過去最多の参拝者が訪れた信州善光寺の御開帳は5月31日に終りました。
軽井沢と須坂での仕事があり、6月17日に長野で一泊したのですが、翌朝4時半に眼が覚めてしまい善光寺参拝をすることに・・・。御開帳期間中は臨時運行していたバスもなく、徒歩で善光寺へ向かいます。
山門(三門)へ向かう仲見世通りは何時もの静けさを取り戻していました(写真)。
中央奥には、山門を通して、御開帳の主役を務めた回向柱(えこうばしら)が幽かに窺えます。
さて、明治15(1882)年から子(ね)と午(うま)年に行われるようになった6年毎の御開帳は、大東亜戦争(だいとうあせんそう)で中断されていたのですが、昭和24(1949)年から丑(うし)と未(ひつじ)の年に再開されます。6年毎に行われる御開帳を、敢えて数え年にして7年毎としているのは、北斗七星の「七」と縁が深いようです。
元気印が住む千葉市の千葉妙見宮(千葉神社)は、千葉常胤(つねたね)を宗家とした千葉氏(ちばうじ)一族の信仰が篤く、北極星を神格化した妙見菩薩(みようけん・ぼさつ)を本尊として祀り、一族の守護神としています。
治承(じしょう)4(1180)年、石橋山の戦に敗れた源頼朝の加勢要請に応え、頼朝が決起するまでを手助けし、鎌倉政権を支援した千葉常胤の城館は、千葉市郷土博物館が建っている亥鼻(いのはな)城跡にありました。
その領域は、現在の千葉大学亥鼻キャンパスやその周辺を含む範囲にまで広がっており、そこには七天王塚(しちてんのうずか)と呼ばれる7つの塚が現存しています。千葉氏城館の鬼門の方向に妙見信仰の信仰対象である北斗七星の形に塚を配置して祭ったもの、とする考えがあります。
余談はさておき、七年ごとの御開帳、七井(井戸)、七清水、七塚、七小路、七社(神社)、七印(寺院)など、信州善光寺は「七」を様々な風習に適用しています。
橋はあの世とこの世との結界(けっかい)であり、井戸や清水は魑魅魍魎(ちみもうりょう)が噴出す異界との出入口。塚は鎮魂の場であり、小路はあの世に繋がる冥道(みようどう)である。さらに、その他神社や寺は聖域として、どれをとってもあの世との接点である(宮元健次著:善光寺の謎)。
そうして、北斗七星形に神社を配することが、なぜ鎮魂の印とするのかは、「北斗七星護摩秘要儀軌(ごまひようぎき)」の中に、悪霊退散を行う法が記されており、天台宗神道論の根本は北斗七星に関係しているようです (同上)。
千葉常胤は北斗七星護摩秘要儀軌の法に習い、彼の城館の鬼門に棲む鬼を平らげ、さらにその霊を鎮魂することで鬼門を封じたのでしょう。
そんななかでも、「七」へ拘る信州善光寺の象徴が、7,777枚の敷石(写真)である、と元気印は考えています。
二天門跡(境内入口)から山門下までの参道は、幅5.7m、長さ397m、敷石の枚数が6,479枚あり、長野市の文化財に指定されています。
御開帳期間中この参道は、回向柱に触れて、善光寺如来に直接触れるのと同じ功徳を得ようと願う参拝者の行列で埋め尽くされ、時には3時間後に、参拝者は大願成就を果たしていたのです。
5月31日に御開帳結願(けちがん)大法要が営まれ、前立本尊(まえたち・ほんぞん)を安置した厨子の扉が閉じられました。翌日の御還座(ごかんざ)の儀式で前立本尊が再び大勧進の御宝庫に還ってからは、境内に何時もの静けさが戻り、早朝の境内に佇む空気は、本堂から流れる朝事(あさじ)の読経に揺らいでいるだけです。
今年の御開帳で敷石たちは、673万人の参拝者を支えました。
4月5日から5月31日までの57日間に、御開帳のない信州善光寺の365日に相当する参拝者に踏みつけられた勘定になります。
