NHKの番組は見てないけど、貧困にあえいでいる人の暮らしや人物を見せたら逆効果ってこと早く学んで欲しい。必要なのは同情心が一ミリも沸かないような人たちを機械的に救済する仕組みであって、一般人の同情や理解ではないはず。こういうのは非民主的な理屈で進めないと。
— 荒川渡 (@_DuckOfDeath) 2016年8月19日
しかしながら民主主義国家では,一般の理解がそれ相応にないと議会を通らない。それ故,過去には。社会党が問題提起をし,国会で大騒ぎをして,時期尚早として却下され,数年後に自民党案に模様替えして通る,という手続きをふんだものなのではないか。
しかしその「民意」の形成に際しては
多少の誇張や偏りはあっても事実は事実っていうの、ドーピングしてても凄いものは凄いとか、八百長してても本当に強かったみたいな主張に近いものを感じるんだよな。なら最初から堂々とやれよっていう。
— 江口允崇 (@maseguchi) 2016年8月21日
正規の価格で正規に商売すればよいのである。
貧困JKに関する報道というなら,単に,貧困JKを取材すればよいのである。
そしてそれが,単なる異例形かどうか,一定の意味で典型例として取り扱ってよいものか,それなりに適切に判断して,その限りで取扱えばいいだけの話なのである。
”貧困”家庭出身者でも,アニメ専門学校に行くと言う,貧困の再生産になりかねない選択をしてもかまわない。それが自由ということだ。ただ,その選択を支えるコストを制度的に保証するのがよいかどうかは別の問題で―そこで”社会的な議論”が要求されるだろう。
…まあ,一般的な奨学金制度があればいいんじゃないですかね,ということには,なる,だろう。
その際,そうした家庭の実態を,実例をもってTVで示したいというのであれば,正味で”そぅ”いうのを出せばよいだけのことで,劇団員にてきとーにやらせたりしなければよいのだ。
まあ,運動家から調達するというのは,手ではある。が,その場合でも,単に正味で勝負すればいいだけで。
んー・・・でも、ブルートゥースでスマホに接続できる4000円のキーボードを「どこにも繋がっていない1000円のキーボードでタイピングを練習している」というのは、明らかに嘘だし、そういう報道をするべきではないよね。
— ジョンお姉さん (@jpn1_rok0) 2016年8月19日
一瞬でバレるから。 https://t.co/sO7PmDxvh8
「いい筋でストーリーを作ったけどディーテールで嘘ついて台無しにした」なら、よくあるな。
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2016年8月20日
ということだろう。
例のNHKの貧困特集の件、袋叩きにしている個人も、そこに乗っかる政治家も全く支持しないが、報道側も青少年をあの手のテーマで取り上げるには匿名で顔も見せないなど、予防的な手段をとらざるを得ないんでしょうね。親の立場から見ると、あんな酷いものに自分の娘を晒すわけにいかない。
— Noriaki Yoshikawa (@yoshikawanori) 2016年8月21日
場合によっては,メディア側と運動家側とでタイアップすることもあるだろう。例の,ここ一年やってた”若者の運動”とか。ああいうやり方は反感を買うのではないかなあ,客のほうを向いていないのかなあ,と思ったら,
―まず,民間メディアの場合,客は直接にはスポンサーや広告代理店や…であって,一般視聴者は間接的に問題になるに過ぎない,とはいえよう。
―ということで,”TV受像機をもっているひとみんなから直接金銭を徴収している”NHKには,朝日さんや読売さんや…より厳しめの,ちょっと違う基準が適用されることになろう。
さて
絶対的な収入が少ないのではなく目的に対する手段の選択や優先順位付けが誤っていることによる貧困というのは確かに存在するというのが片方。そのタイプの貧困にカネ配るとさらに状態が悪化するので単なる福祉の規模拡大では解決にならないというのがもう片方。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2016年8月19日
その通りで、これを「解決すべき貧困」と呼ぶなら自己決定的な個人の資格を否定する方向でしか解決できないし、それはあらゆる人が個人であるとする近代の原理に抵触する。でも多くの人が解決すべき問題だと思うんだよね、というのがポイント。https://t.co/Xc9puGmnE3
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2016年8月19日
”貧困であれば,解決されるべきだ”という文句つけをする人がいそうだが,もちろん,これは「社会的に解決すべきかどうか」とか付けて理解されるべきだろう。
でまあ,そういう微妙な問題を避けて,TVなどは”望む進路を選べない子供たちって,なんて可哀想!”って情緒で片づけようとする。
さて,進路について別の言い方。
大学院が拡充されて,相当数の人々が大学院進学を選んだ。
で,結構な領域で,「もとで」をとるには大学教員になる以外にない,というような状態に立ち至ったものかとおもわれる。
…まあ,サンスクリット語学なんかを想像すればいいだろう。文系の極北。事実上の保護動物,といっても間違いではないだろう(独法化に際して,”サンスクリット的なものをどう守るか”という話題になったくらいだ)。
で,そんなものの専任ポストはろくろくありはしない。
で,就職にあぶれた者に対して,どう対処すべきだろうか…?
社会的なアプローチは,どの程度であれば社会的・合理的だろうか,採算が取れるだろうか,社会的な合意がとれそうだろうか?
―と言われると,”そんなん,個々人で大人の判断すればええがな”の一言ではないか。
私の友人の話だけど、友人の母は専業主婦だった。友人が10歳の時に離婚して女手一つで育ててくれた。大学の資金は出せないと言われて国立を狙い浪人したが、結局私大に入学。学費は全額奨学金で賄った。時代が悪く就職難で非正規雇用。
— いとう (@itou110110) 2016年8月18日
彼女は親を憎んでいる。
いろいろと味わい深い。
ともあれ,情緒でなんとかしようとてきとーに盛った演芸で一般人を煽ろうとするメディアと,その手法に噛みつく人々との間で,リアルな貧困者がリアルに苦しみ,でまあ,そのまま誰の眼にもとまらぬまま干からびてたりするんじゃないかなーとかいってみゆの。
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