日本寺に残されていた古文書類は、昭和14(1939)年11月26日の火災で焼失しましたが、古刹・名刹だけあって、様々な記録類が残っているようです。
鋸南町史(昭和44年7月発行)を閲覧すると、日本寺名勝と由来などが記載されており、散策実踏で見逃していることが沢山ありました。
日本寺縁起(以下縁起)で推奨している十八名勝では、昭和43年(1968)年頃に把握していた記録と当時の現況とを比較して説明しています。現在、境内に設けられている名勝立札の解説と違うものがあるようです。40年という歳月の重みなのでしょうか?
鋸南町史・通史偏(改訂版)は平成7(1995)2月発行で、一番新しい町史です。時勢でしょうか、内容は昭和44年版より簡単になっていますので、十八名勝縁起の話は後者を主体にしてあります。
縁起による十八名勝を、元気印が実踏で訪れた名勝とを比べてみました。
1.無漏窟(むろうくつ):無常法王の奥、十万の緒仏集まる(写真)
立札の名称は、奥の院無漏窟。解説は縁起と同じです。
大きい石仏坐像は、ご本尊の釈迦牟尼如来(しゃかむに にょらい:釈迦の正式名に称号の如来を付した名)です。前の立像は文殊・普賢菩薩(もんじゅ・ふげんぼさつ)、ご本尊の周りには十大神将が安置されています。境内第一の霊跡です。
静寂に包まれた釈迦牟尼如来の坐像がなんとも言えず、元気印が一番気に入ったポイントです。
2.閼伽井(あかい):良弁手穿の泉、薬水目を洗えば明らかなり
元気印が出会った立札は、『弘法井:弘法大師手穿の井、千年未だ絶えず』ですから、閼伽井は別にあるのかもしれません。良弁(ろうべん)は宝亀(ほうき)4(773)年、閏11月24日に85歳で没しています。弘法大師(こうぼうだいし)が生まれたのは宝亀5(774)年6月15日ですから別人でしょう。
閼伽(あか)は、価値のあるものが本来の意味で、仏に供える供物をいう。仏に供える水、また、その水を入れる器や、仏に供える物を入れる容器を表す。漢字源(新版2色刷)で調べた成果です。
3.薜蘿洞(へいらどう):薜蘿掛かって錦の如く、洞中竜の蟠(わだかま)るに似たり。
立札の説明は縁起と同じです。薜蘿の意味を漢字源(新版2色刷)で調べる。
薜(へい):①地をはって山野・道ばたに自生する、かずらの類の総称。②薬用植物の名前で香りがよい。薜蘿(へいら):かづらと、つた。つる状にのびてまつわりつく植物の総称。
洞の周辺にまつわりつく薜蘿は、今日も錦織のようです。
4.呑海楼(どんかいろう):北岸二重桜、南海一と口に呑む
江戸蔵前の札差(ふださし)・大口野平兵衛が天明8(1788)年10月に寄進した僧坊。宝筐印塔(ほうきょういんとう)も大口野が寄進しています。呑海楼の庭前には宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)槍の遣手・新当斎の試技碑、三芳村(千葉県)生まれの詩人・鱸松塘(すずきしょうとう)の詩碑、法(のり)の松などがあるようですが、元気印は茶菓子を食べるのに忙しくて・・・。
法の松は、庭の地表にせりだすほど太い根を張り、踏みつけられていましたが、老衰には勝てず枯れてしまいました、と、女将に聴いたのは覚えています。水量豊かな湧水が竹樋を伝い小さな池に流れ落ちる音、そこで泳ぐ大きな錦鯉には気付きましたが、立札、試技碑、詩碑などは見落としています。楼前庭からの展望は、あたかも、東京湾をひとくちで呑み込む絶景でした。
5.達磨石(だるまいし):広庭松下、四方面壁の相
日本寺仮法堂前の広場にあります。立札の説明は縁起と同じです。頼朝(よりとも)手植えの蘇鉄(そてつ)と伝えのある大蘇鉄が並んでいます。立札には、大蘇鉄。源頼朝公御手植、樹齢約八百余年 と書かれています。広場の片隅には、佐野市の天宝寺から鎌倉の浄妙寺を経て日本寺へ渡ってきた鐘(つりがね)があります。
6.護摩壇(ごまだん):弘法の護摩窟、千歳香烟薫る
立札は、護摩窟。弘法の護摩窟、千歳香烟薫る。末尾の壇が窟になっています。
弘法大師の石像が安置されており、大師が護摩を焚いて修行した窟(いわや)なのでしょう。
7.通天関:巌狭く関(かん)を通るが如く、仰面すれば天に登るに似たり
立札の説明は縁起と同じです。通行手形を持たない者は何人(なんぴと)も関所は通過できません。
弁慶が安宅関(あたかのせき)で一世一代の賭けを打って、頼朝の追っ手から奥州へ逃れる「勧進帳」では、関守(せきもり)の富樫(とがし)は主君の義経を金剛杖でさんざん打ち据える弁慶の姿に事情を察して関所を通します。
