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いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

世界最小のゼンマイ『屋形舟』

2007-01-14 21:03:14 | Weblog
船頭が艪を漕ぐと前進する屋形舟(写真)は、その大きさを1円玉と比較すると、長さは3枚、高さ80%、幅1枚位の大きさに創られている。
江戸時代に作られたゼンマイからくりで、身長8mmの船頭が艪を漕いでいる。
純銀と真鍮を材料に使い、動きには時計技術を応用しており、世界最小で海外では
未知のからくりという。
  
 は~るばるきたぜ ジパングへ~ ♪
 さ~かまく太西洋を~ 乗り越えて ♪♪
                          
宮殿や民家を黄金で建てるほど膨大な金が産出される国ジパング。
マルコポーロの『東方見聞録』を読み、『時計の精』はジパングへ行きたくて
我慢が出来なかった。ヨーロッパは大航海時代を迎えており、その波に乗っ
て海外進出を政策としていたポルトガルの港から、彼女は憧れのジパング航
路へ旅だった。
ジパングには、礼儀正しいが人の肉を食する習慣があるので、渡航禁止国で
あったかどうかは定かでないが、彼女は機械時計の中に忍び込んだ。

ジパングは、足利尊氏(たかうじ)の北朝と後醍醐(ごだいご)天皇の南朝が
対立する南北朝期を経て戦国の世を含む室町時代(1338年頃~1573年頃)で
あった。

 来てはダメよと 云われても ♪
 思い出すたび 行きたくて~   ♪♪
 と~ても 我慢が~あ できなかったよ~ ♪♪♪

このようにして、彼女は機械時計に正確な時を刻ませ、ジパングと交易のあった
ポルトガル船に乗って黄金の国へ到着する。

幸いなことに、キリスト教の宣教師がジパングに来ており、ジャンク船に乗った
ポルトガル人が種子島に漂着[天文(てんぶん)12(1543)年]したりしていたので、
ポルトガル商人はジパングに馴染み深かった。

入国審査でも、彼女が精となって正確に動かす「からくりソフト」は驚きをもって迎え
入れられた。人に食されることもなく安堵したが、技術職人達にもみくちゃにされる
運命がまっているとは、天のみが知っていた。姿かたちが分からなくなるまで分解
され、また組み立てられる。復元できないとまた分解・組立の苦痛が繰り返される。
それでも、ジパングの技術職人が時を刻む精として彼女が存在していることを発見
するまで、ダンマリを決め込むしか術はなかった。

弓矢、槍を合戦の主要武器とする戦法は、鉄砲の存在を知った兵法者が実践で採
用するまでには至らなかった。捨てる神あれば、拾う神がいた。戦略眼に長ける織
田信長は火縄銃による戦法を考案し、実践で戦果を挙げたことはよく知られている。
ジパングでは、地球が丸いということを知らなかったこの時代に、イエズス会が献上
した地球儀の説明を聴いて、「理にかなっている」と即座に理解したのは信長。
また、時計、地図なども説明を聴いてよく理解したのも彼と云われている。

一方、既存の糸引きで操る「山車(だし)からくり」などを制作していた職人達は彼女
の虜になる。そして、からくりの動力にゼンマイを使い、細かい動きを再現するために
歯車を採り入れた「座敷からくり」を考案・制作してからくりの技術革新を成し遂げる。

やがて、江戸時代に入ると「からくり儀右衛門」のような万能科学者によって、複数の
客人へ茶を運ぶ『茶杓娘』、4本の矢を射る『矢曳き童子』に一本外すように細工する
ユーモアを込めるだけの余裕ある技術、筆につける墨の量を加減してメリハリのある
毛筆をしたためる人の動きをより忠実に再現する『文字書き人形』が出現して、彼女は
ジパングの「独創的な機巧(からくり)の精」に変身・成長している。
400年以上も過ぎた今も、老いを知らず、元気溌剌としてジパングの技術革新に携わっ
ている。

