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緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

あとりえ "ぽみえ"

∞美容室です・・・完全予約制でマンツーマンでの完全技術∞ しっかりお話を聞き、丁寧な美容技術を提供させていただきます∞ 10:00~15:00(当日予約・時間外OK)不定休・・・ ★カット★カラー★パーマ★セット★着付けets.   ★スピリチュアルな会話もセッションもオーケーです ★

「正解不正解」について考えてみた (^.^)

2024-01-06 | 真理
  今日は仕事始めで、私の母親の妹でいつも来てくれる叔母二人でした (^.^)
踊りの先生の姉とその妹、妹の方の叔母は毎月来てくれているので良く会っていろんな話をしています。
私の母より付き合いは深いし長いです。

この二人が来ると母方の祖父母の性格からの価値観がさく裂します!!
叔母の二人は76と78歳、普通より若いし元気。
私の母親の世界観とやっぱり似ているところもある。

この姉妹は家も同市で踊りの会でも一緒で日ごろの付き合いも深いので仲も良いですが、喧嘩まで行かないけど、その分言えない事や鬱憤も溜まってることも多い。お互いに自分が我慢してあげてるのよって感じ (^^;)

私のところに来たりすると、私がクッションになっているので、お互いがいつも言えない事を私を介して漏らす事も多々ある。
「ねぇ~」「おかしいね~」とか私に言いながら、直接言えないでいる事をふと出るんでしょうね。

クッション材ってホント大事だなと思うけど、
クッションになってる方は結構大変だったりする時も (^^;)
どっちもどっちだなと思う事が多いから (^.^)
第三者からすると、ある意味両方正解でもある。

たまたま昨日までにブログで話していた
「正解不正解」の話に繋がる話題が妹の叔母から出て来たのにはちょっと内心笑った (^^;)
リアルなシンクロっぽくって面白かった。
うちの母親もですが、その母親(祖母)もその妹の方の叔母も結構自分の「正解不正解」の範囲が厳しくて、
それが人に対しても厳しくて、自分の世界観を超えると自分の不正解になる事が多々ある。
たまたま今日も姉妹共通の知り合いの話題になり、その正解不正解について漏らしてた。
私達が聞くとそうでもない事でも、自分の不正解は認められないという。
私と姉側の叔母はどちらかというと祖父タイプ。
私の母親と妹側の叔母は祖母タイプ。
祖母と祖父の中でも常に正解と不正解で問題が起きていたような記憶の中に在る (^^;)
これは遺伝子レベルなのか、家系なのかって思ってしまうけど、
きっと世界観を広げる家系のミッションだ (^^;)

人との間の価値観や世界観は信頼関係や少しずつの対話と理解で歩み寄ることでしか縮められない。
その叔母の話を聴いてて余計に確信。
叔母はその友達の性格を自分で付き合う事で少しは良くしてあげたと言ってのける 
凄い世界観だけど、うちの母親もそんな感じ!!
それに上手い事ハマらない人だったり、
私は母親にとっていうと、はみ出しっ子 (^^;)

ただ自分以外のどれだけがはみ出しっ子か、いるかいないか。
多分一人一人にとってはみんな正解。
だけど歩み寄りや融合していく事で自分の世界観が広がるかなんでしょうね。

自分の中の正解不正解で、自分の中で葛藤するかしないか、
受け入れるか認めるか、排除するかしないか、
ただそれだけなんやろうな。
その必要な時にやっぱり考える事で自分が成長するだけ (^.^)
「正解不正解」について考えた新年の始まりだったなと !(^^)!
とにかく、正解不正解の枠を広げて行く!!
要らない概念は自分の中では手離していく事にする。
楽に生きる、楽しく生きる事はそこから始まる。
そう思った!!




コメント (2)
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哲学する課題。

2023-10-08 | 真理
  哲学するという話、続きます (^.^)
娘が結婚へのステージに向かう決心や覚悟をしたという事から自分の話を交えてしています。
結婚期のステージからいろいろ向き合う事が山積みに出てきて、何てことだとアップアップし始めた。
それはいつも記事にもしていますが、自身の家族の元に生まれそこで育ち、ほぼその家族の中の世界観で私の価値観は固まって信じていたという所に、全く別の、または反対のと言っても良いぐらいの全く知らない世界観がうんも言わせぬスピードでズケズケと侵入してきたのでした!!

あんぐりと口を開けたまま訳の分からぬまま、良いも悪いも正しいも間違いも分からぬまま、決めつけと断言の強い考えであれよあれよと押し通されていくという。

無知で未熟な私にとっては返す言葉もなく反論も出来ず、全て飲み込むしかなかった。小さなちょっとした事だけでもこれだけは自分の好きにしようと、ささやかに、どこかに疑問と違和感を残しながらです。

それを夫に言ったところで「ほっとけ」「言わしとけ!」というし、私の愚痴か悪口にしかとっていなかったんでしょう。
単なる嫁姑問題ぐらいにしかとっていなかったんでしょう。
今なら分かる、結婚というのは二人の生きて育ててきた価値観の歩み寄りだという事が。
全く違う環境とかで育った価値観というのは違って当たり前、それを融合しながら広い世界観へと人間的にも成長していくんだろう。