この敷石は、武州江戸中橋上槙町(日本橋3丁目)で石屋を営んでいた豪商・香庄平兵衛(こうのしょう・へえべえ)が、郷路山の石(安山岩)を使用した敷石を寄進したもので、腰村(西長野)の太郎左衛門が約300両の工費で請負っています。郷路山は太郎左衛門の住む腰村にありますから、石の扱いには熟れていたのでしょう。
この頃の1両は、享保小判に含まれる金の含有量4.1匁(もんめ:15.309mg)を目安に算定した米価換算で約8万円とする情報がありますので、300両は、2400万円になります。
また、当時の人が1年間に消費する米の量は1石(こく)とされ、1両前後の価格との情報もありますので、一人の人間が
300年間暮らせます。300両は、それくらい莫大な金額です。
ところで、平兵衛が日本橋で大店(おおだな)を営んでいた時代は、徳川五代将軍・綱吉の治世から、六代将軍に就いた家宣(いえのぶ)が僅か3年で他界し、4歳の家継(いえつぐ)が第7代将軍に就きます。敷石はその2年後の正徳(しょうとく)4(1714)年に寄進されています。それから4年後、家継は8歳で他界し、江戸幕府中興の祖とされる徳川吉宗の世に移っていきます。
つまり、江戸文化が成熟した元禄期を経てから、家康が開設した江戸幕府創業期の政治に立ち戻る幕政改革(享保改革)が始まる過渡期でもあったのです。
再三再四、火災に襲われ焼失した本堂が現在の地に移転し竣工したのは、宝永4(1707)年です。
参拝者は、雪解けの季節、雨上がりには泥んこになって参拝していたようです。
香庄平兵衛は、わが子を槍で突き殺しています。
我が家に押し入って暗闇に潜む盗賊を平兵衛は突き殺したのですが、勘当した放蕩息子でした。
世の無常を痛感した平兵衛は、家を養子に譲り、出家するために信州善光寺を訪れます。その時、雨にぬかるんだ泥んこ道に足を取られ本堂へ向かう参拝者を見て、敷石の寄進を決意したようです。正徳元(1711)年7月に敷石を発注し、同4(1714)年9月に完成したのが、現在の参道です。平兵衛の子孫は敷石の修理をしており、一部補修されていますが大部分は当時のままです(信州善光寺案内、他)。
この逸話を読んでいると、熊谷直実(くながい・なおざね)は、源平の戦、一の谷の戦で17歳の若武者・平敦盛(たいらの・あつもり)を止む無く討ちますが、そのことに対する慙愧の念と世の無常を感じて出家した経緯を思い起こします。
平兵衛は伊勢白子(しらこ:三重県鈴鹿市)の人で江戸に出て豪商になったとしか分かりませんが、暗闇で槍を遣います。槍術の心得がある商人、あるいは、武家の出かも知れませんね。自宅に槍を置いて盗賊から防衛する心構え、暗闇に浮かぶ人影に向かって槍を突き刺す沈着な行動などは、武家に育った人物を想像させる材料ですから。
文化10(1813)年、本堂前から山門までの参道に、腰村西光寺の欣誉単求(きんよ・たんきゅう)、大門町曽兵衛(そへえ)らの世話で石畳が敷設されます。請負人は、腰村新諏訪の児玉宗左衛門(そうざえもん)。幅45cm、長さ54cm、厚さ15
cmの石を使い、1坪1両1分で168両余の総工費でした(善光寺の不思議と伝説、他)。
なにはともあれ、早朝の信州善光寺は、寺としての雰囲気に最も満ちている時間帯のひとつです。
内々陣(ないないじん)から流れてくる「お朝事」の読経を聴きながら境内を散歩する人のいる光景からは、欽明(きんめい)天皇が仏像礼拝の可否を群臣に問うた宣化(せんか)3(538)年、この時から始まる阿弥陀三尊仏(善光寺の御本尊)の波乱万丈の流転物語が、信州善光寺縁起に埋もれていることなど、微塵も感じられない。
信州善光寺に秘められている歴史の重みと深さは、参道に整然と敷き詰められた7,777枚の安山岩が支え続けているからでしょうか・・・。