 どこにいるのよ~・・・♪
 江戸東京博だよ・・・♪♪
 連れておいでよ~・・・♪
 夢大からくり展へ ・・・♪♪

江戸城の全てを探索できる『江戸城展覧会』に出かけると、日本独自のからくり人形
達との会話が楽しめる。

江戸城本丸大広間と3回も火災に見舞われ現存しない天守閣がバーチャル・リアリテ
イで大スクリーンに映像再現されており、そこに入って擬似体験ができる。

一寸法師にあやかり『屋形舟』に乗って登城する。大広間に座して一服していると心
が広くなってくる。天守閣頂上へ登って、そこからの展望に身を任せていると、心の安
らぎを覚える。江戸城展示会と夢大からくり展は、古きを訪ね新しきを知る格好の機会
でした。

※ 江戸城展示会と夢大からくり展については、前に書いてあります。


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複数の客人へ茶酌をするからくり人形

2007-01-11 10:14:48 | Weblog
茶運び人形は座敷からくりと呼ばれよく知られています。
茶を入れた大き目の茶碗をお盆に載せて客人の所まで運ぶ。
ひとつの茶碗を一人の客人へ運ぶ人形は、天文学や物理学に通じた
科学者で、万歩計などを考案・制作した技術者「からくり半蔵」、こと、
細川半蔵頼直の著書「機巧圖彙(からくり・ずい)」が基になっており、
からくりの代表作と云われています。

田中久重(ひさしげ)のオリジナル人形が発見されるまでは、日本最古の
工学書とされている「機巧圖彙」[寛政8(1798)年発行・徳川家斉の時代]
を手本にして復元した人形のようです。
製作者の判るオリジナル人形は『茶杓娘』(写真)が最初であるとのこと
です。

「からくり儀右衛門」が制作した『茶杓娘』は、3人の客人を対象にして茶
運びをします。
お盆に3個の茶碗を載せて客人の所まで運びます。客人が座る場所は予
め決まっていますので、最初の客人へ向かう距離、二人目へ方向転換す
るポイント等は事前にセットします。

『茶杓娘』の大きさは、背景に移っている手の親指と比較すると凡その見当
がつきます。茶運び人形だけを狙った写真ですが、シャッターを切ってから
映像に取り込む時間に遅れが起きるデジカメ特有の性能のために、人形を
修復した東野進(日本からくり研究会理事長)さんの手が写ってしまった。
スチールカメラ党からすると取り直しです。しかし、冷静に写真を観ていると、
あの指が世界最小のからくり『屋形舟』を作っているんだよ、と訴えてくるの
です。
「からくり半蔵」から「からくり儀右衛門」へと継承された日本独自のからくり
技術は、21世紀になっても『屋形舟』の中で勇躍しています。
デジカメの悪霊と決め付けていたタイムラグは、怪我の功名でした。

参考情報
ここで紹介したからくり人形の展示と実演は、江戸東京博物館で公開されて
います。
詳細は同博物館のホームぺージhttp://www.edo-tokyo-museum.or.jp/で
確認してください。


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本邦初公開、幻の文字書き人形

2007-01-09 16:31:29 | Weblog
江戸後期から明治初期にかけて活躍した発明家・田中久重(ひさしげ)は、からくり儀右衛門と呼ばれた。
久重が考案・制作した「文字書き人形」が国内で初公開され、見事な文字書きを披瀝している。

150年前にアメリカへ渡り、つい最近まで生活していたので、文字を忘れても思い
出せなかったが、里帰りして記憶を取り戻した。
「寿」1文字しか書けなかった人形は「松」「竹」「梅」の3文字が書けるまでに修復
されている。
「梅」の文字、流麗な筆遣い、文字バランスなどは、ひとかどの書家並みの腕前を
持っている。(写真)
からくり人形はお茶運び、と貧弱なイメージを抱いて江戸東京博物館(東京・両国)
で開催されている「夢大からくり展2007」を観て、改心させられた。

人形を修復した東野進(日本からくり研究会理事長)さんは、人形が文字を書き終
わった後「小物も本物で作られている。筆、硯、脇差、筆刺、印籠などは、本物と同じ
作りになっていて手抜きがない」と、小物をからくり人形の舞台上に並べながら、ひと
つ、ひとつ説明してくれる。

