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天道の真髄は如何に?

【安倍晋三の出自を暴く~記事逐次追加版】第十三談(橋本卯太郎と長州閥)

2015-09-26 16:16:31 | 安倍晋三の出自を暴く
 明治2年(1869年)3月岡山県吉備郡秦村 生まれとされる橋本卯太郎の恩人馬越恭平は、1844年11月21日(天保15年10月12日)備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)の生まれであり、両人の郷里は近接している。恭平は大阪で丁稚奉公するなど紆余曲折を経て1873年(明治6年)に上京して長州藩士明治維新の立役者の一角を成した井上薫の先収会社に入社した。井上薫は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏とある。

 元老・井上馨とは義理の親子の関係にある、長州藩士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将、第11・13・15代の三期も内閣総理大臣も努めた桂太郎は、「梟雄山縣が、明治天皇の崩御により急遽海外視察から帰国した桂に『新帝輔翼の重要性を説き、内大臣兼侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図ったが、二個師団増設問題を桂は巧みに利用し第二次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。」とWikiには書かれているが、当時の侍従長は余程信任された者でなければ成れるものでは無い。「桂太郎の。叔父の中谷正亮は松下村塾のスポンサーだった。桂は入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死したとき、数え年で13歳だったからである。しかし、中谷の甥であったことによって、桂がどれほど恵まれたかは計り知れないものがある。」

 橋本卯太郎の恩人馬越恭平は、長州藩士井上馨との出会いであれ程の事業を成し得たのであり、其の馬越恭平に見込まれた橋本卯太郎も幸運だったと言える。卯太郎も恭平を通して長州閥と大いに親交したと伺える。

 不思議なことに、以前ネットにあった恭平の家系図と妻の名が完全に削除されている。只、自身と妻の二つの和型五輪塔墓石が並んで在る。家族制度が崩壊しつつある戦後は兎も角、家族制度下の戦前に夫婦別々の墓とは朝鮮以外何処の慣習か?









 橋本家の菩提寺(分骨された龍太郎の墓は此処にある。)は岡山県総社市井尻野にある臨済宗宝福寺である。臨済宗は幕藩体制の中でも被差別階級の人達の信心した宗派であると言われている。

 石光真臣は、熊本県託摩郡本山村(現・熊本市)に旧熊本藩士石光真民、守家の子として生まれた。陸軍士官学校、陸軍大学校各卒、陸軍中将馬政局長官、第一師団長を経て退役後は橋本商店取締役、ハム・ソーセージ工場経営等をしていた。兄には大日本麦酒支配人石光真澄と諜報活動家石光真清がおり、妹真機は詫摩医院院長・詫摩武彦に、妹真津は大日本麦酒常務橋本卯太郎に嫁す。
久野本で馬刺しの販売で有名なハムソーセージオランダインターナショナル  金賞3品目、銀賞1品目、銅賞1品目を取った「肉の橋本」という店があるが、此れは「橋本商会」の続いているものか?

 精肉業には「橋本」が付く業者が全国的に多い。

 続く。

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