89歳の日々

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黒海のんびり2週間クルーズ(3) 船中の様子

2008-10-10 00:00:00 | 海外旅行
 4日目、船はイスタンブール~黒海を縦断してロシアのソチまで終日航海。大きな船なので殆ど揺れはなく、海上を走っているのを忘れる。

 ギリシャからマルマラ海~ボスフォラス海峡を通って黒海に出る時などは、私も
船の最上の舳先で沢山のモスクが見えるイスタンブールの町や両岸を眺めました。

 船には普通の応接室のような所や、図書室、トランプなどのゲーム室、ストレッチやヨガの場所、運動のジムで汗を流す、プールで泳ぐなど色々出来る。明るい紺青の海を見ながらデッキで本を読んでいる人や、ウォーキングをしている人も居る。

 食事は、正式に食堂で摂る他に、終日ブッフエ(バイキング)があって、其処には沢山のサラダ、各種のお肉や魚料理、スープ、様々なケーキ、アイスクリーム、など1通りの洋風料理がある。
 その他、エイシアン、エスニックと言う所には、お寿司(まずい)、カレー、フライドライスやヌードルのような中華風なもの等、沢山の種類があって、お寿司好きな私は度々選んではまずいとあきれる。大概昼食や、急いで下船する時などはこのブッフェで並んでいるお料理を選んだ。

 下船の前に「船長に書く手紙」には、余りまずいお寿司なので”Sushi is terrible"(寿司はひどい)と書き、妹はシェフに日本人と中国人を雇うべきと主張した。まことに食べ物の恨みは恐ろしいことですね。


 日本人のご夫婦がソファーに静かに座っておられるので、ご一緒にお話する。ご主人は会社の元役員だった方で、日本からの30人程のツアーの一員で、日本人ばかりの旅行は面白くないので、アテネでのオプションにも参加しなかったが、この船では殆どが外国人なので外国旅行の雰囲気を若い奥様と楽しんでおられると言われる。私共は明日のソチでは、自由行動する積りだと言うと、ビザがないと自由には出来ないと教えられる。

 インターネットの部屋で、1時間50$(¥5,000)ほどで ネットを借りる(高ーい)。妹は帰りの航空券のことで航空会社勤務の息子にmailで問い合わせる。会社にはケータイのmailで(話はしないで)連絡し合っているが船のmailも知らせる。1通に付き3$程払うので、妹と一緒に何人かの友人たちにクルージングの様子を一斉mailした。

 実はこの日始めてゆっくりしたので、旅行のメモなどを纏めて書く。

 夕食のダイニングでは、前も一緒だったカナダの看護婦さん、コロラドからのご夫婦。車椅子に乗ったイスラエル生まれの77歳の成功している彫刻家と端正な顔立ちのやさしい夫人。彼女は美しい人で如何にもセレブという感じだった。彫刻の話や何かで皆々和気藹々。車椅子のご夫婦はい今までに350日もクルージングしたとのこと。さぞ、ヴェランダの着いた豪華な船室の住人と思われる。この船が気に入っているリピーター達が多いようだ。

 (後で分かったことだが、船中で3日に限り様々なクルージングの大幅バーゲンがあった。これで予約すると非常に安いクルージングを楽しむ事が出来る)

 終日船中の日なので、夜はブロードウエイからのショウをみる。小劇場では毎日何かにとショウをしており、音楽も3種類ほど各部屋で様々な演奏があり、映画の好きな人は映画を見、ギャンブル好きはカジノで賭けているようだ
 船の生活はこんな様に過ごした。




黒海のんびり2週間クルーズ(2) イスタンブール

2008-10-05 00:00:00 | 海外旅行
           2日目・イスタンブール・ブルーモスク

 「テンダーって何?」では下りられない!
 2日目に夕方、船はイスタンブールに着岸する。テンダー(はしけの船)に乗る順番の札を貰うように船内放送があったのが、聞き取れない。第一にテンダーの単語を知らないのでは、どうしょうもないですね。

 早く下りる積りが遅くなる。1000人位の人が150人乗りの船に乗り換えて上陸するので時間がかかる訳だ。タクシーは10∈位で旧市街まで行くとのことで、何とか交渉成立して行く。一々面倒な事です。

 感激の旧市街のモスク
 丁度満月の夜で、夕暮れの空はフエルトのような柔らかい紺青で、巨大な白いモスクがそびえている。白亜のモスクの金色の飾りが、濃紺の空に輝いている。吸い込まれるようにブルーモスクを見上げた。

 隣のアヤソフィアは6世紀の素晴らしい建築で、献堂式の日「ソロモンよ、我は汝に勝てり」とユスチニアヌス1世は叫んだと言われる。見事なモザイク画が その後、次々と絵描かれたのを以前見た事が思い出された。
 妹は地下宮殿を見に行ってこれにも感激している。

(16年年前にトルコを夫婦で訪れた時は、1泊目はペラパレスホテルを予約し、そこで集会するロータリアンにfaxで「案内していただけないか」と連絡しておいた。ここは19世紀に作られたホテルで、ベッドなども映画に出てくるような金属の飾りの付いたクラシック形で、豪華なブッフェの朝食には様々なトルコ料理が並んだ。
 アガサ・クリステイが失踪して発見されたホテルでもあり、彼女の部屋や、ケマル・パシャのデラックスな部屋も見せて貰った。

 私共を待っていて下さったロータリアンの素敵な男性は、まず夕暮れのガラタタワーに案内して下さった。ベリーダンスなどしている場所通り過ぎて、ジェノバ人が14世紀に作ったこの塔の上からの眺めは,川霧の中に、ミナレットに飾られた沢山のモスクがライトアップされ、幻想の世界のようだった。