通行手形を持たないのは関所破りで、ご法度でした。立札の寸評を読むと、入口が狭い関所を無事に通過した直後の旅人の安堵感を感じます。
8.石 橋:天台山上にあり、五百と尊者の梯(かけはし)
鋸山日本寺案内図(以下案内図)には、天台石橋とあります。維摩窟(ゆいまくつ)を経て聖徳太子を巡り、石橋を渡ると不動の滝です。この橋は、羅漢から尊者に変身する大事なところだと、元気印は考えています。羅漢は地獄へ堕ちず。成仏も出来ないとする説(日本一・その3)に囚われていた羅漢もどき元気印は、「五百と尊者の梯」があったので一安心です。
日本寺には五百羅漢像が千五百十三体安置されており日本一です(日本一・その3)。五十三体は既に安置されていた羅漢、千百五十三体が安永9(1780)年から寛政10(1798)年にかけて作られています。その数は、1353,1253、1053体とも伝えられ、その羅漢を寄付した人の名前を一体ごとに記名して奉納したと、鋸南町史には記載されています。その後も羅漢を奉納する信者等によって千五百十三体まで作られています。
9.白布泉:三峯従(よ)りの滝水、水声無きこと布の如し
案内図の不動の滝を指しているのでしょか。立札や書き込みは記憶していません。水枯れのせいか「水声無きこと布の如し」でした。石橋の立札の記憶も曖昧です。
10.座禅石:仰観祖徳を大とし、登座天下を小とす
大仏広場と千五百羅漢道(以下羅漢道)との分岐点に安置されており、立札があったのは覚えていますが、姿なき仲間達は左右の道をどちらに向かったのか、順路の選択に追われていた元気印は、肝心の書き込みが思い出せません。右の羅漢道を急ぐと維摩窟の前で仲間達は待っていました。
これ以降は、縁起名勝や立札の写真を撮りそこなったところで、縁起と案内図を見比べながら推測する話です。
11.三峯門:日月瑠璃の峯、石門一観の帷(とばり)
案内図の二天門とすれば、座禅石を登った所、或いは西国観音を巡って下りた所にあります。
12.瑠璃峰:中峰瑠璃の壷、甘露の法雨を澍(そそ)ぐ
13.日輪山:朝朝初照赫(かがや)き、日光菩薩陽(あらわ)る
14.月輪山:夜夜半円懸かり、月光菩薩陰(かく)る
12~14は個別ではなく、薬師三尊を構成している菩薩と考えられます。薬師如来には脇侍(きょうじ)がいます。日光菩薩・月光菩薩、無漏窟に安置されていた文殊・普賢菩薩、十二神将がそうです。
鋸山の山姿は、中央に瑠璃山(本尊ヶ岳)、東は、日輪山(獅子の前)、西を月輪山(護摩堂ヶ岳)の三峰に分かれていて、三尊来迎の形をしている。瑠璃山は本尊薬師如来、日輪山は日光菩薩(にっこうぼさつ)、月輪山は月光菩薩(がっこうぼさつ)を象徴し、薬師三尊を構成しています。
具体的な場所は未確認ですが、元気印は次のように考えています。
鋸山を表参道(保田)方面から眺めて、瑠璃山は、本尊ヶ岳とあるので日本寺仮本堂、月輪山は、護摩堂ヶ岳ですから弘法大師護摩窟のある場所を指している。では、獅子の前とされる日輪山はどこなのだろう?
縁起名勝散策は、御影石を敷いた日本一の階段(日本一・その1)全部に足跡を残すまで終わらない?!
次の4縁起名勝は、予備知識を持たないで実行した散策の実踏では手がかりを得られなかったところ、案内図を睨みつけても見当がつかないところです。
15.黄金石:聖帝の寄付金、舟に積みて海岸に到る
16.仙掌巌:不死不老の相、仙人天を撑(ささ)うるの勢い
17.獅子巌:狂猿野干(かん)等しく、此に到りて恐伏し去る
18.鷲翼山:緒鳥来たれども険峻、避けて去る、鷲を怖るるに似たり
『日本寺の散策は未だ終わっていませんね。
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 』
ボケ封じ観音さまは元気印に時限爆弾を仕掛け終えると、薬師如来の守護を願う真言を唱えながら薬師瑠璃光如来の主宰する国へ飛び去った。
ボケ封じ観音さまがボケない秘訣は、薬師如来の脇侍に納まることに違いない。
鋸南町史(昭和44年7月発行)を閲覧すると、日本寺名勝と由来などが記載されており、散策実踏で見逃していることが沢山ありました。
日本寺縁起(以下縁起)で推奨している十八名勝では、昭和43年(1968)年頃に把握していた記録と当時の現況とを比較して説明しています。現在、境内に設けられている名勝立札の解説と違うものがあるようです。40年という歳月の重みなのでしょうか?
