る姿にかなう人はありませんでした。私共がこっそり帰ろうとすると、マリアッチの楽団と一緒に写真を撮して下さったり、皆々親切なメキシコの人でした。
              


孫娘と訪れたメキシコの人々(2) 世界遺産 ”銀の町タスコ” ”遺跡テオティワカン”

2009-09-27 16:24:21 | 海外旅行
        最大の遺跡「テオティワカン」

  メキシコ(2)   世界遺産めぐり“タスコ”、“テオティワカン”         
 3日目メキシコ市から170kほどの所に、18世紀には莫大な銀を産出した世界遺産の町「タスコ」にお連れ頂きました。     Mさんが運転を頼んだロータリーの友人の他に、孫娘が大人ばかりの中に居るのを可愛そうに思われて、男子大学生も誘い孫娘も賑やかな1日を過ごしました。

 山間の町を白い家が埋め尽くし、金で飾られた教会が町の中心に聳えています。町中が銀製品を売っていて其処で、私が3年ほど前から探していた銀の首飾り(九谷焼のペンダントを下げるための物)が有るのを知り、土曜日しか開かないマーケットにお連れ頂きました。折から大雨が降り出して、仮設のマーケットの足元は川のように雨水が流れる中をMさんは100軒ほどの小店の中から、私が探している物を1000種類もある銀のくびかざりから見つけて下さいました。これは前にイタリアでも散々探した物で、ここでメーカーからお安く求められ、本当に感謝感激でした。

 夕方メキシコ市に戻り、日本人会館でお会いしたS様が、お誘い下さったお宅に1時間ほどお邪魔しました。ご主人が日本人学校や、会館の建設に力を尽くした方で、旭日賞の額が掛けられてありました。入るとすぐ広い居間・・などが続きお広い綺麗なお家ですご夫妻に、親戚に伺ったような暖かいおもてなしを頂きました。

 メキシコは今、雨季なのですが、スコールがサッと来るだけで日本の様な長雨ではないと旅行案内に書いてありましたが、実際は着いた日から、半日は雨で寒く、凄い雷と風で大木が倒れたりする異常な日も有りました。

 最大の遺跡「テオティワカン」行きでは、いつもの6人乗りの車にもう一人の体格の立派な高校生が来ると、T氏は助手席を彼に譲り、車の3列目(自宅の車では囚人席といっている所に入り)大賑やかは遺跡めぐりです。その高校生も恐縮する事も無く皆々良く話しよく笑います。この遺跡はメキシコ市から50k位の所ですが、メキシコ市が東京のように広いので若い彼らを迎えに行くのも1時間も掛かります。

 メキシコ最大の都市遺跡「テオティワカン」には沢山の遺跡が広大な場所を占めています。BC350年~AD650年の間の繁栄の時には20万人の人口があったと言われます。当時ローマ以外 人口が2万以上の都市は無かったそうです。神制政治のために巨大なピラミッドが築かれた文明のようです。
 こんな壮大な都市を建てたメキシコの原住民は、何処に行ってしまったのか不思議に思います。
                                      先ず、「太陽のピラミッド(65m)」に私以外は皆登りました。朝から暑い日になり、孫娘には結構大変だった登りは、みな平気なようでした。

次の「月のピラミッド(46m)では大きな宗教行事はここで行われ、最も眺めが良いといわれます。1段の高さも高くて、とても私には登れないと思っていましたが、Mさんが「登りませんか」と何回か言って下さるので、高校生に手を引っ張って貰い登る事にしました。
 思ったより割合簡単に登りましたら上では皆が拍手で迎えて下さいました。見下ろすと中央の死者の道の両側に基壇が続く壮大な眺めで、これを眺められたのもMさんのおかげでした。このページの写真も「月のピラミッド」の上からのものです。

 遺跡への途中の車の中で、50mか100m程の山が紙くずの様な物で覆われているのに気が付き、何かと目を凝らすと一面の小屋か何かで出来ていて、巨大なスラムでした。 Mさmさんも「水はどうするのかな?」と言われましたが水道のあるような所ではありません。道路の傍には小さい工場のようなのも見えました。