 次に彼は、水中に大理石の大きなメズサの頭部がある地下宮殿に案内して下さり、トルコ男性のセンスの良さに感心したものだった。有能なビジネスマンで日本の会社の事などにも精通していられた)

 今回は船から下りて、小さいモスクや旧市街をあちこち歩いて、又タクシーと散々交渉して、10∈で船に帰る、夫は面倒くさがって「高くてもたいした事がないよ」と言うが妹と私は執念深くかけあう。それでも外人価格と思うから。(実際、次の日は5∈でOKと言われた)

今日は、朝食も夕食も、ドイツ人たちと同席した。
朝は銀行勤めの背の高い男性と同僚の夫妻。奥さんは日本語を習った人で、少し話す。
背の高い男性はイスタンブールも電車などで回ると言っていた。この船は食事もサービスも良いので何度も乗っているそう。夫妻は妹と同じくイスタンブールも初めてなのでツアーで回るとの事。

夕食は違うドイツ人男性と幼友達のチリの男性。男性2人は女性2人より珍しい感じ。髪のきれいな米国夫人と彼女の3度目の夫は若いインテリアデザイナー。


       クルージング(3日目)終日イスタンブール

 乗船3日目妹は、早朝からオプションの「イスタンブール終日ツアー」に出かける.その後私共は、銀行で日本円からユーロに変えようするが、ドルとユーロしか扱わない。ATCでユーロを下ろす。

 旧市街をあちこちぶらぶらする。16年前に泊まったホテル・イエシルイブ(緑に館)が懐かしくて行ってみると、相変わらず結構流行っていて、小さな中庭でチョコレートを飲む。それほど特別な宿でもないのだが、昔の家を作り変え、骨董など使っているのを宣伝しているのが成功している。

 庭では白いテーブルクロスをかけ、団体の昼食の用意をしていたが、後で聞いたら私共の船からのツアーは此処で昼食を取ったとの事。妹たちのコースはイスラムのシラガンパレス・ホテルでデラックスな昼食を取るようだ。

(そのシラガンパレス・ホテルにも以前来た時に泊まった。ボスホラスに面したお庭の沢山のろうそくに照らされたブッフエスタイルの夜食をトルコのロータリアンをお礼に招いた。
建築やインテリアが好きなのでイスタンブールの素敵なホテルは思い出に残っている。)
 
 グランバザールや絨毯屋をのぞいたりしながら着いたスルタンベヤズイット・ジャーミーでは、1列に並んだ蛇口から信者は顔から手などをきれいに洗っている。その前のレストランでケバブに松の実のいためご飯、ライスプデイングなど、此処は本当に美味しいかった。
 
 近くのイスタンブール大学を通ったら、授業が始まるまで教室に入れないそうで(?)生徒が教室の前に群がっていた。可愛い女子生徒に道を聞くと、親切にずっと案内して下さった。1年生で英語が中々大変そうで、何しろ専攻を聞いても英語で言えず、こちらあれこれが言うと「あ!それそれ」。彼女の言うそれは政治学でした。

 (前回は訪れたトプカピ宮殿には、元から明代にかけての最も美しい染付の大皿などの世界で最大のコレクションがある。中庭にある考古学博物館には、BC350年代に作られた大理石の大きな石棺はその彫刻にアレキサンダーの若々しい乗馬姿が描かれ彼の石棺と言われる?。

 そのほか、1453年にメフメット2世が艦隊を陸揚げしてこの町を陥落させた坂道を探したり、その時使った太い鎖を軍事博物館で見付けたりした。其処ではドラマ「阿修羅のごとく」でのトルコの軍隊の曲が演奏されていた事を思い出す。)

  ドルマバッチエ宮殿を回って、船に帰る。

黒海のんびり2週間クルーズ(1) (スリに掏られる)

2008-10-01 00:00:00 | 海外旅行
     船室を3人で使うので 狭いがリーズナブル。

(アテネ~イスタンブール・・・アレキサンドリア・・・エルサレム)

1日目 アテネのピレウス港に集まる

 私共夫婦と私の妹の3人は黒海クルージングを 海外の船を個人で申し込み、まずアテネ郊外の指定の港に向かったが第一日目の顛末はかくの如し・・・、

先ず、スリに掏られる
 アテネで地下鉄でピレウス港行きの切符を妹が私共夫婦と3人分を買い、エスカレーターに乗ると、夫の後に大きな中年男性が入り私の後に又人が2ほど入り、振り向いたら妹はその後に少し離れていた。
 そのとき、何と前に居る男の手が私のバックの方に伸びてくるではないか! Danger! なんて叫ぶとぶすりと刺される気がして、とっさに何か日本語で大声言ったら彼らはさっと離れて行った。

 その後ピレウスで食事をして、妹がお財布を出そうとすると、え!ないはずがないのに・・と探してもない。多分、私のバッグに手を伸ばした3人組に掏られた、とやっと気が付く。

 用心深い妹は蓋の有るカバンのファスナーの付いたポケットに、小銭要れ〔私からの指輪も入っていた〕と探鳥家の妹の必携品ツアイスの双眼鏡・・これらを切符を買うときに盗られたらしい。〔後でアテネに帰ってから警察に報告に行った〕
(これは何十回も海外旅行をしている私共に始めての経験でした)

悪辣タクシー運転手 
 ピレウスのレストランからすぐ傍の港までタクシーで3∈と聞いて、運転手に掛け合うと「とんでもない10∈」という。違うタクシーに云うと「行くよ3∈で」とのことで乗る。
さて、動いてから「1人3∈だから3人で9∈」とのたまう。我々は声を大きくしてそんな事はない、こんな近いのに呆れる・・等等口々に云うので、運転手のアンちゃんも仕方がなしに3∈でOKする。
 全く何というギリシャ人達だろう。少しは過去の栄光を汚すなよ!!!

