魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【安倍晋三の出自を暴く~記事逐次追加版】第十二談(岸信介と新浪剛史の謎)

2015-09-25 14:03:28 | 安倍晋三の出自を暴く
 長州家臣団には佐藤、岸、安倍の姓は無い。幕末の志士の中にも其等の名は無い。此奴等は余程世渡りが上手かったのだろう。然し、世渡りだけでは並み居る幕末に勇名を馳せた志士達を押し退けて山口が輩出した総理大臣の八人のうち岸、安倍と二代に亘って二人の総理大臣を出せる訳が無い。
 
「60年の日米新安保条約締結時、岸信介総理は声なき声が私を後押しすると述べましたが、東大法学部で岸氏と首席を争った民法学者のダットサンの著者我妻栄氏は朝日新聞への寄稿で『今日君に残された道は唯一つ。それは直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです。それによって国民の反対運動は恐らく、民主主義のレールをはずさずに済むことでしょう」とのべ、声ある声を尊重してこそ民主主義の理念にかなうものだ』と批判した。」と言う程の秀才だった信介は、「東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。その後、日本の商工省に復帰し、次官就任。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。

 戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された。」とトントン拍子に上り詰めた。然し、再度言うが、個人の努力や能力だけでは位人臣を極めることや、況してや日本の権力者の頂点に立つこと等平時に出来る訳が無い。現在でも政界と財界とでは網の目の様に系図が繋がり、日本の最上階層が維持されている。

 我が大嫌いな奴に新浪剛史という小僧が居る。

 新浪剛史の新浪家は吉良上野介の領地だったことでも有名な西尾市吉良町に住んでいた.祖父の舛太郎は江戸時代から続く漁師の生まれで貧しい少年時代で進学したかったができなかった。舛太郎は、漁師を辞めて海運業を起こしたが当然読み書きもできなかった舛太郎は失敗して神奈川に移り住み艀(水上生活者)として貧しい生活を抜け出すため必死に働いた。



 太平洋戦争中新浪剛史の父・勇治は家族生活の厳しいために、海軍航空隊に志願した。入隊すると上官にしごかれながら友人を作るなどしていた。戦後の勇治は、横浜に戻るとアメリカ軍の軍人たちで溢れていために、英語の勉強を行い英語力を身につけたという。この英語力を生かしてアメリカ軍に物資を運ぶ会社に就職すると、将来の奥さんに出会ったという。新浪剛史の母恵美子は賀茂郡松崎町の宮大工の家に生まれた。生まれたあと、種子としてよその家で預けられた。その後、両親が離婚したために種子の家で成長していくことなり、実両親を春青?は恨んでいたという。

 我が春青?と?マークを付けたことには、勿論訳がある。実は、「此の『春青』が剛史の母種子の幼さを思わず書いたものではなかったか?」と我は推測したのだ。とすれば、種子は中国系である。中国では春青は新を意味する。更に、賀茂郡松崎町は曰く付きの地である。

 剛史自身は経歴を見ると超優秀である。財界の大企業で其也の実績も積んでいる。然し、その優秀や能力だけで財界の大企業のトップを渡り歩ける網の眼の様に繋がった財界閥の仲間入りは出来無いのだ。

 岸家は明治維新で活躍した獅子達にも名が挙がって居無い。長州家臣団にも名が無い。矢張り、南朝明治天皇しか岸家が跳躍出来た理由は見当たら無い。

続く。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