 遺跡を見て帰路には、ホテルでブッフェで昼食となりました。美味しくて若者や皆が山ように大量に頂きました。私がうっかりしている内にMさんが支払って下さりすっかりご馳走になりました。(昨日の銀の町では、私が「何でも沢山召上って下さい」と何度言っても、皆はほんの少ししか注文しなかったのでその遠慮深いのに今更ながら驚きました)

 若者たちを送って、Tさんのお母様に家に行き、お母様の妹さんとバレーにお誘い頂きました。スペイン系の踊り子たちは顔立ちもはっきりして、海外公演にも招かれる「メキシコバレー」で、カラフルで美しい宝塚の様な舞台を楽しみました。
みな様たちをお寿司でもご馳走したいと申しますと、Mとさんが町をあちこち車で探して下さいましたが、雨になった日曜の夜なので店は閉まっていて、ご馳走する事は出来ず、帰宅は11時半にもなりました。

一軒のお寿司の店は営業していましたが、Mさんは「この辺りは物騒だから」と言って通り過ごしましたが、矢張り夜間など場所によっては現地の人にでも危険な処もあるのでしょう。

 次の朝Mさんは、私共がメリダに着いてから困った事があったらメリダのロータリーに連絡して下さるF夫人電話など書いて細々と心配してくださいました。

 毎日盛り沢山のスケジュールを楽しませて頂き、次の朝早く飛行機で、ユカタン半島のメリダに行く事になりました。生憎飛行機には乗れても、孫娘の席が決まらない事態になりますと、お送り下さったMさんは「飛行機が出るまでここで待っていますよ」と言われました。 

 何から何までこんなにお世話になったご親切に感謝で一杯でお別れしましたが、近い将来、彼はきっと私共の家を訪れてくださるでしょう。

孫娘と訪れたメキシコの人々(3) マヤ遺跡の中心の町”メリダ”

2009-09-22 21:38:38 | 海外旅行
        歴史的地域にある小さなホテル
   
メキシコ(3) マヤ遺跡の中心の町”メリダ”
 メキシコ市から飛行機で降りたメリダ市では、ホテルを既に予約してありました。タクシーは、空港内の窓口で行き先を言って支払うようになっていましたので、空港に降りるといつもは、タクシーの値段の交渉をしなればならないのが、ここではすんなりで有り難い事でした。このメリダで4日過ごす予定なのです。

 テキサスで泊めて頂いたお医者様のご夫妻も、メキシコではこの町だけに来られたそうで、歴史的な建造物もあり綺麗で小さいメリダは、人気の町らしいです。

 途中に野口英世の病院の前を通りました。これはMさんの叔母様がメリダのことを色々教えてくださった一つでしたので、気がついたのです。私の父も若い時アメリカで すでに有名になっておられた野口英世お会いした事がにあったそうですが野口英世はここで黄熱病の研究をされた所でした。

  瀟洒な家並みが続いて西洋のようなおしゃれな感じの町のハイヤットホテルは、ロビーも部屋も広々して気持ちが良いところでした。2日予約してあったので、今日はのんびりするつもり。でもホテル内の旅行案内会社に行って、明日からの予定を立てました。

 毎日何もしないで・・とは出来ず、早々に下記のバスツアーを選びました。
(1)”チェチェン・イツアー”・・・マヤを代表する遺跡
(2)”ウシュマル”・・・同じくマヤを代表する遺跡で夜の光のショウも
(3)”セレストン自然公園でフラミンゴ等を見たり、海で泳ぐ”・・孫娘の提案

 旅行案内会社の女性は美味しいレストランや、町の真ん中の公園のようなスクエアに面した、小さいホテルも紹介して下さったので、家好きな私共は早速見に行き色々な部屋を見せていただきました。

 写真のような小さなホテルは、横には歴史的な教会があったり場所も良くて、すぐ気に入り残りの2日をこのホテルに予約しました。、ハイヤットのような大きなホテルも良いのですが、ここでは何処の国の何処の町にいるか分かりませんものね。

 外に出ると(メキシコ市は標高2000mもあって寒いくらいでしたが)ここは、リゾートのカンクンなどの近くで、町は蒸し風呂に入っているような暑さです。 予約したホテル界隈には歴史的建物が沢山あり、そばの州庁舎には豪華な装飾とマヤの歴史を語る大きな絵画が並び、ATMでお金を引き出した銀行も1549年建造のユカタンの征服者の有名な家だったりするので、あちこちに入ったり出たりして面白い。

