かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

信長の非情、一乗谷朝倉遺跡

2010-11-12 | 
歴史好きな友人の企画で朝倉遺跡を訪ねました。元来は「山歩きの会」ですが近ごろこうした平地歩きの企画も多くなりました。
 天正元年(1573)朝倉氏は柴田勝家を総大将とする織田軍に敗れました。この戦の前に織田軍は浅井・朝倉の連合軍に敗れ、浅井家に嫁いでいた信長の妹のお市の方と娘3人の悲劇は有名です。
 朝倉氏は、先祖が現在の兵庫県あたりの名門豪族で、応仁の乱の折に越前に進出、北国街道と美濃街道の交差するこの要衝に地に城と立派な城下町を築き、武勇財力ともに北陸では屈指の大名家として怖れられていました。しかし、捲土重来、万全の準備のもとに襲いかかった織田勢には万策尽き、出陣時に3万を誇った軍勢も、城に逃げ帰ったのはわずか数百人だったと言います。

                 

 その数年前、織田軍は比叡山の焼き討ちを断行しています。敗北を宣言し兵を引いた比叡山側になおも追い打ちをかけ、僧兵と何の関係もない修業僧を殺し寺社に火を放ったのです。この所業を知っていた朝倉城下町の人々は、「朝倉敗れる」の知らせを聞くや全員が僅かな家財を抱えて逃げ出したと言います。 噂に違わず、数日後に城下町にたどり着いた織田軍は、無人の城下町に火を放ち、一乗谷は3日3晩火の海だったそうです。そして約450年、つい50年ほど前までは山間(やまあい)の静かな山村でした。

                 

 この地が京都の金閣寺や銀閣寺とならぶ国の重要文化遺跡に指定されるに至ったキッカケは、何と昭和40年ごろから行われた「耕地整理」でした。田畑を整地して農業の機械化を実現するための工事です。工事中の田畑から見事な石組や礎石が出土、さらに武家屋敷からは当時の生活を知る上で欠かせない生活用具までも大量に発見されたのです。皮肉なことに、これらの用具は大量の灰に包まれていたために、その後土砂に埋まっても極めて保存状態が良かったと言うのです。写真の上2枚は、焼き討ち前の城下町を復元した模型、下の2枚は、左が発掘中のもの、右が発掘された石垣の上に復元された家屋です。