老いたる避難民?
 港には大きな美しい船が何艘も接岸していて,流石世界の観光地と感心する。
さて、集まる場所は大きなテントの中で 沢山の人が椅子に腰掛けて船に誘導されるのを待つているが・・・いずれも(私共と同じように)汚いスニーカーとジーパン姿の哀れな年配者で、一緒に2週間も過ごすのかといささか失望させられる・・・星の多い豪華な船というのに〔1280人定員  トン〕

沈没した時の為に
 船室に入ると、アナウンスが響いてまず室内にある救命胴衣を着けて各班の
甲板に並ぶように云われる。皆々赤い救命胴衣をつけて兵隊さんのように整列する。緊急の時には如何するとかいろいろ云っていると思うが 私の語学力ではペラペラ言うのは聞き取れない。まあ良いや、どうせめったに沈没しないだろうし・・・。

船室はかくの如し
 私共の部屋は、3つのベッドを入れた8疊程の狭い部屋で、120cx120cほどの窓から海がみえる。バスルームが割合ゆったりしていて、着替えなども出来、お風呂も大きいのは良かった。棚や物入れが沢山あって、着類も簡単に片付けられるようになっている。
 この部屋は殆ど寝る時だけなので、狭くても安いほうがまあ良いかと思う。

ダイニングでの夕食
 正式の食堂では、毎日同じ人達と同席するのと、毎日違う人と同席するのに別れ、私共は10ヶ月も前に頼んだのに同じ人との固定席は取れなかった。
残念がって行って見ると、ツアーの人達は先ず固定席で毎日々グループで食事をする部屋になっていて、一般の人は自由に席を取っているようだった。

8人の大テーブル
 色々な人と同席を希望する人達が、大テーブルを囲む事になり、メニューを見ている内に次々に7人くらい揃って食事が始まる。私共が3人なので他に2組のカップルは来る事も多いが、1人が来る事もある。

 この日の同席者は、カナダからの退職者の女性2人が始めに座っていて、その後私共3人、テキサスからの実業家のような紳士と、いつも笑顔を絶やさない美しい夫人。話は何処から来たか等と始まり、その日は多分、私が九人兄妹と言ったのか、その夫人の「お母様が15人も養子を育てたので16人兄妹ですよ」とご主人が言って笑う。西洋人は皆会話を楽しむので、初めての人が集まっても話が弾む。

 お料理は4~5皿でデザートに至るまで繊細に美味しく皆、食事に先ず満足する・・・乗船前のテントで見た老いたる避難民達の姿は消えうせて、にこやかな素敵なシニアの集まりだった。

 ヴェトナムー姉妹ぶらぶら見聞記

2008-04-27 23:38:10 | 海外旅行
             写真は王の霊廟
     
 ヴェトナムの古都フエ〔世界遺産〕
ヴェトナムには、親戚の若い女性が夫の転勤でフエに住んでいる。空港に迎えに来て下さった彼女は、「ルックスも素敵で日本の誇りとね」妹と自賛。そして彼女の内容も素晴らしいのです。

 ここで先ず驚いたのは通貨の額。タクシーに一寸乗って10万ドン・・・これでは計算が大変ですね。早速モダンな古民家のようなレストランでご夫妻に美味しい夕食をご馳走になる。

 

“学校に行けない子に勉強を教える“
 次の日 彼女が、ボランテイアとして学校に行けない子供たちにフエの大学生たちと補修授業を行っている処へ行ってみる、20人くらいの子供が畑の中の一部屋に集まっていて、私共が写真を撮ろうとすると、ホート、ホート(photo)自分だけ撮って欲しいと言う、随分元気でしかも自己主張が強くて驚く。英語も少し教えているそうで、何度も”please take photo”と言わせる。これらの国では英語などが少し出来ると、生きて行く術になるので英語も教えている。

 「オレンジ・エージェント(枯葉剤)」の映画を見る
 彼女の家で、夕方のパーテイ料理を若い人が作っている間に「オレンジ・エージェント(枯葉剤)」坂口雅子監督をみる。岩波映画で試写会が行われたと言うので、これから日本でも見られると思うが、京大卒の坂口雅子の初監督映画。

 夫のアメリカ人カメラマンがヴェトナム戦争取材で枯葉剤も浴び,それが原因かで亡くなったのではないかと彼女は、夫の意思を継ぎ“オレンジ・エージェント・枯葉剤”を浴びた村を取材する。

 奇形に生まれたおびただしい数の村人たち。歩く事も出来ずにただ動き回る子供。大人になっても老いた母に抱かれてスプンで食べさせてもらう姿・・悲惨さは直視できない。

 これらをアメリカの人たちに是非見てもらいたい。現在でもこれに劣らない地雷、スッキャター爆弾を作っている国々の人々に見せたい!そして第2次世界大戦で大変な被害を与えた日本人にも。衝撃的な、ドキュメンタリー映画でした。

  “多国籍パーテイ“
 夜はボランテイアの学生たちが色々お料理を手伝って下さり(東南アジアの若い人たちはお料理作りが身に付いていて、本当に上手なのです。日本の若い人達も外国で日本のお料理をこんな風に作れます様に!)