 丁度9月16日はスペインからの独立記念日です。町の真ん中に居ますので、目の前で鼓笛隊等を先頭にして止めども無く行列が続きました。というのは、学校は勿論、お医者様でも、消防でも、自動車クラブでも、救急車でも、ありとあらゆるグループが賑やかに行進するのです。

 町並みにはカラフルな工芸品、織物、革製品、銀細工、などなどのお店が続き、素敵なパナマ帽子が手頃な価格であり、孫娘は早速オレンジのリボンのを買い、気に入って旅行中ずっとかぶっていました。
 手刺繍のドレスなども様々なデザインがあり、こんな手が掛かっていてお安いので私も普段用のと、豪華な刺繍の上等なのと2枚も買いました。

 ユカタン半島あたりに住んでいるマヤ人は小柄で色も浅黒い人たちで親しみやすい感じでした。猛暑の中ながら孫娘と二人で、のんびりお店や珍しい建物などを、ぶらぶらと見て楽しみました。

 こんなお店の1つに私は サングラスを置き忘れ、5~6軒の店を尋ねましたが1軒だけは、「メガネですか」と探す様子をしましたが・・女の人は迷惑そうに「ありませんよ」と言い、男性は「又明日来て見て下さい」と言うのです。

 ホテルのすぐ近くでしたので3回同じ店に行って探してもらいました。と言うのは気に入って求めたサングラスで、私には珍しくお高い物だったからです。
 男性のマヤ人が徹底的に探して、別のドアを開けた所の棚の奥に、とうとう見つけました。こんなに一生懸命に探して下さり、感激しました。

孫娘と訪れたメキシコの人々(4・最終) 現地からのバスツアー

2009-09-18 11:22:19 | 海外旅行
            マヤ遺跡 ウシュマル

メキシコ(4) 現地からの「バスツアー」
 このユカタン半島あたりはBC1,000年頃からのマヤ文明の中心で、文字を持ち最も天文学に通じていた文明と言われます。世界遺産の「チィエチィエイン・イツアー」と「ウシュマル」の遺跡にメリダの町からのバスツアーで行きました。 バスに10人位の観光客を乗せて、ガイドがスペイン語と英語で説明します。3日間
(3回)参加しました。
 毎日晴天で(暑い!)空が蒼く雲が白く、遺跡をバックに美しい空を度々見上げました。

 「チィエチィエイン・イツアー」
 ここは6世紀から10世紀頃の遺跡で、24m高さのピラミッド前では、生ける太陽神であった王は広場を埋め尽くした群集の前でピラミッドを上り下りして権威を誇示したと言われます。
 王は貴族らと共に様々な国家儀式を行い ピラミッドには春分や秋分には羽のある蛇が34mの体を現す影が出現する様に創られていて、それを見に世界中から観光客が集まるそうです。
   
 マヤ遺跡では、球戯場では勝ったチームのキャップテンが神えの生け贄になる等と、ガイドが生け贄の話し盛んにしていました。
 所が専門家の本ではそれは全く間違いで、“負けたチームのキャップテンや捕虜が人身御供になる事も稀にはあっただけ”と書いていましたが、どくろの彫刻で埋め尽くされた台座や、武人が斬首されるリリーフなどがあり(これらの武人は素敵なアクセサリーや服装をしている)・・、矢張り、生け贄は相当行われていたように思わました。
 
 遺跡には私共には珍しい”イグアナ”が沢山居て、これはレモンスープの実になって入っているそうです。このスープは美味しいのですが、普通レストランでは鶏肉入りと書いてあるのですが・・・

「聖なる泉セノテ」
 ユカタン半島には川は何処にも見当たらないといいます。
地下の水の溜まっている所の上の土が陥没した所を“セノテ”と言って、上から覗くと大きな井戸状の10m~20m下に青く澄んだ美しい池が出来ていてびっくりさせられます。 
 川の無いところで、この水源はどんな大切な所だったでしょう。これは観光ポスターにもなっていますがどうしても、見た人でなければその美しさ、不思議さは分からないところです。
 この泉でも 日照り続きの時には若い女性の人身御供が有った事が調査されています。池は直径20m位あるのか、“ここで泳げたことは誇りです!“と話す女性も居て私共も水着を持って行かず残念でした。

