多少考えるところがあった。
まずは「危害を加えた加害者を処罰する」に異論はない。
恐らく、「危害を加えようとした(危害のない・程度の低い)加害者を処罰する」も異論がない。既遂であればさらに異論がない。
さて、「加害の意志がなくとも危害してしまった」、過失犯も処罰の対象だが、加害の意志がないぶんだけ処罰の程度は割り引かれる。まあこれもよいだろう。
以上、非常に伝統的に、誰もが納得するレベルで普遍的な枠組みなんだろう。
さてそこで
関連:「性的指向暴露の問題への対応、一定程度の進展(2020-06-03)」
関連:「性的指向暴露の問題への対応、一定程度の進展(2)(2020-06-03)」
アウティングである。これは、おそらくはまずは揶揄したりからかったり愚弄したり―広い意味では加害を意図した、あるいは結果として危害を及ぼす者への対処というのが本来の意図なのだろう。まあ、これに異論はまずないだろう。
だが明らかに「(2)」でメモした
「例えば、「学校の先生が生徒から同性愛者であることを告白された場合」。その生徒の同意がないとカウンセラにも相談できないとなれば、さてどうか。合理的な配慮をしてくれ、というのは尤もな訴えであるが、それを現実化する際には諸種連絡・調整が必要であって、いち教師の分を超える。
具体的には、例えば更衣室の問題。肉体的には男性だが精神は女性であって、他の男子といっしょくたに教室で着替えるのは精神的に辛い―精神的拷問だと主張された場合。この先生は、この子のために特設更衣室を用意できるか? まあ無理だろう。そんな特別な「ひいき」をする理由を明かせない、上司にも報告できない、しかし人権を守るためにこの教師は『特定の学生にだけ特別扱いをして、しかもその理由を述べない。そんな自分の好き勝手をあからさまに表出する、社会人失格である』と評価され、給料の査定も落とされ―。
まあ、一部の人々にのみやたらな負担をかけるクソ運用、という評価になりますわな、こういうのは」
という懸念があるが、何にせよ、とにかく連絡調整しないと話が始まらない、ところが連絡調整すること自体に既に懸念がある―結果として自殺に至る可能性をも考えれば、過失致死にも相当するのだよ!という作文はすぐさま可能だ。最近は「魂の殺人」という用語を使うが。
一応仮にも「過失犯」のカテゴリに入るような気もするが、しかし、(私個人は好まぬにせよ、世間様の相当部分で)性的対象の論評等々はまあ、「親しい間柄での会話」のうちであって、LGについてはそれを告白 さ れ る こ と のみでされた側に相当重い義務が課せられるのは―まあ、そもそもLGとの友人付き合い自体避けたいよ、という思いを発生させてしまいかねない。とゆーか、「そーなるだろ、何考えてんだ」という旨の見解を見たりもした。
とまあ。
ここで「私が被害者だと自認したからお前は犯罪者だ」という、これはこれで新しい犯罪の形式が発見できてしまう、そんな余地が広がってしまう。
具体的には、最近、逆転有罪判決が高裁で出た
関連:「「本人の処罰感情」を重視し続けてきた弊害ともいいたい(2019-02-22)」
「本人の処罰感情を重視し続けてきた弊害ともいいたい。
主観的な判断こそ無上のもの、なんて皮膚感覚大正義的な雰囲気でやってきた弊害。
犯罪に関わる裁判で、被害者の処罰感情を延々と報じ続けてきたメディアの問題もあろう。」
客観的事実はさておいて、「私は被害感情を感じたので、すでに被害者である。ということは加害者が存在するはずです。と言うか存在するのです」と、犯罪者・加害者を選定する作業に入ることになるという。
…そういう私は主権者であって絶対なのです、という大前提に立つのだろうが、さてまあ、加害者に選定された側も主権者であってその限りは絶対なのでなあ、ということを思う昨今。それぞれの妥協点を探す試みが法律という形で固定されてきたわけだろうが、まあ、法律をハックして我が方の意志を貫徹せしめんとする運動も…まあ…。
ともあれ。
そうした個々の欲望に基づく行為が積み重なり、より広く犯罪を認定しようとしていく結果、えらいこと不便な世界が展開することであろうぞ、というのも―言及してしかるべきなのだろうな。
具体的にはこの場合、いちいち女性患者が出てきたときに男性医師が引っ込む「無駄」を省略するため(だって常にセクハラで訴追される危険があるんだから!)、医師・医療行為者は女性たること、という規範ができかねない。
差し当たり、女性の社会進出が進んで、男女平等という点では数字上はよいことになりそうだ。
だが―これが「医療業務は女がやるべし」という新たなジェンダー規範の発生でないとは、いったい誰が保証してくれるのかね?
