かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

トマトとプラム(大石早生)とオ-ロラ

2014-10-15 | 気ままなる日々の記録

 

 

トマトとプラム(大石早生) 

ここ数日フォトチャンネルアップに夢中になっています。この「トマトとプラム」も古い写真のホルダーを開いて無理やり作成したものです。

 オソマツ君の目にはどれも元気だった時の思い出で胸が締め付けられる思いがします・トマトは自慢の野菜で、苗の植え方にコツがあります、プラムも試行錯誤の後ふくろみ病撲滅に成功した矢先の発病でした。柿は5月、6月、7月の月末の早朝にパダンという薬品で消毒しました。それがしてない今年はほとんど落ちてしまっているといいます。フォトチャンネルの作成に成功して改めて写真を見ていると、朝どりトマトの美味しさを思い出します。凡人は日常の幸せを、失ってやっと平凡の大切さに気が付くとか、オソマツ君も凡人の見本でオソマツそのものです。半身不随ながら、皆さんに助けられフォトチャンネル作りに夢中になっている今の幸せに感謝しなければなりません。

次の茜色の空の写真を見ていて以前オ-ロラを見に行った時のことを思い出しましたので、少し書きます。場所はカナダのロっキ-山脈の中程の町イエロ-ナイフ。セントレアからバンク-バ―へ飛んで、国内線に乗り換えてイエロ-ナイフへ。そこのホテルに滞在して毎晩ロっキ-山脈の中に造られたオ-ロラ鑑賞用のロッジへ向かうという日程でした。山の中にオ-ロラ鑑賞用のロッジが作られたのは、全ての視界からネオンなどの都会の光を消し去ろうとしたからです。ロッジ周辺には暖房つきの安楽椅子や木製の椅子があり予約制でレンタルできました。当初3人で出かける予定でしたが、出発間際に一人の奥様が病気入院されたので参加できず二人の旅になりました。3日間滞在して雨や曇りでオ―ロラが見えない確率が20パ-セント以下と旅行社の案内に書いてありました。私たちの場合最初の2日はダメで最後の日にド-ンと満天のオ-ロラに恵まれました。七色に染まった絹のカ―テンがはるか彼方から龍のようにくねくね泳ぎながらこちらに迫ってきます、そして空全体が七色に染まって揺れます。その時は感動のあまり声も出ません。天空から交響曲が聞こえてくるような気さえしますそのうちに自分の存在があまりにも小さく天に吸い取られてなくなってしまう、それでも構わないという何とも言えない気持ちになります。確かに余りにも巨大な自然の営みの前で一人の人間の存在など些細なことです。

少し寒くなってロッジに入るとそこにはコーヒーや味噌おでんが(日本人用)用意されていました。

一緒に行った友人は名古屋では有名な俳人でロッジに入るとすぐに手帳を取り出して猛烈にペンを動かしています。聞けば俳句はスナップ写真だそうで、感動すると、次々と俳句が飛び出してくるのだそうです。それを忘れないうちにメモしておき、推敲は帰宅してからとし、雑誌に投稿して賞を狙うといっていました。なお、蛇足ですがオ-ロラの写真はありません。というのも、-40°の世界ではカメラに内蔵されているバッテリーが壊れてカメラをダメにするので耐寒用のカメラが必要でした。そんな特殊なカメラを買う気もなくカメラを持たずに出かけていました。

-40°について少し書きます。ホテルでトナカイの毛皮で作った繋ぎのジャンパーを貸してくれます。これが快適になります。これで街中へ出ても寒くありません。ホテルは繁華街にあって、乳母車に赤ちゃんを乗せてお母さんが歩いていたりしました。-人間の目も顔もよくできていて凍傷をおこすことはありません。お風呂から出たタオルは5分で氷柱になります。湖面がいつの間にか道路になってトラックが走っていたりします。最短距離を走るには湖面の上がいいのだそうです。

バンク-バ―は住みやすさの世界ランキングで5位には入るでしょう。それは冬暖かく夏涼しく都市計画がよく街中に公園が多く道は広くて車の渋滞などがないからです。オソマツ君たちが出かけたのは、イエロ-ナイフの晴天が多いという理由で1月でしたが、少しも寒くありませんでした。理由はバンク-バ―沖を流れる海流によります。冬は赤道直下で温められた暖流が流れ込み、夏は北極海の氷が解けだし寒流がながれるからです。

オソマツ君の友人で一人っ子の娘さんがアメリカ人と結婚してロ サンゼルスに住み、アメリカの一流企業に職を得てバリバリ仕事をしているという男がいました。その男があるとき「俺は娘の提案で老後はバンク-バ―に家を借りて住むことになりそうだ」、といいました。娘さんの考えでは、ロスとバンク-バ―は交通の便が良く(飛行機)ちょくちょく親の家に顔をだし最高の医療機関を紹介したり、よく間に合うお手伝いさんを手配したりしたいということだった。それを聞いたオソマツ君は、「家を借りるならゲスト用の寝室がある家にしてくれ。俺が家内とちょくちょく訪ねて逗留するから」、と云いました。彼は「いいよ、そうしよう。君が逗留中は毎晩宴会だね、いいねえ北米サンフランシスコ近郊のナパ・バレーあたりは結構ワイナリーが多いんだ。国道101を飛ばして行って現地調査をしてさ、秘蔵銘柄を探すか、いいねェ。楽しい老後になりそうだ」と云って呉れていた。
 その彼は昨年バンク-バ―に行くことなく名古屋で亡くなった。死因は膀胱がんの転移と急激な悪化だった。そして逗留する予定だったオソマツ君は半身不随になって、今ではとても海外に出られる体ではない。世の中は、かように無常であり且つ又無情である。 


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