東洋のエジソンと異名のある久重が制作した「茶杓娘」も同時公開されている。
一般に言われている茶運び人形に比して作りが複雑とのことです。また「弓曳(ひ)
き童子」のオリジナルは国内に2体現存しているが、レプリカを制作した研究会の
人形師が「射的実演」をしている。3回の射的で4本の矢が全部的に当たる確率は
マチマチでした。

矢を4本射るが、1本だけ射的に失敗するようにしてあるのがオリジナルらしく、20代
の頃、からくり興行師として大阪・京都・江戸などを行脚した久重の面目躍如と思う。
興行で行く先々の人々を驚かせ、楽しませることをモットーとして「からくり人形」を考案・
制作した久重が残した言葉があります。

『知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗が
あり、その後に、成就がある』

射的実演をした人形師は、4本の矢を的に当てるように「機巧(からくり)」を創る苦労話
をしてくれましたが、久重の信念に励まされているのかも知れません。

これ見ずして江戸は語れない、特別展『江戸城』を観るのが本来の目的でしたが、本邦
初公開の展示と実演のある「からくり展」があり、終日、大いに楽しみました。
65歳以上のシニアは、観覧料が半額だったのは、もっけの幸いでした。

※特別展『江戸城』及び『夢大からくり展2007』は江戸東京博物館ホームページで
公開しています。


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お札に登場した、日本最初の女性像

2007-01-03 11:22:14 | Weblog
稲毛浅間(せんげん)神社に伝承する十二座神楽が、毎年元旦に奉納されます。
十二ある神楽の「三韓征伐の舞」では、「神功皇后(じんぐうこうごう)安産子育ての舞」が演じられます。日本紙幣に肖像する最初の女性が、この舞に登場する神功皇后です(詳細は前に紹介)。

日本神話に登場する皇后を具象化した彫刻師は、福よかな笑顔で微笑む像のなかに、
皇后が持っていた、魅力溢れる為政者としての指導力を表象しているのだろう。
そこには、皇后が産んだ赤ん坊を抱き、子育を祈願して「神功皇后安産子育ての舞」を
演ずる翁(おきな)が、わが子の将来を思い描く気持ちに通じるものがある。

大和撫子を彷彿とさせる皇后も、大日本帝国政府(現在の憲法が施行される前の政府
名)が発行した改造紙幣では、エリザベス女王に似た肖像に変わっている(同)。

奈良市薬師寺にある皇后像が「日本の神様読み解き事典」にあったので、転載します
(写真)。

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稲毛浅間神社の十二座神楽

2007-01-02 20:52:36 | Weblog
富士山を象(かたど)って土盛した小高い丘の上で、富士山を正面にして鎮座している神社が、稲毛浅間神社。

頂上へ登る参道も富士登山道に模して配置されている。

昭和37(1962)年に千葉県から無形文化財の指定を受けた十二座神楽(じゅうに
ざ・かぐら)が、例年通り元旦に奉納された。

巫女(みこ)の舞、天岩戸(あまのいわと)開きの舞、猿田彦命(さるたひこのみこと)
の舞、五穀豊穣(ごこくほうじょう)祈願の舞、三韓征伐の舞、を観る。これが1時間
30分近く休憩なしで演じられた前半だった。後半は、15分間の休憩を挟んで舞われ
たが、待ち人があるため、後ろ髪を引かれる思いで帰宅した。

翁(おきな)が抱いている赤ん坊(写真)は、「神功(じんぐう)皇后安産子育ての舞」
に登場する。翁の舞うその揺れが、ハンモックで揺られているように感じて心地よか
ったのだろう。赤ん坊は退場するまで泣きもせず、すやすやと寝ているようだった。