 新戚の彼女の家でパーテイが始まり夫婦の友人達が次々集まる。いずれもNGO、国連などに属しているヴェトナム人、オランダ人、イタリア人のカップルなど、若くて愉快で無敵な面々。話が弾んで夜も更ける。

  「世界遺産の古都フエ」
 静かな落ち着いた町で、静かな王宮跡やカラフルな陶片で飾った霊廟などとても興味深かった。

 3泊した「ピルグリム」と言う宿〔1室15,000円〕は 緑の庭園の中に作ったような、バリ島のアマンダリ風な・・・ ローカルカラーを活かした宿で100室くらいが西洋人ばかりで満室のようだった。広い前庭をオリエンタルな設えにしたエステの建物も素敵で、妹は初体験でトライした〔3000円〕が、私は好まないので遠慮する。レストランの雰囲気もよくヴェトナム料理は美味しい。
 
 ハノイへ飛ぶ。
フエで予約してもらったハノイの宿は、1部屋2500円とかでしたが、ごたごたした町にありどんな所か心配したが、中は清潔で広くお風呂にお湯もたっぷり出で安心。泊まっているのは西洋人が殆どだった。西洋人は安い穴場もよく知っていますね。

 ハノイの町はオートバイが道いっぱいに並んで爆音を立てて走っている、活気のある町でした。
 ここでは私共としては、珍しく、買い物を楽しむ。先ず麻の大きな枕かヴぁーに手刺繍が付いているのを2枚で500円程・・・これでは誰でも買い物をしょうと思うでしょう・・・

 モダンなデザインのアクセサリー、絹のテーブル・センター、スカーフなども素敵で、しかも物が良い。私共の九谷焼きのショウルーム用に、それらを纏めて仕入れることにしたが、一寸した小さい店で買っても、彼らが英語を〔アルバイトに雇われた英文科の大学生でも〕話すので、ビジネスが成り立つ訳で、日本とは違うと感心する。

  レストラン
 夜は3日とも最も素敵なレストランに行く。「オリエンタル」なども銀座の高級レストランのような感じ〔実際はそんな所を知らないのですが〕、私共のような高齢の女性2人は珍しいのが、素敵な支配人がコックさんに“人参でパゴタ”を彫って作らせたり、とても良くサーヴィスして下さる。

 「お隣はイタリア大使館の人達です」とか、だれだれとか名指しで、各国の首相などは必ず来るようだった。「音楽を聴かれませんか」と言われて行くと、まず私共に「すばる」を若い女の人達が演奏した。「星はすばる」と清少納も言っていませんか?〔笑い〕この「すばる」の歌詞も良いですね!世界の人々も好きなのが嬉しい。

 ヴェトナム料理は美味しいし、何と言ってもお安いので、毎回満足した。
これらのレストランでは、勿論お料理も洗礼され、インテリアも素晴らしかったが、人の親切が一番の思い出になった。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/98/07fc8d27938486c50ae6d8b0c1319343.jpg

   陶器の町バッチャン
 12世紀に栄えた「安南焼き」の産地として歴史的にも有名な「バッチャン」はハノイの近くにある。ハロン湾〔ハノイ~170キロ〕の途中なので、タクシーと通訳(英語)つきで1人100ドル程で両方行った。

 「バッチャン」は過去の遺産で細々稼業しているのかと思っていたら、沢山の陶器の店がずらりと並んでいて驚く。所謂昔の染付が流れるような安南手というのは作らず、普通の陶器にはっきりした絵でトンボの絵が描かれている。

 工場の人に、詳しい事を聞いていたら、もう少し先の町で焼いていると言われた。行った所では9基〔キルン〕の登り窯で月に2度づつ焼くそうで,1回に1万個づつ作っているという。

 日本の瀬戸のように、マスプロで沢山作って、大方はプリントの物だが、デザインも種類も多く、ヴェトナムの人は創意工夫の才能があると思った。極安く出来るので、世界中の量販店などに輸出しているのでしょう。エネルギーがあって努力している人達だ。碁の好きな兄に 囲碁をしている中国人の陶人形のみ買う。

   ハロン湾〔世界遺産〕
 大きな船に乗ったお客は私共2人だけで、他はスタッフや売り子など5人くらい乗る。天気も良くて中国の桂林のように、岩があちこちに海から突き出ていて、広い洞窟にも案内される。湖のように静かで景色が良い。食事は沢山出たが余り食べなかった。

 売り子は絵葉書から真珠の首飾りまで、盛んに薦め、最後にあきらめる。このコースにはガイド付きなので、私共は何でも色々聞いた・・オートバイは人口の半分以上の台数があるとか・・・余り聞いて大部分忘れました。でも何か楽しくて、美味しくて「又行きたいわね」と妹と言っています。



海外旅行ー江戸時代にアンコール遺跡を訪れた武士

2008-04-22 22:16:23 | 海外旅行
 
 3月にカンボジャのアンコール遺跡とヴェトナムに9日間ほど妹と行ってきた。
アンコール遺跡には、日本人武士の堂々たる(?)墨書の落書きが残されている。

ところが、私共は気侭なガイド無しの旅行なので、折角見ようと思っていた彼の墨書をつい見落としてしまった。おりしも気温は34度cで、もう一度探しに行く気は喪失してしまったのだが、この武士の話を少し書きたい。

 1632年(寛永9年)に、如何にして森本右近太夫一房がはるばるカンボジャまで行き、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」と書いて来られたのか不思議だった。

 答えは案外簡単。
 彼は肥前の松浦氏に仕えたが、松浦氏は領内に国際的な貿易港の「平戸」を持ち、右近太夫は「ご朱印船」に乗る機会があったのであろう。彼は無事日本へ帰国するが、1636年には鎖国令も出ているので、その後の消息は不明という。

