百醜千拙草

何とかやっています

右と左

2022-08-05 | Weblog
参院選の前、スタンドアップ コメディアンの清水宏さんが「れいわ」の応援演説の時に、今、国は、保守とリベラル、右と左に分断されているのではなく、上と下に分断されていて、多くの国民は右翼ならぬ下翼なのだ、という話をしていました。

まさに、その通りだなと思います。金持ちか金を持っていないか、搾取する側かされる側か、支配者側か、支配者に使われる側か、そうした上下の関係で分けられています。そして国民の大多数が下翼という一億総下流時代ですけど、少数の上翼、支配者層、金持ち層は、政治家と結託し、メディアをコントロールして、圧倒的多数である下翼同士での対立を作り出し、彼らの団結を阻む「分断統治」の戦略をとっています。下翼同士の中で、小金持ちと貧乏人へとさらに階層分けして対立させ、下には下があると思わせて上に対する不満を反らせているようです。下翼の下層に属する人々は救われません。彼ら自身が社会のこの構造によって、下層に釘付けにされていることを感じているでしょう。そんな現実に希望が持てない彼らが、惹かれるのが「日本スゴイ」妄想、その延長としての右翼的思想、であって、結果として恵まれない人々がネトウヨ化していくのではないかと想像します。こう想像するのは、今回の安倍殺害犯、山上容疑者の供述や手紙やツイートからです。

かつて大勢の日本人が「普通」と考えていた人生、大学生活を楽しみ、卒後は就職し、結婚して家庭を作り、ローンで家を建て、週末は飲み屋で上司の愚痴を言って憂さを晴らし、定年まで働いてから、退職金と年金で老後を過ごし、余った年金で孫におもちゃを買ってやる、というような生活、このうちの何一つも叶わぬまま、孤独に年を重ねてアパートの一室で孤独死に至るような人々が増えているようです。30年の政府の誤った経済政策のために、人々は前世紀の後半の頃には普通と考えられたような人生を送ることさえ難しいという国になってしまいました。そして、恵まれない人々の人生は、山上容疑者のように、自分では如何ともし難い出自や環境によって人生の早い段階で決まってしまい、そこから自力で挽回するのは極めて難しい状況にあります。

現在、山上容疑者に減刑の嘆願署名が数多く集まっているようですが、これは大勢の人が彼の境遇に同情し、彼の苦しみを共有してたことに加え、彼と全く真逆の立場にあった被害者に対する怒りの表れではないでしょうか。恵まれた環境に生まれたにも関わらず、その地位を利用して我欲と党利のために、数えきれぬ犯罪的行為を重ね、国家の根幹たる原則を破壊し、統治機構を腐敗させ、ここまで国力を衰退させた男と、その男が票のために協力していた反社会カルト宗教団体に人生を破壊されて下層に追いやられた加害者という関係です。法治国家ですから、どんな理由があっても無法な殺人は許されないことですが、その殺人に至った動機を理解するのは困難ではありません。

脱線しましたが、その恵まれない人々、下翼の中の下層にいる人々に対して、国は何もしません。そういう人々がいる方が国は都合が良いのでしょう。その救いのない生活の中で彼らがすがる希望の一つが、「日本スゴイ」妄想ではないかと思います。そんな人々が、やがて日本版中華思想や右翼思想に馴染み、ネットでヘイト発言することで憂さ晴らしをする「ネトウヨ」と呼ばれる人々へとなっていくのではないでしょうか。
勝手な想像で言わせてもらうと、ネトウヨという人々は、保守系政党の右翼寄りの人々、安倍のような人間が好きなのでしょう。事実、山上容疑者は、統一教会との繋がりを知るまで、自身をネトウヨと自称し、安倍政権を支持していたそうですから。

ところが、安倍は保守でもなければ、真の右翼ではありませんでした。極論すれば、国や国民のことなど何一つ考えていない、金と権力のためで右翼で保守のフリをしていただけの利己的な詐欺師に過ぎず、ネトウヨの皆さんやその他の政治に興味のない人々は、単にこの男や自民党に騙されて利用されていただけだったというのが、正しい解釈でしょう。事実、右翼団体、一水会は、今回の統一教会と自民党の癒着を厳しく批判しています。三島由紀夫は自決前、2.26事件の首謀者の霊がついていると言われたそうですけど、ひょっとしたら山上容疑者には三島の霊がついていたのかもしれません。

また脱線してしまいました。本当は、保守とリベラル、右翼と左翼、Pro-lifeとPro-choiceというような形で政治的、思想的スタンスを色分けすること自体が歪みの元なのではないか、という話をしたかったのです。

私は自分では「保守」的だと思っており、政治は保守的に進めるべきだと考えています。憲法も法律も、まず遵守してみて、都合の悪いことがあれば、必要に応じてボトムアップで変えていくべきだと思っております。その点で言えば、三島由紀夫や安倍は戦後憲法はアメリカが日本に押しつけたもので、変えなければならない、とラジカルに国の精神から変えていこうと主張していたようで、こうした右翼的思想は保守ではなく、むしろ「革新」と言えるのではないかと思います。

私は、リベラルかと言われたら、違うと思いますが、リベラルの人々が持つ価値観の多くは共有しているものが多いと思います。私は、夫婦別姓も同性婚も賛成です。それは憲法に基本的人権の尊重が謳ってあるからです。保守であり国根幹である憲法を守ることを第一の原則におくならば、夫婦別姓も同性婚も認められなければならない、と私は思います。夫婦別姓であるとか同性婚を認めないということは「違憲」であると考えています。

右翼の正確な定義を私は知りませんけど、日本という国が優れた特別な国であるとの信仰をもとに全体主義、国家主義を主張する人々が右翼だとすると、私は右翼ではありません。私は保守的ですから憲法にある基本的人権は、尊重されなければならず、それを国家が侵してはならないと思います。左翼というのもどう定義されるか知りませんが、一般に「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」と考えられているようですから、その点からすると、私は左寄りの保守でしょうか。

そもそも、このような分類に意味はないのでしょうけど、分断を煽ったりするには都合が良いのでしょう。一般に保守政党と言われていた自民党ですけど、私のこうした考察からすると、小泉以来の自民党は「保守」政党ではないし、三島同様に改憲を望む安倍自民党は、右翼でもない。三島の改憲はアメリカ植民地からの自立を願ったものでしたが、安倍自民のそれは単に彼らの権力の増大のためだけのみみっちいものでした。事実、安倍はアメリカ大統領には下僕のようにゴマを擦る対米自立どころか、植民地の番頭だったわけですし。

今の自民党は自党の利益のためには何でもする「カルト政党」という言うのがより正しいと思います。右翼的思想を利用するのも反社会集団と堂々と手を組むのも、政治を単なる金と権力を得る道具としているだけで、彼らは「政治家」ですらないと言えるでしょう。反社会的カルト集団は、統一教会も自民党も権力に近寄らせてはなりません。
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