神功皇后は新羅の国へ出兵(200年)して、永久に服従を誓った新羅王に対し朝貢
を命じている。その時に、皇后は御杖を新羅王の門に突き立てて凱旋する。この遠
征の途中、お腹に宿していた御子が生まれそうになった。皇后は、産気を鎮めるた
めに、石を衣裳の腰に当てる応急処置を施した。九州に上陸して、筑紫の宇美(う
み:福岡県糟屋郡)で出産する。この赤ん坊が、品蛇和気命(ほむだ・わけのみこ
と)で、第十五代応神(おうじん)天皇と云われている。

鉄の意志を持った大和撫子が記紀神話(きき・しんわ)の女神・神功皇后であった。
イギリスのサッチャー首相を偲ばせる、夢膨らむ逸話で楽しくなる。

千葉県内に十二座神楽を伝承している神社がある。稲毛浅間神社の十二座神楽の
演目と、検見川神社、大宮神社(山武市)のそれを比べてみた。

「神功皇后安産子育ての舞」は、三韓征伐のなかで演じられる。実際に確認しないと
はっきりしたことは書けないが、公表されている他神社の十二座神楽演目紹介から
判断すると、この舞に相当するものは見当たらない。稲毛浅間神社の神楽は、永正
(えいしょう)元(1504)年に九州から移住した神職などが村人に伝授したとの由来が
あるので、その影響だろう。

翁の面の表情が、仕草のたびに変化する。
安産を祈願する舞が終わると、翁が赤子を抱いて子育て祈願を演じる。そこには、わ
が子がすくすくと成長するように祈る、親の表情があった。翁が、子育て祈願を無事に
済ませたことを皇后に告げると、赤子は退場する。親にもたらすであろう子育ての喜怒
哀楽を演ずる剣舞に移ってからは、わが子の行く先に横たわっている山や谷に勇敢に
立ち向い、生き抜いて立派に成育することを祈願する父親の表情が窺えた。剣舞を終
えた翁の表情は穏やかなものであった。

<こぼれ話>
日本銀行が明治15(1882)年に開業するまでの時期に、明治政府は改造紙幣と呼ば
れる政府紙幣を発行した。明治14(1881)年2月に発行した壱圓札に神功皇后の肖像
が用いられており、日本紙幣の肖像に登場した最初の女性となっている。
神功皇后は実在しなかったとする説、卑弥呼(ひみこ)に擬する説などがある。
しかし、明治維新を成し遂げた革新者たちは、将来あるべき日本女性像の象徴として、
意志の強い皇后を紙幣の肖像に採用したのだろう。

紙幣に印刷された皇后の肖像は、エドアルド・キョッソーネ(イタリア人)が作成した原画
のために、西洋美人を思わせるものだった、と云われている。一日も早く、皇后を肖像に
した改造紙幣に出会いたくさせる、「神功皇后安産子育ての舞」だった。




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「柴安」鬼瓦と山本亭・旧東棟の「造家」

2006-11-12 09:39:42 | Weblog
南葛飾 鈴木安五郎製造 □又邸 の刻印がある鬼瓦。(写真共かつしかの文化財から引用)
明治11年7月に郡区町村編成法が制定された時、葛飾郡が南北に二分
されたので、この鬼瓦はそれ以降に製造されている。この頃は「柴安」も三代目・百三の時代になっている。
彼は、二代目・安五郎の三男であるが家督を継ぎ、俳号を百尺(ひゃくせき)と称した
俳諧人で、安五郎(松什・じょうじゅう)、二代目・安五郎(完鴎)と続く俳諧の道を歩ん
でいる。

二代目・安五郎の次男が真之助。彼の次男に啓造がいる。鈴木家(山本亭旧東棟な
ど)を設計した人物と云われている。彼は、明治12年生まれだから、百三の住む家を
設計し百三の子供(啓造の従兄弟)が家を建てたと考える。

家を設計する技術を、啓造は何処で覚えたのだろうか。
明治18年頃の小学校課程は、初等科、中等科各三年、高等科二年となっていたので、
この課程を彼は卒業している。大学へ行くなら上等中学校へ進み、理科を選択すると
「造家」、今の「建築学」を修得できる。大工の棟梁に弟子入りして家造技術を身につけ
る道もあるが、どちらを選択したのかは、資料不足で判断できない。