軽井沢と須坂での仕事があり、6月17日に長野で一泊したのですが、翌朝4時半に眼が覚めてしまい善光寺参拝をすることに・・・。御開帳期間中は臨時運行していたバスもなく、徒歩で善光寺へ向かいます。
山門(三門)へ向かう仲見世通りは何時もの静けさを取り戻していました(写真)。
中央奥には、山門を通して、御開帳の主役を務めた回向柱(えこうばしら)が幽かに窺えます。
さて、明治15(1882)年から子(ね)と午(うま)年に行われるようになった6年毎の御開帳は、大東亜戦争(だいとうあせんそう)で中断されていたのですが、昭和24(1949)年から丑(うし)と未(ひつじ)の年に再開されます。6年毎に行われる御開帳を、敢えて数え年にして7年毎としているのは、北斗七星の「七」と縁が深いようです。
元気印が住む千葉市の千葉妙見宮(千葉神社)は、千葉常胤(つねたね)を宗家とした千葉氏(ちばうじ)一族の信仰が篤く、北極星を神格化した妙見菩薩(みようけん・ぼさつ)を本尊として祀り、一族の守護神としています。
治承(じしょう)4(1180)年、石橋山の戦に敗れた源頼朝の加勢要請に応え、頼朝が決起するまでを手助けし、鎌倉政権を支援した千葉常胤の城館は、千葉市郷土博物館が建っている亥鼻(いのはな)城跡にありました。
その領域は、現在の千葉大学亥鼻キャンパスやその周辺を含む範囲にまで広がっており、そこには七天王塚(しちてんのうずか)と呼ばれる7つの塚が現存しています。千葉氏城館の鬼門の方向に妙見信仰の信仰対象である北斗七星の形に塚を配置して祭ったもの、とする考えがあります。
余談はさておき、七年ごとの御開帳、七井(井戸)、七清水、七塚、七小路、七社(神社)、七印(寺院)など、信州善光寺は「七」を様々な風習に適用しています。
橋はあの世とこの世との結界(けっかい)であり、井戸や清水は魑魅魍魎(ちみもうりょう)が噴出す異界との出入口。塚は鎮魂の場であり、小路はあの世に繋がる冥道(みようどう)である。さらに、その他神社や寺は聖域として、どれをとってもあの世との接点である(宮元健次著:善光寺の謎)。
そうして、北斗七星形に神社を配することが、なぜ鎮魂の印とするのかは、「北斗七星護摩秘要儀軌(ごまひようぎき)」の中に、悪霊退散を行う法が記されており、天台宗神道論の根本は北斗七星に関係しているようです (同上)。
千葉常胤は北斗七星護摩秘要儀軌の法に習い、彼の城館の鬼門に棲む鬼を平らげ、さらにその霊を鎮魂することで鬼門を封じたのでしょう。
そんななかでも、「七」へ拘る信州善光寺の象徴が、7,777枚の敷石(写真)である、と元気印は考えています。
二天門跡(境内入口)から山門下までの参道は、幅5.7m、長さ397m、敷石の枚数が6,479枚あり、長野市の文化財に指定されています。
御開帳期間中この参道は、回向柱に触れて、善光寺如来に直接触れるのと同じ功徳を得ようと願う参拝者の行列で埋め尽くされ、時には3時間後に、参拝者は大願成就を果たしていたのです。
5月31日に御開帳結願(けちがん)大法要が営まれ、前立本尊(まえたち・ほんぞん)を安置した厨子の扉が閉じられました。翌日の御還座(ごかんざ)の儀式で前立本尊が再び大勧進の御宝庫に還ってからは、境内に何時もの静けさが戻り、早朝の境内に佇む空気は、本堂から流れる朝事(あさじ)の読経に揺らいでいるだけです。
今年の御開帳で敷石たちは、673万人の参拝者を支えました。
4月5日から5月31日までの57日間に、御開帳のない信州善光寺の365日に相当する参拝者に踏みつけられた勘定になります。