 アンコール遺跡は12世紀から作られ,1431年には放棄されたが、1550年前後には又再建が続けられているので,1586年に訪れたポルトガル人は、素晴らしいと賛辞を残しているという。

 その約50年後に象に乗ってやって来た右近太夫はここが祇園精舎と思い、父母の菩提を弔うために来たというので、彼は現在のような遺跡ではなく、金色に輝く(?)壮麗な寺院郡を見たのだろう。

 其の後のことは、これから、文字の国の中国人、同じヒンズー教のインド人、地元の僧達達の文書が発見されると何時まで栄えていたか解明されるでしょう。
 遂に1860年フランス人によってこの遺跡が大々的に知らされたのです。


 私共の旅行は、成田~シュリムアップ(カンボジャの空港)に着き、タクシー5ドルで予約してあった「Boreiホテル」に入りました。

 内装に上質の木材を勿体無いほど沢山使って居る素敵なホテルで、2人1室8000円。食事は〔殆どのホテルで各種料理のヴァイキング)・・・中華風と洋風の混じったようなお料理が多い。このレストランは綺麗で美味しく、朝夕は涼しいのでプールに面したお庭で食事をする。2000円ほど?

 次の日のアンコール遺跡めぐりは流石に 34cほどで暑い。
タクシーでホテルから遺跡まで3キロ。この日と次の日半日観光して空港に送るまでを30ドル〔3000円)で予約する。
 ここは、アジアで最も素晴らしい世界遺産だけのことはある。規模が大きく寺院建築の造形と共に、壁画も見事。
 私共は最も整った「アンコールワット」。巨大な人面で出来ている「アンコールトム」。植物が寺院を飲み込んだような「タ・ブローム」等見る。

 木陰で一休みしていると、私の「九谷焼のペンダントが素敵だ」と外国人に言われる。イスラエルから来た人たちで、野鳥の会に勤めて妹が知っているイスラエルの著名な学者が彼らと共通の知人であったことが分かり、「世界はせまいわね!」と笑う。 
 
 夜は自転車の様な「トクトク」に乗って〔4時間2ドル)ソヒテルホテルで相変わらずの「ラーマヤーナ」のショウと食事〔私共のホテルの方食事が良かった)をお庭で頂く。約2700円?
 トクトクに乗って、帰りに大きな観光用のショップで絹のショールなどの買い物をする。運転手は面白い人で、ホテルの傍の道端で店を開いている、新婚の奥さんを紹介してくれる。

 飛行機で隣席だった韓国人ガイドのお勧めで、次の日は「トンレサップ湖」に例のタクシーで行く。 どうしてこんな所に皆来るのか分からない。多分、社会見学になるのでしょう。

 何処までも泥水の巨大な湖。なまず位しか住まない様だ。
傍には無数のバラックが建てられ、不潔な環境で4~5万人が暮らしていて、湖に協会や学校が漂っている。私共2人だけで操縦士がモーターで操る船に乗る、何しろこれらの国では、外国人への仕事は格段に値段が違うようで、この船長?さんも学校に行って英語を習っているという。若く見える人だが子供も居るとの事。
 その後、飛行場までいつものタクシー〔運転手の彼の月給は100ドル!。ここでは一級のエンジニアなのでしょう)に送ってもらいヴェトナムに飛んだ。

 

これがモロッコ(5) マラケシュ

2007-03-04 13:57:36 | 海外旅行
海外旅行 モロッコ 
              旧市街の「ガリア・ホテル」中庭
 フェズからカサブランカ経由でマラケッシュ飛ぶ。ここは11世紀頃、初めてベルベル自身でイスラム国家を作った都(世界遺産)で、北アフリカ最大の商都との事。

 私共の宿は旧市街の「ガリア・ホテル2星」。何処に行くにも浮浪者のような人でごった返す「フナ広場」を通り抜けると、さてどんな怪しげな宿に着くかと心配したが、ガイドブックで「モロッコ情緒にあふれ、清潔、冷暖房付き・・」は嘘ではなく古い建物を改造した、小さなホテルで、ヨーロッパのジャーナリストや、口うるさい夫から逃避中のフランス夫人などと、植物の茂る中庭で食事を共にしたりする。1部屋6500円

 旧市街の中心の「クーとピアの塔」を通って賑やかな「工芸館」など見る。昼食に建築好きな私共は、モロッコで最も歴史のある素晴らしい「マムーミアホテル」を目指すが、いくら歩いても着かない。1時間も歩いて、この素晴らしいモロッコスタイルの5星ホテルは、工事中で休業中だったことが分かる。
 
 探し疲れて、近くのヨーロッパ風のホテルで昼食、お客は総てフランス人。庭に面したレストランで生野菜のサラダなど安心してパクつく。お肉やデザート、2人で4,500円ほど。

 私共は、屋台とか、不潔な感じの店は、どうも好きではないので、その地方の趣を生かしたホテルやレストランを選んで食事をするが・・でもいつも上手く選べるとは限らないのです。

  2階建ての観光バスに乗り、新市街を回る。驚くほど整然とした近代都市。清潔でバラの花など植えている。私共の宿のある世界遺産の旧市街は、紙くずやゴミが散らかり、相変わらず沢山の生気の無い男性たちがぶらぶら立ち並んでいる。世界の観光客はこの旧市街を見に来るのに、新市街ばかりが綺麗になっている。

 モロッコに来て以来、町を歩いていると1日に何度も、若い男性が「私は学生です。英語の勉強のため、あなたを案内したい」というが、ここではお腹の出た 中年の男性までが「私は学生です・・・」と同じせりふを言うのには笑ってしまった。なにか中年向きの違うセリフが無いのでしょうか?