工部省に工学寮が明治4年に設置されて、6年後に工部大学校(東京大学工学部の
前身)に改称している。修業年限は6年。8科構成で造家(建築)科がある。ここの卒
業生を中心にして、明治19年に「造家学会」(今の建築学会)が設立されている。
明治20年に14歳になった啓造は、工部大学校や造家学会のことを知っていただろう。

啓造の育った家族環境から俳諧人が傑出し、東京府との行き来や人付き合いも多く、
世相の動きに敏感であった。大工の棟梁に任されていた家の設計と施工を分離して
「造家」が設計した図面で大工が施工するように激変する動きは、生活に密着した
我が家に係わることであるから、世間の関心も高くなる。

金町、柴又は、東京府に限らず、近郊からの人が往来する恵まれた環境にある。
江戸時代の長唄で唄われ、歌舞伎で演じられた『半田稲荷』が東金町にある。半田
稲荷を演じた歌舞伎役者が浮世絵になるくらい知名度があった。柴又は、帝釈天の
庚申詣で賑わっている。

どちらも、江戸川を刀弥川、柴又村を芝股村と表記している「江戸近郊道しるべ」に載
っている観光名所だから、街道筋もしっかり整っていた。金町や柴又には口コミ情報が
密集していただろう。関東一の生産量と云われる「柴安」瓦を製造する工場も人の動き
を活発にして、情報を吸引し交換の場にもなる。

鈴木家は、時代の旬情報や動きを、俳諧人との交流や瓦工場へ出入りする人たちか
ら得ていたとしても不思議ではない。
ちなみに、半田稲荷の近くに鈴木家の菩提寺・光増寺があり、松什が静かに眠って
いる。

啓造は、熱海で病気療養中に26歳で他界している。
この仮説は、工部大学校造家科で建築を習得したとしているので、23歳で卒業となる。
学生時代に百三の家を設計したのか、病気静養中なのか。どちらも可能だろうが、時期
は跨っているのではないだろうか。
百三の家を新築する構想を学生時代にまとめ、病気静養しながら細部を詰めて設計を
完成させた。建築設計を進める段階から判断すると妥当な線で、納得がいく。

建築の基礎を習得する予科と専門科を終え、実地科で家を建てるための建築図を引き、
卒業する。それまでに、家を新築することを話し合っていたか、江戸時代から住んでい
る当時の家は建替の時期に来ていた。だから、啓造は百三の家を新築する計画を設計
図にした。

鈴木宅のデザインの良さ、建築材料の品質の高さなどは、山本栄之助が鈴木宅の原型
を残したまま西棟を増築していることからも判る。鈴木家は関東大震災まで瓦製造をして
いたので、生活の場であったことは間違いない。

では、鈴木宅は何時ころ建てられたのだろう。
関東大震災は大正12年9月1日に起こっている。栄之助はその直後に鈴木宅を購入した。

啓造が他界したのは明治37年3月。敷地内に設けるものの全体配置、その中身の概要
を決めた基本設計、その内容が現実的かどうかを検証して基本設計を担保する実施設
計は学生時代、実施設計に従って大工が現場で間違いなく工事を進める指示をした施
工図は、病気静養中に完成させたとする、と着工は3年後あたりか。明治40年に着工・
完成だから、栄之助が購入した鈴木宅は16年経過している。震災で破損したり、経年
変化で傷んでいる箇所を改修・補修した後、浅草から移り住んできた。

震災にあった鈴木宅を改修・補修で済ませ解体しなかったのは、栄之助がそれだけの
価値を鈴木宅に認めたから。六櫻社のシャッター製造工場を新設するため、瓦製造をし
ていた鈴木家の広大な敷地を購入している。自宅を新築する資金より工場建設が先と
判断したのかも知れない。

いずれにしても、山本亭は素晴らしい和風建築だと思う。栄之助や弟・栄蔵によって造り
上げられた今の山本亭は、調和の取れた和洋折衷の代表とされている。
それは、「鬼瓦」の血筋を受け継いだ啓造の「造家」に対する思いと、そこに流れている
俳人・松什の粋を踏襲した栄之助や栄蔵の人柄と豊かな教養が染み込んでいる粋の
表れだろう。