鋸南町史・通史偏(改訂版)は平成7(1995)2月発行で、一番新しい町史です。時勢でしょうか、内容は昭和44年版より簡単になっていますので、十八名勝縁起の話は後者を主体にしてあります。
縁起による十八名勝を、元気印が実踏で訪れた名勝とを比べてみました。
1.無漏窟(むろうくつ):無常法王の奥、十万の緒仏集まる(写真)
立札の名称は、奥の院無漏窟。解説は縁起と同じです。
大きい石仏坐像は、ご本尊の釈迦牟尼如来(しゃかむに にょらい:釈迦の正式名に称号の如来を付した名)です。前の立像は文殊・普賢菩薩(もんじゅ・ふげんぼさつ)、ご本尊の周りには十大神将が安置されています。境内第一の霊跡です。
静寂に包まれた釈迦牟尼如来の坐像がなんとも言えず、元気印が一番気に入ったポイントです。
2.閼伽井(あかい):良弁手穿の泉、薬水目を洗えば明らかなり
元気印が出会った立札は、『弘法井:弘法大師手穿の井、千年未だ絶えず』ですから、閼伽井は別にあるのかもしれません。良弁(ろうべん)は宝亀(ほうき)4(773)年、閏11月24日に85歳で没しています。弘法大師(こうぼうだいし)が生まれたのは宝亀5(774)年6月15日ですから別人でしょう。
閼伽(あか)は、価値のあるものが本来の意味で、仏に供える供物をいう。仏に供える水、また、その水を入れる器や、仏に供える物を入れる容器を表す。漢字源(新版2色刷)で調べた成果です。
3.薜蘿洞(へいらどう):薜蘿掛かって錦の如く、洞中竜の蟠(わだかま)るに似たり。
立札の説明は縁起と同じです。薜蘿の意味を漢字源(新版2色刷)で調べる。
薜(へい):①地をはって山野・道ばたに自生する、かずらの類の総称。②薬用植物の名前で香りがよい。薜蘿(へいら):かづらと、つた。つる状にのびてまつわりつく植物の総称。
洞の周辺にまつわりつく薜蘿は、今日も錦織のようです。
4.呑海楼(どんかいろう):北岸二重桜、南海一と口に呑む
江戸蔵前の札差(ふださし)・大口野平兵衛が天明8(1788)年10月に寄進した僧坊。宝筐印塔(ほうきょういんとう)も大口野が寄進しています。呑海楼の庭前には宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)槍の遣手・新当斎の試技碑、三芳村(千葉県)生まれの詩人・鱸松塘(すずきしょうとう)の詩碑、法(のり)の松などがあるようですが、元気印は茶菓子を食べるのに忙しくて・・・。
法の松は、庭の地表にせりだすほど太い根を張り、踏みつけられていましたが、老衰には勝てず枯れてしまいました、と、女将に聴いたのは覚えています。水量豊かな湧水が竹樋を伝い小さな池に流れ落ちる音、そこで泳ぐ大きな錦鯉には気付きましたが、立札、試技碑、詩碑などは見落としています。楼前庭からの展望は、あたかも、東京湾をひとくちで呑み込む絶景でした。
5.達磨石(だるまいし):広庭松下、四方面壁の相
日本寺仮法堂前の広場にあります。立札の説明は縁起と同じです。頼朝(よりとも)手植えの蘇鉄(そてつ)と伝えのある大蘇鉄が並んでいます。立札には、大蘇鉄。源頼朝公御手植、樹齢約八百余年 と書かれています。広場の片隅には、佐野市の天宝寺から鎌倉の浄妙寺を経て日本寺へ渡ってきた鐘(つりがね)があります。
6.護摩壇(ごまだん):弘法の護摩窟、千歳香烟薫る
立札は、護摩窟。弘法の護摩窟、千歳香烟薫る。末尾の壇が窟になっています。
弘法大師の石像が安置されており、大師が護摩を焚いて修行した窟(いわや)なのでしょう。
7.通天関:巌狭く関(かん)を通るが如く、仰面すれば天に登るに似たり
立札の説明は縁起と同じです。通行手形を持たない者は何人(なんぴと)も関所は通過できません。
弁慶が安宅関(あたかのせき)で一世一代の賭けを打って、頼朝の追っ手から奥州へ逃れる「勧進帳」では、関守(せきもり)の富樫(とがし)は主君の義経を金剛杖でさんざん打ち据える弁慶の姿に事情を察して関所を通します。