 立派な紳士が親切に案内して下さることもあるのですが、殆どは、ほんの5m先のモスクを尋ねても、附いて来て案内料と言ってすぐ手を出してお金を要求する。きちんとした人でもそういう風習らしいので、あきれて物も言えず、首を振る。これがモロッコらしいのです! 

 翌日は中庭での朝食。スロベニアからの夫妻と話す、私共姉妹とも、スロベニアに行った事があって話がはずむ。昨日は休みだった新市街の本屋で、「モロッコの旧市街の建物」の美しい本を買う.7500円。何よりの良い買い物になった。

 アマングループのホテル「アマンジェーナ」にタクシーで行って昼食。ここは1室15万~25万円という すごいホテルだが、お庭でランチのみは私共にも可。リッチなサラダ、ラザーニア、シャブリ、デザート、コーヒー。2人で12000円。
 中央に池を配した、イスラム風な別天地のホテルのお部屋や、大きなショップなど飽きずに回ってみる。

 タクシーを待っている間に、ホテルのマネージャーと色々話をする。9.11以来アメリカ人は、イスラムの国には来にくくなっているのでしょうと言う。イラクの話になって、私共も大いにモスレム側に同情する。タクシーが余り遅いので、運転手のケータイに掛けてもらうと、何とタクシーはパンクして来られないとの事、これは全くモロッコでした。

 広大な「バイヤ宮殿」など旧市街を回る。アクセサリー店で、一人旅の日本人の若い女性に珍しく会う。お店の人に「ネックレスなど半額なら買う」と言うと、その女性は驚いていたが、ここでは1/10から、掛け合った方が良いと言われている。言い値の半額ななら喜んで売る。

 ここの巨大な市場は、ほとんど日用品を売っているので私共観光客には買うものが余り無い。絨毯商人に付いて、スークの迷路をあちこちくぐり抜けて、絨毯の倉庫のような所にも行って沢山見たが、品質の良い物は無かった。

 翌日又、雑踏のフナ広場を越えて、ベン・ユーセフ・メドレッサ(神学校)をみる。16世紀から20世紀まで遣われた神学校。モロッコの建物はアトラスからの良質な木材に恵まれてい、木部に繊細な彫刻が施されて、タイル細工と複雑な美しさを醸している。130人の生徒の個室がタイルの中庭を囲んでいる。美しい「アグノウ門」「エル・バデイの廃墟」など回る。
 
 モロッコの建築の素晴らしさは、1492年にスペイン全土がキリスト教国になり、多くのイスラムの人たちが追い出されたことにより、アルハンブラ等を作ったイスラムの人が海峡を越えてモロッコに来て、その豪華絢爛の建築技術をを伝えたと考えられる。

 翌日、9日間のモロッコ旅行を終え、カサブランカ経由でドバイに向かった。



これがモロッコ(4) 世界遺産の メクネス

2007-02-20 22:54:22 | 海外旅行
             モロッコのオードブル

フェズから1時間くらい汽車に乗って世界遺産の町「メクネス」に行く。
10世紀頃、メクネッサ族が作ったこの町は、イスラムにも拘らず、葡萄酒の産地でもある。しかし普通のレストランでは葡萄酒は出ない。
豪華なマンスール門に面して大きな広場があり、蛇使いとか、曲芸とかに相変わらず沢山の人だかりだ。

 トランザトランチックホテルに帰って夕食。眺望の良い高台にあって広い庭もあり、この町では最も星の多いホテルだが、閑散としてレストランも簡単な物しか出来ない。

次の日は、北アフリカで最も豪華と言われるマンスール門までタクシーで行く。この近くにには、キリスト教徒の地下牢がある。入場券を買うと、褐色の細長い顔の年寄りの男が案内すると言う。気持ちが悪いが地下牢は真っ暗で、運動場くらいの広さなので、私共では行けないので仕方が無くついて行く。

 17世紀ころには、ルイ14世に張り合って豪華な建物を造ろうとする王に、イタリアの大使は砂糖のお返しとして、すかさず何万人もの奴隷を労働者として贈ったという。ここは彼らの寝た地下牢であった。王は建設を急ぐ余り、ここから11k程離れている、ローマ時代の「ヴォルビリス遺跡」の石材を地下道を作って運んできたと、ガイドは言う(本当でしょうか)・・・この建築好きな王の眠る
ムーレイ・イスマイル廟などみる。

 昼食はまた、アラビアンナイト風なレストラン。写真のようなオードブルにタジンという肉と野菜の蒸し煮が一般的。
 ここは新築なので、建物は少し軽い感じ。2人で、2400円、いつも多すぎるので2人で1人分とる。

世界遺産「ヴォルビリスの遺跡」
 メクネスからタクシーで「ローマの遺跡ヴォルビリス」行く。ここも世界遺産との事。ポンペイの様なローマの遺跡の町で、カラカラ帝の凱旋門やモザイクの床のある邸宅・・・ローマ帝国はアフリカの砂漠までローマに居るのと同じ生活が出来る都市を作り上げたのでしょう。様々なローマがここによみがえっている。

「ムーレイ・イドリス」の白い街
 「モロッコで何処が良いですか」と現地の人に聞くと聞くと「イドリス」と言う人がいたが、この小さくてきれいな町にも寄る。相変わらずぶらぶらしている若者が黙っていても、自然にガイドして小さな町の迷路を歩いて一番高いところにから白い家並みに映える、緑のイドリス廟を見せてくれる。勿論チップを上げました。