※ 松什と「柴安」瓦の話は、前のページにあります。

























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山本亭と江戸川提の道しるべ

2006-11-05 16:38:17 | Weblog
矢切の渡しから階段を上がり、江戸川土手を左へ向かうと吾妻やが建っている。
寅さん記念館に直行する場合はエレベーターを利用する。山本亭を見学する時
は、山本亭を俯瞰しながら階段を下りると正面が長屋門になっているので、徒歩
で行ける。

休憩所になっている吾妻やは丘の上に建てられている。この辺りは瓦を作る工場の跡地を
堤防にしたところで、関東一と云われた「柴安」銘の瓦を関東大震災(大正2年)まで生産し
ていた。

「柴安」は千代田区飯田町遺跡、関宿町関宿城跡、土浦市土浦城、流山市旧秋本家などに
現存し、江戸城の瓦葺きにも使用され、明治元年には菊の御紋の鬼瓦を作ったと云われて
いる。

柴又の瓦には、「柴又村鈴木安五郎製造」や「柴安」の印が押され、世間では後者の名で通
用した。当時の消費者は、産地と製造者が明記されているブランドとして認知した。

鈴木家は代々農家であったが、農業のかたわらで瓦の製造を始めたようで、何時ごろ創め
たのかは不詳だが、寛政後期から文化初期(1800年前後)と推測されている(柴又郷土史研
究会)。
瓦を制作する仕事場、野外には粘土や薪の置き場、天日干しにする干場、瓦を焼く窯など瓦
製造に要する敷地面積はかなり広大なものになる。

江戸川土手から吾妻やに入る道の入り口に竹柵に囲まれた「道しるべ」(写真)がある。

「金町へ十五丁、松戸へ一里、下矢切渡しへ一丁半、市川渡場へ三十丁」と書かれ、天明
3年(1783)の銘がある。(葛飾柴又展解説書より引用)

享和(1801~1803年)の頃6歳位になる武家の男の子がすらすら読んだといわれている道し
るべが、天明3年の銘があるものではないかと推測している。
200年以上も風雪に耐えた道しるべも、建てられて20年を経ても文字ははっきりしていただ
ろう。
「市川渡場へ三十丁」は今でも判読できるが、6歳位ですらすら読めるようになるには、日
常生活で育まれる本人の意識とも関係が深いが、しっかりした家庭教育がなされていないと
難しいのではないだろうか。

「大昔(享和の頃か)、奥州に落ちのびる一人の武士が、6歳位の子供を伴って柴又の矢切
の渡しに差しかかり、渡し場の茶屋で、足まどいになる子をかこちついている時、茶屋の主
人が、この先の瓦やには子供がいないので、どうかと話し、その子供を連れて瓦やの見える
土手上に立ち、この家はどうかと聞いたところ、子供は『この家なら貰われてもよい』と、父親
へ立派な返事、そして傍にあった道しるべの石の文字をすらすらと読んだと云う。
瓦や(私の本家)の夫婦も大いに喜び、貰い受けたとのこと。ところがこの子供、顔色も変え
ず、父に対して立派に別れの言葉を述べて父を見送ったという。
この道しるべの石は、現在、帝釈天境内にある。この子供こそ後の鈴木松什であった。
かくして松什は俳諧の宗匠となり、各地に多くの門弟があったが、嘉永六年四月十八日、
自宅で病没した。享年五十六歳」

山本亭の設計者を探す旅で巡り合った鈴木こと。
俳諧を嗜む家系に生まれ育った俳人の歌文集『ちどり橋』(昭和49年出版)の随筆「松什
(しょうじゅう)のこと―祖父百尺から聞いた話」に山本亭のルーツがあった。

子供に恵まれない鈴木英珍の養子となった6歳くらいの男の子安五郎(松什)は家督を継
ぎ、生業である瓦作りを、関東一と呼ばれる事業にまで発展させた。
ちなみに、百尺は松什の孫にあたる。ことは百尺の孫にあたり、昭和54年9月23日82歳
で没している。松什の人となりは孫から孫へと語り継がれている。

