89歳の日々

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孫娘と訪れたメキシコの人々(2) 世界遺産 ”銀の町タスコ” ”遺跡テオティワカン”

2009-09-27 16:24:21 | 海外旅行
        最大の遺跡「テオティワカン」

  メキシコ(2)   世界遺産めぐり“タスコ”、“テオティワカン”         
 3日目メキシコ市から170kほどの所に、18世紀には莫大な銀を産出した世界遺産の町「タスコ」にお連れ頂きました。     Mさんが運転を頼んだロータリーの友人の他に、孫娘が大人ばかりの中に居るのを可愛そうに思われて、男子大学生も誘い孫娘も賑やかな1日を過ごしました。

 山間の町を白い家が埋め尽くし、金で飾られた教会が町の中心に聳えています。町中が銀製品を売っていて其処で、私が3年ほど前から探していた銀の首飾り(九谷焼のペンダントを下げるための物)が有るのを知り、土曜日しか開かないマーケットにお連れ頂きました。折から大雨が降り出して、仮設のマーケットの足元は川のように雨水が流れる中をMさんは100軒ほどの小店の中から、私が探している物を1000種類もある銀のくびかざりから見つけて下さいました。これは前にイタリアでも散々探した物で、ここでメーカーからお安く求められ、本当に感謝感激でした。

 夕方メキシコ市に戻り、日本人会館でお会いしたS様が、お誘い下さったお宅に1時間ほどお邪魔しました。ご主人が日本人学校や、会館の建設に力を尽くした方で、旭日賞の額が掛けられてありました。入るとすぐ広い居間・・などが続きお広い綺麗なお家ですご夫妻に、親戚に伺ったような暖かいおもてなしを頂きました。

 メキシコは今、雨季なのですが、スコールがサッと来るだけで日本の様な長雨ではないと旅行案内に書いてありましたが、実際は着いた日から、半日は雨で寒く、凄い雷と風で大木が倒れたりする異常な日も有りました。

 最大の遺跡「テオティワカン」行きでは、いつもの6人乗りの車にもう一人の体格の立派な高校生が来ると、T氏は助手席を彼に譲り、車の3列目(自宅の車では囚人席といっている所に入り)大賑やかは遺跡めぐりです。その高校生も恐縮する事も無く皆々良く話しよく笑います。この遺跡はメキシコ市から50k位の所ですが、メキシコ市が東京のように広いので若い彼らを迎えに行くのも1時間も掛かります。

 メキシコ最大の都市遺跡「テオティワカン」には沢山の遺跡が広大な場所を占めています。BC350年~AD650年の間の繁栄の時には20万人の人口があったと言われます。当時ローマ以外 人口が2万以上の都市は無かったそうです。神制政治のために巨大なピラミッドが築かれた文明のようです。
 こんな壮大な都市を建てたメキシコの原住民は、何処に行ってしまったのか不思議に思います。
                                      先ず、「太陽のピラミッド(65m)」に私以外は皆登りました。朝から暑い日になり、孫娘には結構大変だった登りは、みな平気なようでした。

次の「月のピラミッド(46m)では大きな宗教行事はここで行われ、最も眺めが良いといわれます。1段の高さも高くて、とても私には登れないと思っていましたが、Mさんが「登りませんか」と何回か言って下さるので、高校生に手を引っ張って貰い登る事にしました。
 思ったより割合簡単に登りましたら上では皆が拍手で迎えて下さいました。見下ろすと中央の死者の道の両側に基壇が続く壮大な眺めで、これを眺められたのもMさんのおかげでした。このページの写真も「月のピラミッド」の上からのものです。

 遺跡への途中の車の中で、50mか100m程の山が紙くずの様な物で覆われているのに気が付き、何かと目を凝らすと一面の小屋か何かで出来ていて、巨大なスラムでした。 Mさmさんも「水はどうするのかな?」と言われましたが水道のあるような所ではありません。道路の傍には小さい工場のようなのも見えました。

 遺跡を見て帰路には、ホテルでブッフェで昼食となりました。美味しくて若者や皆が山ように大量に頂きました。私がうっかりしている内にMさんが支払って下さりすっかりご馳走になりました。(昨日の銀の町では、私が「何でも沢山召上って下さい」と何度言っても、皆はほんの少ししか注文しなかったのでその遠慮深いのに今更ながら驚きました)

 若者たちを送って、Tさんのお母様に家に行き、お母様の妹さんとバレーにお誘い頂きました。スペイン系の踊り子たちは顔立ちもはっきりして、海外公演にも招かれる「メキシコバレー」で、カラフルで美しい宝塚の様な舞台を楽しみました。
みな様たちをお寿司でもご馳走したいと申しますと、Mとさんが町をあちこち車で探して下さいましたが、雨になった日曜の夜なので店は閉まっていて、ご馳走する事は出来ず、帰宅は11時半にもなりました。

一軒のお寿司の店は営業していましたが、Mさんは「この辺りは物騒だから」と言って通り過ごしましたが、矢張り夜間など場所によっては現地の人にでも危険な処もあるのでしょう。

 次の朝Mさんは、私共がメリダに着いてから困った事があったらメリダのロータリーに連絡して下さるF夫人電話など書いて細々と心配してくださいました。

 毎日盛り沢山のスケジュールを楽しませて頂き、次の朝早く飛行機で、ユカタン半島のメリダに行く事になりました。生憎飛行機には乗れても、孫娘の席が決まらない事態になりますと、お送り下さったMさんは「飛行機が出るまでここで待っていますよ」と言われました。 

 何から何までこんなにお世話になったご親切に感謝で一杯でお別れしましたが、近い将来、彼はきっと私共の家を訪れてくださるでしょう。

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