昔「アットーテキ」なる雑誌がありましてね(挨拶)。
とある神が
「狂人は自分が狂人だと思ってないから健常者のふりしてやってくるので、最初はただのちょっと風変わりな言説っぽいが、反論されると擬態がボロボロはがれて狂人丸出しになっていく、という過程が克明に記録されてる貴重な資料だと思う>町山氏vsキチガイ
町山さんが気の毒だ。噛みついてるこいつ、くるっとる。 狂ってるだけじゃなく、人間性も最低の部類だ。 」
とか書いてたから何事があったかとちょっと見たら(「お気に入り..町山さんとサウジと〇〇」),知り合いの発言も纏められている件(深夜の挨拶)。
個人的には,町村氏は町村氏でオバマ氏を過大評価してる気がしたり,或いはオバマ以前の米国の行動をひとまとめに「アメリカ」の名詞いっこで済ませているあたり緩いかなーという気がしたり,サウジの人権弾圧を「徹底的」と非常に重い言葉を使っているあたりとか,まあ多少気になる点はないでもないが,相手がひどすぎる。とりあえず,「最低の部類だ」という言葉を引用しても問題ないだろうと思える程度には。
さておき。
―「徹底的」にある程度ひっかかりを覚えるのは仕方ないと思う。そこまでの強烈な表現をサウジに使われたら,表現のしようのないところはどうするのかと。
だってねえ。サウジで,強姦されてエイズうつされた(西欧国籍の)少年は,同性愛者として処罰されそうになったわけだが,まだしも事実確認等々ふくめ,裁判制度とかええ,まだしもまあなんだ,機能してるわけだし。
うん,そういう意味で,システマチックな感じに「徹底的」だというのなら理解。
でもねえ,一応,仮にも,ちょっとずつでも,試みはしないでもないわけで:「女性の自動車運転はイスラム法に反しない:サウジ聖職者の発言」。システマチックに人権抑圧を試みるサウジアラビアは,女性の行動の自由を拡大するためのアドバルーンをシステマチックに上げて見てたりもするわけで,うんまあなにもかも人民を代表しない体制がやってる限りのものだから評価しないという見解もまたあるかもしれないわけではあるけどええ,まあ。
或いはまた:「サウジの集団強姦被害女性の件:司法側の言い分」。運用のところでいろいろ考えてはいるらしいことも,一応,認めてあげるべきなんじゃないかなーと思う。
だってさ。そりゃイランだって人権抑圧国家だよ。私もそう信じるよ。でも,『流石に公開石打処刑とか,まずくね?』とか,中の人は思ったりするわけだ(「イランの石打ち処刑の話 他」)。あるいは,彼らとしても,恐らく民主主義的制度の価値は認めるところだろう,だから政治集会に男女を動員してみたりするのだろう(いや動員する,と書く辺りに,私の偏見が出てるという感もあるが)。しかしでかい講堂の真ん中にカーテン下ろして,男女別にしたからって「男女不平等だからイランは非民主的! 従って自由の敵! 悪の枢軸!」って叫ぶよーな自由民主原理主義みたいな態度とるの,ちょっと可哀相じゃない?
…まあそれ,典型的な「アメリカ」の対応なわけでしょうが。
私としては,自由民主主義者としては,そうした自由と民主の友と手を取り合い,相互に励まし合ってより開かれた世界へ向かうべきなんではないかなと思うのだが。
なんか町村氏のサウジを見る視点には,「典型的アメリカ」風の論理が通っている感があるなあと。つまりサウジのなかの人の様々な努力を度外視して,「サウジアラビア」の名前でひとくくりにするような。少なくとも,「アメリカ」から「オバマ」を析出したように,「サウジアラビア」からもそのようなことをするような,そんなことはしてはもらえないものだろうか。
―いやまあ,政治的価値の点で「オバマ」相当の人はでてこないでしょうけど。
ともあれ,町村氏はジャーナリズムの方向の人の様子です。ですので,言葉が派手になるのは仕方ないことでしょう。ただまあ,サウジで「徹底的」なら,ソマリアのアルシャバブ政権あたりはどう表現されるんだろうなあ。
LRAとかな。…そこまで行くと,「それ以前」みたいな気がするから,やっぱり上の「徹底的」は,法治国家の体裁はそれなりに整っている限りにおいて,ということなんだろうかな。
しかし,それもまた程度問題なわけで。一人の人間に出す死刑判決のための審理が四分間みたいなのも法治国家と言えるのか,的な。
深夜なのでだらだら思いついたことを書き連ねるだけ。とても知的な文章とは思えない(他人の言葉づかいに文句をつけるよーなことを書いてる割には! …苦笑)。
とある神が