現在の山本亭の基となった東棟と土蔵などを設計したのは、松什の孫真之介の次男啓造。
家系図の説明には「建築家。後に山本邸を設計す」とあるので信頼すべき情報である。
(鈴木松什展解説書)
山本亭は、関東大震災直後に鈴木邸を取得した山本栄之助の名を採っているが、それまで
「柴安」を製造していた鈴木邸(山本亭旧東棟)の設計思想を受け継いでいる。これは、鈴木
邸を取得してから山本亭西棟を増築しているが、東棟(鈴木邸)を解体せずに原型を生かし
た二世帯住宅に増改築している点からも分る。

山本栄之助については、今の山本亭が完成するまでの経緯を通じてイメージを膨らませて
いるが、粋な経営者である。

松什は「柴安」ブランドを確立しているが、余技の俳句で、江戸の俳諧人として名をなした
粋人。
栄之助は純日本家屋に流行の最先端を走るデザインの応接間を増設する、ハイカラを理解
し生活に取り入れるほど進取の気取り旺盛な人物で、時代の先を読める粋な経営者だった。

安五郎の父は、無事に奥州に落ちのびたのだろうか。江戸川を渡るには金町の関所を通ら
なければならない。矢切の渡しは農産物の運搬や、農民が仕事の往来に使うもので、落
武者風情では乗せてもらえない。
安五郎を不憫に思った父は、鈴木英珍夫妻に一人息子を託して関所へ向かったのか、矢切
の渡しから松戸へ向かったのだろうか。父一人子一人の親子の心情は、言葉に表せない。
子宝に巡り合った英珍夫婦の喜びと感謝の念、瓦やを勧めた茶屋の主人、柴又村の人達が
善後策を話し合い、知恵を出し合い、一丸となって落武者の望みを叶えたと思う。

※ 山本亭の旧東棟を設計した鈴木啓造の話は次にあります。




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千葉YOSAKOI前夜祭

2006-10-29 15:03:33 | Weblog
ジュニア大会が終わり13チームが参加した前夜祭。ジュニア大会に
参加した3チームも大人チームに負けずにがんばった。
千葉市中央地区商店街の活性化に寄与するイベントとして、地元に定
着するといいなと願いながら写真を撮っていると、フィナーレを告げられた。

招待チームとして舞台に立ったパスキー&北海道医療大学のよさこいは、広い舞台
を狭くして、キビキビとまとまりのある群舞を展開していた。さすが、本場の迫力を披
露してくれた。

YOSAKOIソーラン大賞1回、準大賞2回受賞の実力を秘めていた。
「星屑たちの願い」をテーマにした群舞で「一緒に感動、一緒に元気」を合言葉に活動
している。千葉YOSAKOIへの参加は、今年で3回目になると、チーム・リーダーは舞
台挨拶していた。
他に学生チームは、東京理科大があり、若さ溢れるよさこいで、青春を爆発させた。
千葉市に在校する学生チームが参加していないのは寂しい気がする。

写真は、CHIよREN北天魁です。阿波踊りを連想させる衣装がよかった。


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山本亭主庭の菊

2006-10-26 18:08:07 | Weblog
山本亭の主庭は日本庭園ランキングで2年前にベスト3に選ばれた、しっとりした書院庭園です。

日本全国631カ所の庭園を調査した米国の庭園専門誌が選定したもので、庭そのものの質、建物との調和、利用者への対応などから総合的に判断して順位をつけています。
ちなみに、足立美術館(島根)、桂離宮(京都)、山本亭・旧山本栄之助邸(東京)の順
になっています。

このベスト10の中に、日本の三名園は選ばれていません。また、Wikipediaに紹介され
ている日本の名園16カ所では、桂離宮と足立美術館だけです。山本亭の主庭は、やの
字も見当たりません。
それだけに、短冊のことが気にかかり10月19日、山本亭を訪れると、主庭に菊の鉢が並
んでいました。