この敷石は、武州江戸中橋上槙町(日本橋3丁目)で石屋を営んでいた豪商・香庄平兵衛(こうのしょう・へえべえ)が、郷路山の石(安山岩)を使用した敷石を寄進したもので、腰村(西長野)の太郎左衛門が約300両の工費で請負っています。郷路山は太郎左衛門の住む腰村にありますから、石の扱いには熟れていたのでしょう。
この頃の1両は、享保小判に含まれる金の含有量4.1匁(もんめ:15.309mg)を目安に算定した米価換算で約8万円とする情報がありますので、300両は、2400万円になります。
また、当時の人が1年間に消費する米の量は1石(こく)とされ、1両前後の価格との情報もありますので、一人の人間が
300年間暮らせます。300両は、それくらい莫大な金額です。
ところで、平兵衛が日本橋で大店(おおだな)を営んでいた時代は、徳川五代将軍・綱吉の治世から、六代将軍に就いた家宣(いえのぶ)が僅か3年で他界し、4歳の家継(いえつぐ)が第7代将軍に就きます。敷石はその2年後の正徳(しょうとく)4(1714)年に寄進されています。それから4年後、家継は8歳で他界し、江戸幕府中興の祖とされる徳川吉宗の世に移っていきます。
つまり、江戸文化が成熟した元禄期を経てから、家康が開設した江戸幕府創業期の政治に立ち戻る幕政改革(享保改革)が始まる過渡期でもあったのです。
再三再四、火災に襲われ焼失した本堂が現在の地に移転し竣工したのは、宝永4(1707)年です。
参拝者は、雪解けの季節、雨上がりには泥んこになって参拝していたようです。
香庄平兵衛は、わが子を槍で突き殺しています。
我が家に押し入って暗闇に潜む盗賊を平兵衛は突き殺したのですが、勘当した放蕩息子でした。
世の無常を痛感した平兵衛は、家を養子に譲り、出家するために信州善光寺を訪れます。その時、雨にぬかるんだ泥んこ道に足を取られ本堂へ向かう参拝者を見て、敷石の寄進を決意したようです。正徳元(1711)年7月に敷石を発注し、同4(1714)年9月に完成したのが、現在の参道です。平兵衛の子孫は敷石の修理をしており、一部補修されていますが大部分は当時のままです(信州善光寺案内、他)。
この逸話を読んでいると、熊谷直実(くながい・なおざね)は、源平の戦、一の谷の戦で17歳の若武者・平敦盛(たいらの・あつもり)を止む無く討ちますが、そのことに対する慙愧の念と世の無常を感じて出家した経緯を思い起こします。
平兵衛は伊勢白子(しらこ:三重県鈴鹿市)の人で江戸に出て豪商になったとしか分かりませんが、暗闇で槍を遣います。槍術の心得がある商人、あるいは、武家の出かも知れませんね。自宅に槍を置いて盗賊から防衛する心構え、暗闇に浮かぶ人影に向かって槍を突き刺す沈着な行動などは、武家に育った人物を想像させる材料ですから。
文化10(1813)年、本堂前から山門までの参道に、腰村西光寺の欣誉単求(きんよ・たんきゅう)、大門町曽兵衛(そへえ)らの世話で石畳が敷設されます。請負人は、腰村新諏訪の児玉宗左衛門(そうざえもん)。幅45cm、長さ54cm、厚さ15
cmの石を使い、1坪1両1分で168両余の総工費でした(善光寺の不思議と伝説、他)。
なにはともあれ、早朝の信州善光寺は、寺としての雰囲気に最も満ちている時間帯のひとつです。
内々陣(ないないじん)から流れてくる「お朝事」の読経を聴きながら境内を散歩する人のいる光景からは、欽明(きんめい)天皇が仏像礼拝の可否を群臣に問うた宣化(せんか)3(538)年、この時から始まる阿弥陀三尊仏(善光寺の御本尊)の波乱万丈の流転物語が、信州善光寺縁起に埋もれていることなど、微塵も感じられない。
信州善光寺に秘められている歴史の重みと深さは、参道に整然と敷き詰められた7,777枚の安山岩が支え続けているからでしょうか・・・。
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