 夕方、メクネスにタクシーで帰って、レストランを探して町を歩き、毎日タジンなどのモロッコ料理だったので結局ピッザを選ぶ。なるべく素敵な清潔な店と思うが余り良い所がなかった。ここでもワインは無い。

 なんと翌日は雪が舞っている様子は、テレビのニュースに出たそうだ。車で美術館に。何処も寒い。汽車の時間まで目の前の銀行で待たせてもらう。若いが落ち着いた感じの素敵な支店長さんと話す。弟さんは福岡の大学で情報工学を学んでいると言う。

 フエズに向かう汽車はコンパートメントで、前席にはモスクに務める中年のR・Ciefさんで、彼のわずかな英語での会話で、彼のお父様の家は17世紀の立派な家という。公認のガイドをしていると言う、横の席の若い男性も、「素晴らしい家なので是非行って見たら良いでしょう」と言い、英語の上手な彼は、私共をホテルまで迎えに来てくれる事になった。ガイドの彼はお土産に色々買い物をしませんかと言うので私共は、「ほとんど買いませんのよ」など話した。

 フエズのホテルに帰ってから、またまた飽きもせずに、旧市街の迷路を通って豪華なアラビアンナイト風なレストラン、「ダル・サーラ」5400円 で昼食をし満足する。この建物は素晴らしく横にモザイクタイルの中庭も付いている。

 R・Ciefさんへのお土産用のお菓子を買って、ホテルで待っても迎えが来ず、外は霙で寒かったので私共姉妹は、ベッドでうとうとしてしまったが、夕方ホテルの人から、R・Ciefさん電話をしてもらい、「明日は出発しいますが、せめて買ったあるお菓子をもらって欲しい」と伝えてもらうと、彼は「若い男性の“公認ガイド”と言うのは嘘で、結局彼は私共を迎えに来ず、夕方になってしまい、申し訳無いと言い、私共からのお菓子も頂けない」と言う。自称ガイド氏は、私共がお土産を買わないと言うので、迎えに来る気を失ったのかも知れない。 これもモロッコでしょう!

 


これがモロッコ(3) 迷宮都市フェズ

2007-02-14 21:04:06 | 海外旅行
 
            フエズの旧市街の肉屋

 迷路のような、くねくねと続く細い小路を、荷物を積んだロバとすれ違いながら歩くと、写真のようなロバの頭(らくだの頭と書いたつもりでしたが、ロバと書いていました)を吊っている肉屋なども有る。木彫りに鋲を打ったドアを作っている作業場、絹糸を撚っている家、モスク、羊の皮を剥いで100枚も重ねて居る臭―い場所、神学校なども所々にある。大部分は2階建くらいの住宅が道の高い壁になっている。ここは車など金輪際入らない、ロバと人が歩くだけの迷宮都市なのです。

 その道路の壁にあるドアを開けて裁判官の広い邸宅を、ガイドのアリさんが見せてくださる。四角い中庭があり、その4方のドアには4人の奥さんの部屋だったそうです。裁判をする広い部屋や庭も部屋も廊下も総て様々な色のモザイクタイルで出来ています。「この家は日本円で300万円!です」・・でも修理費が何千万円にもなるそうで他の外国人も中々買わないようです。

 沢山のスパイスを売っている店もあり、おみやげにせめて、サフランでも買おうとする。瓶に入って5gが1,500円。ガイドブックにも、モロッコの商人は強気だと書かれていたが、日本人と見て安くしない。若い英語の出来る店員と話していると、ガイドのアリさんが、6つ買って2つおまけしてもらえば・・と言い。それで決めたが1g=210円になった。(でも、マラケッシュでは 1g=75円で買う)

 このスパイス屋の店員は、フェズの大学の英文科を出たそうだか、この迷路の中の小さいお店位しか働くところが無いらしい。
 (たまたま次の日、モスクなどを見に来た私共は、このおどろおどろしい迷路で、モロッコで唯一知っている彼と又会い、「あまー過ぎるチャイ」を頂きながら話したが、ガイドになるのも、賄賂が要るそうで彼は「それがモロッコです!」と言う。) 

 ガイドのアリさんに昼食を“素敵で,美味しい所”を頼むと,自信有り気に「良い所あります」と案内してもらう。レストラン「Typiquement marocain」 もこの迷路のドアを開けると、まさにオープン・セサミ!何と50坪位の広い部屋の総てがモザイクタイルで飾られている。オードブル6種類(煮たもの)、ワイン、クスクスとお肉のタジン(土鍋で煮る代表料理)、デザート。コーヒー。それぞれに本当に美味しい。2人で5,000円ほど。

 これらの信じられない美しい邸宅は大概、17世紀の家という。植民地になる以前のモロッコが如何に富んでいたかが分かる。イスラムの国々ではモスクやマドラッセ(神学校)などが立派だが、此処では邸宅が素晴らしい。多分モロッコはヨーロッパへの輸出の窓口として、商人たちが大変栄えたのではないでしょうか? モロッコ料理は、香辛料が多くないのに、町に香辛料屋が多いのもその伝統ではないかと思った。

 絨毯の共同組合もユネスコの援助でこのような素晴らしい邸宅を改装して使っている。絨毯が安くて良かったら欲しいと思い,随分見たがデザインは良いのだが、品質は中級品を作っている。

 次の昼食も豪華な邸宅のレストランの「ダル・サーダ」に行く。此処もモザイク・タイルと全面に彫刻の漆喰で飾られた、50坪位の部屋の3方に凹み(アルコーブ?)が付いていて、私共と地元の立派なご家族の2組がこの1段高くなった7畳位の凹みにあるテーブルで頂いた。この部屋の横には同じくモザイクタイルで飾られた中庭もある。食事は昨日ほどの美味しさではなかったが、建物は此処も素晴らしい。