男性医師・男性医療者が痴漢をしないように、女性看護師か女性医師かが付き添うだけで済むだろう、と? それならその人件費はどのように措置されるのか。
物的証拠のために録音・録画は必須とする? 録音・録画の実務は誰が担うのか。これも男性技師には女性技師をつけるのか。だから人件費は(ry
となると、これは、「加害の意志がなくとも危害してしまった」人に対する対処どころか、「加害の意志があるかもしれないと想定される人を予め排除する」という精神にほかならない、ことになる。
…まあ、この場合、「レズビアンはそうした職に就いていないこと」とか、「レズビアンは窃視の欲望をそもそも持っていないこと」というような前提があることになり、これはこれでレズビアンに対するある種の差別か何かになってると思われるが。
…ああ。
…まあ。
これは。数年前に私が危惧し、危惧の通りに排除を喰らったときに信じたように、世界は政治化の季節を迎えたのだ。ポリティカル・コレクトネスの概念は、慎重に、主に自制のために使うのが私の趣味だが、どうも積極的に攻撃手段として利用する人々がそこそこの数、発生してきて―。
…ああ。
ナチス支配時代に、特に戦中に、「純粋哲学に逃避」した先生たちの気持がよくわかるなあ…。
まずは「危害を加えた加害者を処罰する」に異論はない。
恐らく、「危害を加えようとした(危害のない・程度の低い)加害者を処罰する」も異論がない。既遂であればさらに異論がない。
さて、「加害の意志がなくとも危害してしまった」、過失犯も処罰の対象だが、加害の意志がないぶんだけ処罰の程度は割り引かれる。まあこれもよいだろう。
以上、非常に伝統的に、誰もが納得するレベルで普遍的な枠組みなんだろう。
さてそこで
関連:「性的指向暴露の問題への対応、一定程度の進展(2020-06-03)」
関連:「性的指向暴露の問題への対応、一定程度の進展(2)(2020-06-03)」
アウティングである。これは、おそらくはまずは揶揄したりからかったり愚弄したり―広い意味では加害を意図した、あるいは結果として危害を及ぼす者への対処というのが本来の意図なのだろう。まあ、これに異論はまずないだろう。
だが明らかに「(2)」でメモした
「例えば、「学校の先生が生徒から同性愛者であることを告白された場合」。その生徒の同意がないとカウンセラにも相談できないとなれば、さてどうか。合理的な配慮をしてくれ、というのは尤もな訴えであるが、それを現実化する際には諸種連絡・調整が必要であって、いち教師の分を超える。
具体的には、例えば更衣室の問題。肉体的には男性だが精神は女性であって、他の男子といっしょくたに教室で着替えるのは精神的に辛い―精神的拷問だと主張された場合。この先生は、この子のために特設更衣室を用意できるか? まあ無理だろう。そんな特別な「ひいき」をする理由を明かせない、上司にも報告できない、しかし人権を守るためにこの教師は『特定の学生にだけ特別扱いをして、しかもその理由を述べない。そんな自分の好き勝手をあからさまに表出する、社会人失格である』と評価され、給料の査定も落とされ―。
まあ、一部の人々にのみやたらな負担をかけるクソ運用、という評価になりますわな、こういうのは」
という懸念があるが、何にせよ、とにかく連絡調整しないと話が始まらない、ところが連絡調整すること自体に既に懸念がある―結果として自殺に至る可能性をも考えれば、過失致死にも相当するのだよ!という作文はすぐさま可能だ。最近は「魂の殺人」という用語を使うが。