「ウシュマル」
 午後1時から、遺跡での夜のライトアップもあり10時までのツアーでした。
バスの中のメンバーは、メキシコ男性と結婚したフランス女性、その両親、私と孫娘の日本人、アルゼンチンからの若い男性、メキシコ市からの女子学生、スイス女性 計9人でした。
 メキシコ人は背が高く笑顔が素敵な男性でしたが、丸い目やあごが大きい処が古代の石造の面影に似ていました。スイス女性は普通な人なのですが(研究者ではない)水道も電気もない部落の人達と、半年とか過ごして来れた言いいます。こんな西洋人には敵わないと思いますが、今では日本女性も居るのかも知れません。

 ウシュマルは鬱蒼とした森に中に8~11世紀に造られた遺跡です。複雑な彫刻が壁面一面に装飾されている沢山の建物があります。これらに光を当て古代からの物語を語るのが夜間のショウでした。
 私共は英語のイヤホーンを借りましたが、スペイン語での語りが大音響なので、英語を聞いている人は誰も全然聴こえなかったと言うばかりです。マヤでは文字があったので沢山の物語が伝えられているようです。

 3回目は、フラミンゴやペリカンなどが沢山居る所を見て、バスツアーの人達と皆でメキシコ湾で泳いだりしました。

 帰路はメリダ~ヒューストン~成田 で帰国しました。

黒海のんびり2週間クルーズ(4) 現地ツアーの様子

2008-10-15 00:00:00 | 海外旅行
      私の黒海クルーズ2週間
           ソチ~セバストポリ~コンスタンタ~ヴァルナ
  
ソチ〔ロシア〕〔5日目〕。   
ロシアの保養地ソチに着く。ソチでのいろいろなメニューが、オプションである。
海岸や、スターリンの別荘、お茶を極める等々のバスツアーよりも、自分で自由にソチを歩く方が良いと思って、「ソチ探索する29弗」と言うのを選んだら、バスから町の賑やかな商店街で下ろされて、ビザが無いので、その辺を見るだけとのこと、がっかり。それならビザを取って来たのに。自分で申し込むだけなので、こんな情報に通じていない。

 それでも妹と私共夫婦であちこち行ったが、ホテルのお手洗いを使おうと思っても鍵が掛かっていて、カソリックの教会の外側にあった汚いお手洗いを使う。
ロシアの小都市だが、服装も町の商品もギリシャやトルコの町と変わらない。

 船に帰って夕食。食卓を囲んだのは、トロントからの弁護士夫妻と私共3人のみ。夫人は明るいスポーツウーマン。ご主人は温厚そうな人で、妹に「先生ですか?」と尋ねる。妹は先生ではないが、亡夫は大学教授だったと言う。義弟は優秀な学者でスタンホード大学にも学んだ等と話すのを、好意的に聞かれる。感じの良いご夫妻だった。

 セバストポリ〔ウクライナ〕〔6日目〕
 次の日はセバストボリ。午前中に上陸して港から上って行くと公園のような街が広がる。第2次大戦の戦死者の大きな碑に沢山の花が捧げられている。公園にはべコニヤ等の花壇が広がる、清潔で気持ちの良い街で皆満足、1kほど歩いてきらびやかなギリシャ正教の教会から戻る。
 
 レストランではルーブル以外は使えず(勿論カードも)結局やっと、10ドルで3人分のサンドイッチとジュースのボックスを買い、急いでバスツアーに乗る。

 午後1;30時からの「クリミアのカーンの宮廷と洞窟の僧院4,5時間69弗」のバスツアー。ツアーは16世紀のカーンの宮廷や、山の上の洞窟教会を見る。ガイドは青いアイシャドウと金歯の女性で、「ソビエト時代は投獄される、殺される事が日常的に行われたが、今は自由になった。しかし国会、首相、政府それそれ喧嘩しあってどれも信用できない・・」等と言われたのが印象的だった。

 夫の誕生日!
夕食は夫の誕生日を祝って頂く。夫も背広を着用,私も詩仙堂のベージュと黒のクラシックな上着(?)を着る。隣は英国人〔ニュージーランドに移住している〕のお医者様夫妻。夫人は飾り気の無い良さそうな方で小説を3冊自費出版されたとのこと,私と妹も母の本を自費出版し、日本経済新聞の自費出版の欄で取上げられて、思いがけず沢山の反響があったなど、昔の話をする。