これがモロッコ(2) フェズに着く

2007-02-08 23:39:53 | 海外旅行
 
        バトバ・ホテル(1部屋¥6000)の中庭、

 真夜中にカサブランカを発ち1時間ほどで古都、フェズに着く。真夜中の空港で、タクシーが奪い合い・・・
全く酷いのは、一度乗った人を下ろして高値を払う客に変えるタクシーもある。

 私共は、高く言うのをノー、ノーと言って居たので、我ながらどうなる事かと思ったが、結局ガイドブックに書いてある120DH(1700円程)でOKして乗った。これは2倍の価格だったが・・・
「これがモロッコです」と地元の人が言う。

 3星のホテル・バトハは、以前イギリス領事館だったそうで、写真のようなモザイクタイル張りの広い中庭を囲む素敵なたたずまい。バスタブも広くシャワーも良いが、欲を言えばタオルやシーツが洗ってはあるが、灰色・・・2日目には馴れましたが・・・

 一寝して、食堂でコンチネンタルの朝食。中年の日本人男性に会う。「安宿が寒くて風邪を引き、温まりにこのホテルで泊まっている」という。実際モロッコの1月は寒くて、東京の冬と同じくらいの気温。この頃が一番良いかと思って来たのですが寒い。

 着いた時,フロントで「ガイドを頼みませんか?」と言われ、頼んであったので10時にアリさんが来る。日本人のガイドが沢山居るそうだが、予約済みらしくアリさんは英語。3時間120DH(1700円)。この1回のみガイドして貰う。

 彼は、黒いジュラバを着ている。これは三角の帽子のついた長い上着で、形は同じでも彼のように上等の真黒のウールで出来た物も、派手な赤や縞柄など色々で、男女を問わず様々なこの長着を着ている。

 寒いのでの黒い長着に黒い三角のフードをかぶり黒い顔の男性が沢山居ると恐ろしい感じもする。何しろ沢山の黒っぽい服装の男性達がうろうろと、道端に立っている国だ。茶店にも、終日男性達が黒い塊となってたむろしている。

 そんな人をかき分け、かき分け姉妹2人で毎日1万歩余りモロッコを歩いたのです。今、ネットで”モロッコ 失業率”と調べると、12%位と出ましたが、私共が訪ねた町では、50%にも感じました。

 さて、ガイドのアリさんとすぐそばのアーチ型の門を入ると、モハメッドの子孫によって9世紀に作られた世界遺産の町に入りました。

 其処には、13世紀に再び栄えた中世の町が現れます。中世の道幅ですから2mから狭い所は50センチ程です。人とロバしか通れません。狭い道の両側に3m~5m以上もある高い土壁がそそり立っています。それが昔からの住宅なのです。
つづく・・・
 

これがモロッコ(1) 先ずカサブランカ

2007-02-05 23:07:19 | 海外旅行
 
         モロッコ(メクネスの町)の広場での曲芸

 1月下旬に12日ほど、ドバイ経由で妹とモロッコに行きました。このエミレーツ航空が一番安くて6万5千円ほどなのですが、航空保険料、油燃料、入国税、出国税、その他で計11万円位でした。

 妹とは32年前始めての外国旅行に行って以来の2人旅です。姉妹なので食べ物も趣味も似ているので大体は以心伝心で行けました。

 「どうしてモロッコ?」「アフリカはエジプトだけだったので、古い町のあるモロッコが良いかと思って・・・」2人とも、別に深い意味は無いのですが。
その道中を書きます。

 粘るが勝ちのモロッコ!
 お昼にカサブランカに着いて、フエズという、ここでは最も有名な世界遺産の町に行くのに、飛行機は12時間後の真夜中しかない!

 半日カサブランカでぶらぶらする予定だが、空港では何処でも「荷物は預かれない」と言う。「これを持ってカサブランカめぐりではないでしょう?」あっちえ行って頼み、こっちえ行って聞き、1時間くらい空港の中をゴロゴロとスーツケースを引っ張って回る。
 
 何処で頼んでも駄目そうかと思ったが、やさしい人もいるもので、フエズ行きの荷物に10時間も早く特別に積み込むようにして下さった。大感謝。粘るが勝ちのモロッコです!

 カサブランカと聞けば、バーグマンのロマンチックな映画を思い出しますが、まず町に入るまでは家畜小屋と同じようなスラムがずっと続いて見えました。

 電車で町中に着くと、本に出ていた「ル・ドフアン」という海鮮料理屋にタクシーで行き、大きな蟹を見て、グラタンにしてもらう。このチーズと沢山の蟹の身だけのグラタンだけでも大満足。モロッコワイン、海鮮スープとサフランライスなどの夕食(2人で¥4,500)

 こう簡単に言いますが、先ず彼らは総てフランス語なので、我々としては、ここまで通じるのも中々大変だったのですよ! 
(空港では英語で何とかなりましたね)

 ぶらぶらとビルが並ぶ、国連広場を歩くが、紙くずなど落ちていて映画と違って、一寸汚い感じ。
 ハイヤットホテルで一休み。ここは内装をえんじ色のマホガ二(?)と黒の漆のような仕上がで纏め、珍しくセンスの良いロビー。建築好きの我々には、シャンデリアなど無くてゆったりと落ち着いた感じの良いホテルだった。

 食事のすぐ後なので果物の盛り合わせを取ったが、数種の果物を10センチ位の舟形に切って、彩り良く大皿に盛っているのも素敵で、今度自宅で真似をしょうと思う(¥840)
 その後又、空港に向かったが、これがモロッコの第一印象のです。