一応仮にも「過失犯」のカテゴリに入るような気もするが、しかし、(私個人は好まぬにせよ、世間様の相当部分で)性的対象の論評等々はまあ、「親しい間柄での会話」のうちであって、LGについてはそれを告白 さ れ る こ と のみでされた側に相当重い義務が課せられるのは―まあ、そもそもLGとの友人付き合い自体避けたいよ、という思いを発生させてしまいかねない。とゆーか、「そーなるだろ、何考えてんだ」という旨の見解を見たりもした。
とまあ。
ここで「私が被害者だと自認したからお前は犯罪者だ」という、これはこれで新しい犯罪の形式が発見できてしまう、そんな余地が広がってしまう。
具体的には、最近、逆転有罪判決が高裁で出た
関連:「「本人の処罰感情」を重視し続けてきた弊害ともいいたい(2019-02-22)」
「本人の処罰感情を重視し続けてきた弊害ともいいたい。
主観的な判断こそ無上のもの、なんて皮膚感覚大正義的な雰囲気でやってきた弊害。
犯罪に関わる裁判で、被害者の処罰感情を延々と報じ続けてきたメディアの問題もあろう。」
客観的事実はさておいて、「私は被害感情を感じたので、すでに被害者である。ということは加害者が存在するはずです。と言うか存在するのです」と、犯罪者・加害者を選定する作業に入ることになるという。
…そういう私は主権者であって絶対なのです、という大前提に立つのだろうが、さてまあ、加害者に選定された側も主権者であってその限りは絶対なのでなあ、ということを思う昨今。それぞれの妥協点を探す試みが法律という形で固定されてきたわけだろうが、まあ、法律をハックして我が方の意志を貫徹せしめんとする運動も…まあ…。
ともあれ。
そうした個々の欲望に基づく行為が積み重なり、より広く犯罪を認定しようとしていく結果、えらいこと不便な世界が展開することであろうぞ、というのも―言及してしかるべきなのだろうな。
具体的にはこの場合、いちいち女性患者が出てきたときに男性医師が引っ込む「無駄」を省略するため(だって常にセクハラで訴追される危険があるんだから!)、医師・医療行為者は女性たること、という規範ができかねない。
差し当たり、女性の社会進出が進んで、男女平等という点では数字上はよいことになりそうだ。
だが―これが「医療業務は女がやるべし」という新たなジェンダー規範の発生でないとは、いったい誰が保証してくれるのかね?
男性医師・男性医療者が痴漢をしないように、女性看護師か女性医師かが付き添うだけで済むだろう、と? それならその人件費はどのように措置されるのか。
物的証拠のために録音・録画は必須とする? 録音・録画の実務は誰が担うのか。これも男性技師には女性技師をつけるのか。だから人件費は(ry
となると、これは、「加害の意志がなくとも危害してしまった」人に対する対処どころか、「加害の意志があるかもしれないと想定される人を予め排除する」という精神にほかならない、ことになる。
…まあ、この場合、「レズビアンはそうした職に就いていないこと」とか、「レズビアンは窃視の欲望をそもそも持っていないこと」というような前提があることになり、これはこれでレズビアンに対するある種の差別か何かになってると思われるが。
…ああ。
…まあ。
これは。数年前に私が危惧し、危惧の通りに排除を喰らったときに信じたように、世界は政治化の季節を迎えたのだ。ポリティカル・コレクトネスの概念は、慎重に、主に自制のために使うのが私の趣味だが、どうも積極的に攻撃手段として利用する人々がそこそこの数、発生してきて―。
…ああ。
ナチス支配時代に、特に戦中に、「純粋哲学に逃避」した先生たちの気持がよくわかるなあ…。
この年頃としては優秀な部類だけど、是非とも引き抜きたいほど優秀でもないかな。