月毎に花鳥を題材にした12枚の短冊のことは、前に紹介しました。
それにちなんで、10月の題材、山本亭にある短冊の基になった乾山の歌絵皿の花と鳥の
話です。

10月の題材は、短冊は菊とキクイタダキ、菊と鶴を詠った藤原定家(さだいえ)の句が歌
絵皿の意匠になっています。

残菊
 十月(かみなづき) しもよの菊のにほはずは 秋のかたみに なにをおかまし

(10月の霜夜、残菊がもし匂わなかったらば、秋の形見として何を残しておこうか)

 鶴 
 夕(ゆふ)日かげ むれたるたづは射(さ)しながら しぐれの雲ぞ 山めぐりする
 
(群鶴には夕日が射しているけれど、時雨を降らせる雲が山をめぐっている)
  
※ 句と訳注は「藤原定家全歌集・上」(訳注久保田淳:河出書房新社)によります。

歌絵皿のように短冊の題材を詠った句が何処かにある、との思いが募ってきます。
菊のような黄色い部分が頭頂部にあるところからキクイタダキ(菊戴)と呼ばれる、日本で
一番小さくて、雀に似た鳥を題材にした短冊の制作者と句の詠み人。どんな人物なのだ
ろうか。

山本亭は、俳人鈴木松什(しょうじゅう)の家系の人たちが関東大震災前まで所有していた
ので、鈴木家の血筋に当る俳人が詠んでいると、夢があっていいな、楽しくなる。

菊みれば 鐘がなるなり 帝釈天

主庭に包まれている菊から秋の形見をもらい、秋深しの情緒が心に染み込む、山本亭再
訪問でした。




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山本亭の花鳥短冊と乾山

2006-10-22 11:23:54 | Weblog
柴又帝釈天の境内を横切り江戸川提の方へ4~5分歩くと、山本亭がある。
帝釈天の御前さまの娘、冬子から、「何処かで憂さ晴らしをしたい」と寅さんが
誘われるシーンを撮影したのが、山本亭の主庭に面した廊下。
雪の間(8畳)から書院庭園の主庭を眺め、抹茶を手に歓談していると、柴又散
策の疲れも癒えてくる。
また、控の間襖の掛軸は、抹茶の趣を深め、心が安らきます。

雪の間の欄間に綺麗な短冊12枚を収めた額が飾られている。
山本亭の受付嬢に尋ねると「花鳥十二ヶ月」と書かれた説明書をくれる。
あいにく、その日は、接客に追われており、詳しいことは聞けなかった。

説明書の、尾形乾山(おがた・けんざん)を手がかりにネット・サーフインすると、
『色絵十二ケ月歌絵皿』を所有している美術館のホームページに引っかかった。

乾山は、江戸中期の絵師で陶工、江戸時代を代表する尾形光琳(おがた・こうりん)の
弟で、『色絵十二ケ月歌絵皿』は、京都府左京区鳴滝泉谷に開窯して3年後、元禄1
(1702)年に創られ、乾山39歳の作品に当っている。

「花鳥十二ヶ月圖」の銘版から、額のテーマ、昭和45年に宇融子美矩が制作している
ことが分かる。月圖の説明書には、乾山の歌皿絵と月圖の絵柄が月ごとに対比し説明
されているので、宇融子美矩が12枚の短冊を制作した意図を理解した。
ちなみに、写真は右から10、11、12月の短冊で、作者を示す小さい銘版がある。
         
「花鳥十二ヶ月圖」の短冊で表現している花鳥は、
 
 10月:菊にきくいただき  (残菊に鶴)
 11月:山茶花にひがら   (枇杷に千鳥)
 12月:寒菊にみそさざい  (早梅に水鳥)
 
で、(  )は乾山が歌皿絵の題材にした花鳥です。
         
乾山の鳴滝窒(なるたきかま)皿の裏には、花と鳥の歌を各々一首宛て詠まれている、
と解説されているが、歌探しの旅は、まだ、まだ先になる。
山本亭の額を制作した作者に関する情報は、ゼロだし、寅さんの事で頭が一杯だ。



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