「狂人は自分が狂人だと思ってないから健常者のふりしてやってくるので、最初はただのちょっと風変わりな言説っぽいが、反論されると擬態がボロボロはがれて狂人丸出しになっていく、という過程が克明に記録されてる貴重な資料だと思う>町山氏vsキチガイ
町山さんが気の毒だ。噛みついてるこいつ、くるっとる。 狂ってるだけじゃなく、人間性も最低の部類だ。 」
とか書いてたから何事があったかとちょっと見たら(「お気に入り..町山さんとサウジと〇〇」),知り合いの発言も纏められている件(深夜の挨拶)。
個人的には,町村氏は町村氏でオバマ氏を過大評価してる気がしたり,或いはオバマ以前の米国の行動をひとまとめに「アメリカ」の名詞いっこで済ませているあたり緩いかなーという気がしたり,サウジの人権弾圧を「徹底的」と非常に重い言葉を使っているあたりとか,まあ多少気になる点はないでもないが,相手がひどすぎる。とりあえず,「最低の部類だ」という言葉を引用しても問題ないだろうと思える程度には。
さておき。
―「徹底的」にある程度ひっかかりを覚えるのは仕方ないと思う。そこまでの強烈な表現をサウジに使われたら,表現のしようのないところはどうするのかと。
だってねえ。サウジで,強姦されてエイズうつされた(西欧国籍の)少年は,同性愛者として処罰されそうになったわけだが,まだしも事実確認等々ふくめ,裁判制度とかええ,まだしもまあなんだ,機能してるわけだし。
うん,そういう意味で,システマチックな感じに「徹底的」だというのなら理解。
でもねえ,一応,仮にも,ちょっとずつでも,試みはしないでもないわけで:「女性の自動車運転はイスラム法に反しない:サウジ聖職者の発言」。システマチックに人権抑圧を試みるサウジアラビアは,女性の行動の自由を拡大するためのアドバルーンをシステマチックに上げて見てたりもするわけで,うんまあなにもかも人民を代表しない体制がやってる限りのものだから評価しないという見解もまたあるかもしれないわけではあるけどええ,まあ。
或いはまた:「サウジの集団強姦被害女性の件:司法側の言い分」。運用のところでいろいろ考えてはいるらしいことも,一応,認めてあげるべきなんじゃないかなーと思う。
だってさ。そりゃイランだって人権抑圧国家だよ。私もそう信じるよ。でも,『流石に公開石打処刑とか,まずくね?』とか,中の人は思ったりするわけだ(「イランの石打ち処刑の話 他」)。あるいは,彼らとしても,恐らく民主主義的制度の価値は認めるところだろう,だから政治集会に男女を動員してみたりするのだろう(いや動員する,と書く辺りに,私の偏見が出てるという感もあるが)。しかしでかい講堂の真ん中にカーテン下ろして,男女別にしたからって「男女不平等だからイランは非民主的! 従って自由の敵! 悪の枢軸!」って叫ぶよーな自由民主原理主義みたいな態度とるの,ちょっと可哀相じゃない?
…まあそれ,典型的な「アメリカ」の対応なわけでしょうが。
私としては,自由民主主義者としては,そうした自由と民主の友と手を取り合い,相互に励まし合ってより開かれた世界へ向かうべきなんではないかなと思うのだが。
なんか町村氏のサウジを見る視点には,「典型的アメリカ」風の論理が通っている感があるなあと。つまりサウジのなかの人の様々な努力を度外視して,「サウジアラビア」の名前でひとくくりにするような。少なくとも,「アメリカ」から「オバマ」を析出したように,「サウジアラビア」からもそのようなことをするような,そんなことはしてはもらえないものだろうか。
―いやまあ,政治的価値の点で「オバマ」相当の人はでてこないでしょうけど。
ともあれ,町村氏はジャーナリズムの方向の人の様子です。ですので,言葉が派手になるのは仕方ないことでしょう。ただまあ,サウジで「徹底的」なら,ソマリアのアルシャバブ政権あたりはどう表現されるんだろうなあ。
LRAとかな。…そこまで行くと,「それ以前」みたいな気がするから,やっぱり上の「徹底的」は,法治国家の体裁はそれなりに整っている限りにおいて,ということなんだろうかな。
しかし,それもまた程度問題なわけで。一人の人間に出す死刑判決のための審理が四分間みたいなのも法治国家と言えるのか,的な。
深夜なのでだらだら思いついたことを書き連ねるだけ。とても知的な文章とは思えない(他人の言葉づかいに文句をつけるよーなことを書いてる割には! …苦笑)。
女性が車を運転していいかどうかで国中大騒ぎになる程度には不自由であることは確実。しかしバイクに乗った女性がいつの間にか人知れず「処刑」されるほどの恐怖状態ではないらしいことも,そうらしい。
基準をどこにおくか,とゆーことには主観的な色合いもけっこー出るかな,やっぱり。