 今日のバスでの金歯の英語ガイドが語った事を云うと、矢張り金歯が珍しいらしく、ご主人も「金歯のガイドを見ました、見ました」と皆で笑う。
 夫の隣はバンクーバーの傘製造のメーカー夫妻。夫が自分は傘寿の誕生日で、傘の形を書いて、漢字で「八十」と示すと、珍しいせいか、感に耐えない顔をして、「貴方は先生になったら良い」という素朴なカナダ人のご夫妻だった。

食後ケーキを持ったウエイター達が集まって「ハッピーバースデイ」を歌い、食卓を囲む全員で賑やかに何度も誕生祝いを歌う。夫も嬉しそうに皆様に感謝!

 食後ギター、ピアノ、コントラバスの演奏をしている所では、前に夕食で一緒だったコロラドのご夫妻や、エレベータの所では昨日の弁護士夫妻からも、何度も「Happy birthday」と祝われる。

コンスタンツア〔ブルガリア〕7日目
 「ローマン遺跡のエクスカーション、4時間87弗」を選ぶ。市内の民族博物館では見事な刺繍の服など見る。ローマン遺跡での説明で、アンホーラ(底が尖った形の壷)は幾つも重ねて運ぶためと言うが、そんな事をしたら土器の壷が壊れないかしら・・・
遺跡は極く貧弱。

 バスを降りて、街の両替所で10ユーロを現地通貨に変え、日本と同じようなファーストフードで大きなピザ1枚、サンドイッチ一塊、コーヒー3杯と残りの小銭で水1本を買う。これで1400円(10ユーロ)今は円が弱いのでブルガリアに来ても此の位の価値しかない。
 
 この町の大きな立派なストリートには素敵なお店が並んでいるのだが、丁度欲しい物は何も無くて残念ながら買い物を楽しめない。シャトルバスで船に帰る。

 船での夕食のテーブルにはトロントからの医者の夫妻。同じくカナダのウニペックからの女医さんとその友人2人。この3人は始めて同席した黒人だった。女医さんは日本にも何度か学会で来られたと話す朗らかな人だったが、他の2人は聞かれた事に返事をするのみだった。 船では、黒人男性と白人夫人を2組くらい見かけた。

ヴェルナ(ブルガリア)8日目
早く起きてブッフエで食事をして8時過ぎから「ブルガリアの食べ物とワインの試飲 8時間115弗」のバスツアーに乗る。民族博物館は土台は石で上部が木造の旧家を使っている。昔のお金持ちの家だが、細部に彫刻が施されたり洋風民芸館と言う感じ。
40k離れた所に世界遺産の巨岩に騎馬に乗った騎士のリリーフを見る。大したことが無くて、自然に出来た形かと思ったほどだ。
イランにある「シャープル2世の墓の上部の岩に彫られた巨大なリリーフ」など、1000倍素晴らしいし、シャープル2世の騎馬像は、正倉院の錦にも描かれているほど古代世界で有名な事実だったよう。
 でも少し雨も降って寒かったが、途中をずっと歩いた林間の道ではもう紅葉が美しかった。
 
夕食は毎日食堂だったので、ブッフェでエスニック(中華など)と日本の巻き寿司なども食べる。それがひどいお寿司で食べる度に憤慨。ケーキやマンゴーなども幾つも食べてしまう。

食後はあちこち3人で音楽や、ショウや映画などの所を廻って、いつものギター、コントラバス、ピアノの3重奏に行く。こんなところでは、東南アジアでは日本人と見るとすぐ「すばる」「上を向いて歩こう」「さくらさくら」など演奏するが、ここでは日本の曲を知らないが、新婚の頃いつも聞いていた「アイネクライネ」など軽い曲を頼む。

食事と大きなデザートを頂いたばかりなのに、此処にあるチョコレートやパッブエなど、又沢山食べる西洋人に驚く。日本人の何倍も大きい西洋人が多いはずだ。
 30人ほどの日本人ツアーの人達は何処に居られるのか、広い船のせいか全然見かけない。
 船は黒海内を一廻りしたので、これからボスホラス海峡を通ってエーゲ海にでる。