通行手形を持たないのは関所破りで、ご法度でした。立札の寸評を読むと、入口が狭い関所を無事に通過した直後の旅人の安堵感を感じます。
8.石 橋:天台山上にあり、五百と尊者の梯(かけはし)
鋸山日本寺案内図(以下案内図)には、天台石橋とあります。維摩窟(ゆいまくつ)を経て聖徳太子を巡り、石橋を渡ると不動の滝です。この橋は、羅漢から尊者に変身する大事なところだと、元気印は考えています。羅漢は地獄へ堕ちず。成仏も出来ないとする説(日本一・その3)に囚われていた羅漢もどき元気印は、「五百と尊者の梯」があったので一安心です。
日本寺には五百羅漢像が千五百十三体安置されており日本一です(日本一・その3)。五十三体は既に安置されていた羅漢、千百五十三体が安永9(1780)年から寛政10(1798)年にかけて作られています。その数は、1353,1253、1053体とも伝えられ、その羅漢を寄付した人の名前を一体ごとに記名して奉納したと、鋸南町史には記載されています。その後も羅漢を奉納する信者等によって千五百十三体まで作られています。
9.白布泉:三峯従(よ)りの滝水、水声無きこと布の如し
案内図の不動の滝を指しているのでしょか。立札や書き込みは記憶していません。水枯れのせいか「水声無きこと布の如し」でした。石橋の立札の記憶も曖昧です。
10.座禅石:仰観祖徳を大とし、登座天下を小とす
大仏広場と千五百羅漢道(以下羅漢道)との分岐点に安置されており、立札があったのは覚えていますが、姿なき仲間達は左右の道をどちらに向かったのか、順路の選択に追われていた元気印は、肝心の書き込みが思い出せません。右の羅漢道を急ぐと維摩窟の前で仲間達は待っていました。
これ以降は、縁起名勝や立札の写真を撮りそこなったところで、縁起と案内図を見比べながら推測する話です。
11.三峯門:日月瑠璃の峯、石門一観の帷(とばり)
案内図の二天門とすれば、座禅石を登った所、或いは西国観音を巡って下りた所にあります。
12.瑠璃峰:中峰瑠璃の壷、甘露の法雨を澍(そそ)ぐ
13.日輪山:朝朝初照赫(かがや)き、日光菩薩陽(あらわ)る
14.月輪山:夜夜半円懸かり、月光菩薩陰(かく)る
12~14は個別ではなく、薬師三尊を構成している菩薩と考えられます。薬師如来には脇侍(きょうじ)がいます。日光菩薩・月光菩薩、無漏窟に安置されていた文殊・普賢菩薩、十二神将がそうです。
鋸山の山姿は、中央に瑠璃山(本尊ヶ岳)、東は、日輪山(獅子の前)、西を月輪山(護摩堂ヶ岳)の三峰に分かれていて、三尊来迎の形をしている。瑠璃山は本尊薬師如来、日輪山は日光菩薩(にっこうぼさつ)、月輪山は月光菩薩(がっこうぼさつ)を象徴し、薬師三尊を構成しています。
具体的な場所は未確認ですが、元気印は次のように考えています。
鋸山を表参道(保田)方面から眺めて、瑠璃山は、本尊ヶ岳とあるので日本寺仮本堂、月輪山は、護摩堂ヶ岳ですから弘法大師護摩窟のある場所を指している。では、獅子の前とされる日輪山はどこなのだろう?
縁起名勝散策は、御影石を敷いた日本一の階段(日本一・その1)全部に足跡を残すまで終わらない?!
次の4縁起名勝は、予備知識を持たないで実行した散策の実踏では手がかりを得られなかったところ、案内図を睨みつけても見当がつかないところです。
15.黄金石:聖帝の寄付金、舟に積みて海岸に到る
16.仙掌巌:不死不老の相、仙人天を撑(ささ)うるの勢い
17.獅子巌:狂猿野干(かん)等しく、此に到りて恐伏し去る
18.鷲翼山:緒鳥来たれども険峻、避けて去る、鷲を怖るるに似たり
『日本寺の散策は未だ終わっていませんね。
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 』
ボケ封じ観音さまは元気印に時限爆弾を仕掛け終えると、薬師如来の守護を願う真言を唱えながら薬師瑠璃光如来の主宰する国へ飛び去った。
ボケ封じ観音さまがボケない秘訣は、薬師如来の脇侍に納まることに違いない。