かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

高野山へ行って来ました。

2011-08-30 | 気ままなる日々の記録

 (9月8日、このページのすべての写真をリニューアルしました) 

8月24日から25日(一泊二日)、「山歩きの会」のメンバーと真言宗の総本山「金剛峯寺」のある高野山へ行って来ました。かつて、2~3回高野山参詣の機会があったと思いますが、何故かいずれも都合が悪く、私は今回が初めての参詣でした。

 率直に言って、その歴史の重さや規模の大きさに、心底驚きました。比叡山(天台宗)や永平寺(曹洞宗)、あるいは身延山(日蓮宗)には参詣したことがあり、多分同じような佇まいの街だろうと想像していましたが、全然違いました。海抜1,000mの山間の地、東西6㌔南北3㌔の盆地。開山が今から1,200年前で江戸時代には大小2,000に余る寺坊が廂を並べていたといいます。

 私たちは雨の中を随分歩きまわりましたが、それでも訪ねた個所は1%にも満たない気がします。それで、ほんの一部の拙い報告になってしまいますがお許しください。

 

 最初に訪れたのが「奥の院」と呼ばれている一帯で、入り口の「一の橋」から弘法大師の御廟までの約2㌔。
樹齢数百年という杉の巨木が並ぶ参道の両脇に、歴史に名を残した人々の石碑が累々と祀られています。

 

 

 

 

 

 今話題の「お江」の墓石のありました。奉納したのは第三代将軍家光ですからひときわ大きな墓石でした。大きな墓石といえば、徳川家を始め、加賀の前田家、薩摩の島津家などだったでしょうか。織田信長や豊臣秀吉などの墓石がそれほど大きくないのも“無情の響き”なのかもしれません。「江戸焼死者追悼碑」や「ビルマ方面戦没者英霊納骨堂」の前に立つと、自然に手を合わせ深々と頭を下げている自分に出会いました。
  苔むす幾多の墓石群の間をさまよっていると何時しか冥界へ迷い込んだ思いに駆られ、人々が時代を超えて「あの世」に寄せる思いの大きさに胸を打たれます。今も禅定中と信じられている弘法大師空海のお膝元は、やはりこの世における冥界なのかもしれない。

 

 続いて訪ねたのが真言宗総本山の「金剛峯寺」でした。上の写真は玄関に飾られていた高野杉の切り株で、この付近で採れたものでしょうか。この御坊でも驚かされたものは幾つもあったが、中でも一度に2,000人の食事を炊飯できるという二つの大釜には目を見張った。合理的に設計された煙抜きから、竈口(かまどぐち)へ降りる階段など、見事な出来栄えであった。この窯はまた、ここで行われた各種の法会の盛大さを物語っています。

 

 上に写真は、この総本山の中庭です。石庭というと京都の竜安寺が有名ですが、ここ金剛峯寺の石庭も見事というほかありません。豊臣秀吉の甥で一時関白にまでなった秀次であったが、秀吉が年とともに実子秀頼を溺愛するに及んで、ついに「切腹」を命ぜられ、それを「執り行った部屋」という部屋もここで見学することができました。秀次は腹を切る直前にこの庭を見た、と思うと非情さが募ります。うそか本当か、秀次の妻妾39人も加茂川で惨殺されたとか。そんなことを偲ばせる石庭でした。

 「女人高野」という言葉を御存じでしょうか。高野山は長い間、女人禁制の寺でした。しかし、霊験あらたかにして現生利益の高野山には多くの女性が参詣に訪れました。その女性たちの参詣が許された高野山のお寺が「慈尊院」という寺で、このお寺のまたの名が「女人高野」でした。

 

 「慈尊院」建立のいきさつを、同寺で頒布されている「弘法大師尽孝報恩の霊場 御母公廟 女人高野 別格本山 世界遺産『慈尊院』」から引用しておきます。
「……大師の慈母玉依姫は『わが子が開いている山を一目見たい』との一念を抱き八十路を二つも越えるご高齢にもかかわらず讃岐の国より大師を慕いて来られたのでした。大師は自ら母公の手をとって一歩一語尽きぬ物語りのうちに、山麓の慈尊院へとお導きになり……」とあります。建立は弘仁七年(816年)となっています。

 

弘法大師は、遣唐使として唐に学び、帰国後天皇の信任を得て高僧の地位を獲得、ついに高野山に一大聖地を建設、それを聞いた母親が、空海に会いにこの地のやってきたのです。しかし、いくら空海の母親といえども女人禁制の地に足を踏み入れる訳にはいきません。空海は麓に留まった母を労うために毎月9回、20キロの山道を下って母に会い、母の健康に気を使ったといいます。やがてその地にお寺が建てられ、そのお寺こそが「女人高野」になったといいます。そしてこのお寺のある地域を「九度山(くどやま)」というのだそうです。

 

 現在も女性の参詣者が多く、霊験あらたか、多くの女性の願い事が叶えられるとかで、とくにお産後のお母さんが「たくさん母乳がでますように」という願いを込めて写真のような大きな乳房をお供えする風習が連綿と続いているとのことで、母の愛に目頭が熱くなる思いでした。

 何時の日か、ゆっくりと時間をかけて、宿坊に泊まり、多くのことを学び、感じながら高野山を歩き回りたいと思いました。蛇足ですが、私たちがお世話になった宿坊が「光明院」、このお寺は徳島の蜂須賀候ゆかりの寺とか。そして我が家の檀那寺が光明院で、光明院が属する「曼陀羅寺」が蜂須賀候が幼少期に学んだ寺とか。でも高野山は真言宗で曼陀羅寺は浄土宗。私は宿坊の住職さんにそのことを話しましたが、「何も聞いていません」とのことでした。 

 


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