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空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

どんな「研究」をどういう「公的な成果」と認めるか

2024-12-28 22:06:17 | ノート


 学生については(教育の対象としてのみ言えば)学生の深夜・休日の通学・研究は「基本的には禁止するべきなんだよな」でよい。当然、わが本務校でも基本そうで、遅くなるなら・休日にするなら責任者の許可がいる。

 ただ大学院生については教育を離れ、己の課題の追求が入ってくるので、その自由の侵害となるのでその点、難。その意味で教員についても外形的に禁じるというのは難。



 なにが「公的な成果」なのかは問われなくてはいけない。
 研究成果は論文等になって発表され、世界の共通の資源になるので、これが公的な成果で我々にはある。これが認めてはならないというのは、それはかなりおかしい。

 ここでいう「公的な成果」とはなにか?



 とうことで、「出世の焦り」などとあり、また「管理者が責任をとる」との言葉もあり、どうもここでいう「公的な成果」とは社内・学内での出世競争や昇給の可否とか、そういうことを(主に)指しているのではないかと思われる。

 そういう、業務としての研究ということなら、それは業務管理の対象であり、管理・監督されねばならないという筋は大いにある。ただそれ、研究業界の一部に過ぎないだろう。典型的には理工系の、しかも「カネになる」一部に属する。

 そうした推定は



個人がやりたい研究や家族との時間をつくれたらいいな」とあり、あーそーか個人的にやりたくないがやらされる業務研究のことを言ってるんだなと、まあそう読めるわけである。なんでそんなもんのために自分の健康・人生を消費せにゃならんのだ。

 ということで、これは企業研究者(が意に添わぬことをやらされてる場合)の話をしているのであって、個人の精神の自由として行っている研究者とは話が異なるのである。それがここでいう「公的な成果」になるのは、単に副次的な効果であって、そうまで規制してぇなら勝手に規制してろよこっちは知ったこっちゃない、こっちは世界に適切な知識を供給するという大課題のためにやってんだ、という気はするわけである。

 つまり私は本務校で出世してないんですね。私の業績は学校の業績ではない、という判断をされているので。

 まあ、あとはいいでしょう。
 元ポストには多少の反響があったようだが、これは「研究」という単語の範囲を定義していないために起きた理解のすれ違いの一例なのだ。





 まあその。
 研究は、どうしても非定常作業なので、定時のみで!というのとは本質的に相性が悪い。
 だからといって無限に時間を投下しろというのもおかしいが―何しろ我々の頭脳は情報の差異によって何かを認識する。だから24時間、同じ机にかじりついていても効率は良くないのだ。まあ、なにかしら、個々人にベストマッチな様態を見つけ出したいものです。
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