別に姑の事が嫌いだったわけでもない、決めつけられる事が嫌だったけど。
あんまり人の事を嫌いになったことは無い私。
「何でやろう、なんで?」という事が残るぐらい。
ただ汚いのと気色悪いのと怖いのが人でも意味なく苦手だったぐらい。
意味が見えてなかったから勝手な思い込み。

人見知りで嫌なもの怖いものに寄り付かなった人間だったけど。
まあ結婚相手と決めたからそうはいかないと乗り越えようとしていた (^^;)
ただ相手の家に物が多く雑然として落ち着かない不気味だったのが嫌だったぐらい。
そんな事指摘なんてできず、したら失礼で傷つくとしか思わなかった (^^;)
そんなところから人間性も質も何も読み取れなかった頃だったし。
今ならこんなところからも価値観の違いや相性が合う合わないも分かっただろうけど。

人が嫌いじゃなかったから向き合えたかも知れないし、
自分のところさえ綺麗にしておけば関係ないしと思って (^^;)
その頃の自分は無知だったから知らん自分が悪いと思っていたり、自分に自信が無かったから自分の方が間違っているんだと思い込んでた。

今思えば、よく結婚したなと……。
多分そんな世界観と向き合うんだと知っていたら止めてたかも知れない。
超怖がりだったから、知らない世界みたいな感じで (^.^)
全ては自分が選んだステージだったなと今では理解もしてる。

先にも言ったけど、家の中を見ていろんな事が観えてくるのは本質をみるようになってからで、かと言って、それは見かけだけかも知れないし、見かけの判断だけでは駄目だし、それでいろんなジャッジはしていけないし、レッテル貼っても駄目だし。
見せられてる自分の事も分析するし、見せられてる意味もキャッチするし、
何でも客観的分析と検証と確認は必須。
感覚人間なので言葉に出来ないぐらい色んなことを学んだように思う。

生きている目の前には哲学する課題はいくらでも転がっているわけで。
それは分析しようと思った事が好奇心で、興味で、そこから始まる。
事実と現実を客観的に分析するわけで、これは肉体レベル、現実レベル。
そして同時に客観性を養っていかないといけない、これは精神レベル。

いつもリスペクトしているおのころ心平氏のある時のブログの記事でしたが、この方も人生を哲学すると捉えておられる人でもある。
色んなワークや講演の中で、
「親の存在を哲学する」「子育てを哲学する」「男と女を哲学する」「コミュニケーションと言葉を哲学する」等というテーマを刻んで深堀していくようなことで進めて行こうとされてた。

そうだよね、と、また自分がやってきたことを肯定してもらったように思った。
結構自分の長い人生を年表にして俯瞰してみると、どんな人でも誰だって、その細かいところで哲学しているもんですよね。
私の場合も、姑の事を俯瞰したり、子育てをして自分の親の存在も哲学するようになった。
ホント事細かいテーマや課題って見えてくるもんです。

人間関係なしに生きていない私たち、自分と他人の輪郭の部分を知っていく上でも必要なそれぞれの関係。
日々その人間関係に影響され疲弊し、自由で良い、個性重視の世の中でどう関係性を築いていくかは死ぬまで考えていく事でもあると。
これは独身であっても、後に死別や離別で独身になったとしても一人家に籠っている訳ではない限り、身勝手にエゴだけで生きている人であってもです。

そんな人間関係の中に入り込んでしまうと観えるものも見えなくなり、
客観性も失い、自身の感情も見失ってしまうので、
自分の事は俯瞰し、人の事も引いて多角度から観れるようにするのが哲学する事だと。

もしこの世の人間関係の学びから卒業したとしても今度は地球のみでなく、宇宙意識の中の人間として、それは魂としてでしょうが、お役目はあると思います。
魂や意識、波動といった奥深く見えない世界観へ哲学するだと。
その見えない世界、人間の奥深くがどう関わっているかの輪郭を超えた哲学だと思います。



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何について哲学するか。

2023-10-07 | 真理
  「人生は哲学をする事」と私の中で結論づいた時、
テレビ番組スピリチュアル系の「オーラの泉」で、美輪明宏氏がその「哲学する」という言葉をこういう意味で使っていて、概念が一致した事にホント感動した事を今でも覚えてる (^.^)

ちょうど霊能者や先祖の怨念やカルマの次元を理解して卒業してステージアップしていた頃、世の中のエネルギーも変わり始めていたので、淘汰も始まりかけていた。

この2005年に放映が始まった「オーラの泉」で美輪明宏氏や江原啓之氏が霊界依存ではなく少し上の次元の話をし始めていた。
そこで一般にテレビで視聴している人が共に次元クリアできるだろうかと思ったけど、そうでもなくまたしも依存に終わり彼らのテレビでの役目は終わった。
個人ではそれぞれのお役目は続いているでしょうが、ネットワークで広げるのは宇宙の仕掛けですから (^.^)
そこでいったん精査と淘汰は終わって行きました。
その時に概念のステージアップした人も多くいるかもしれないが。
その後、スピリチュアル(霊性)という言葉に変わり、また次元の淘汰が始まって行った。
そのステージを各々どうクリアしていくかが人生の哲学する事でもある。
そこから次元のギャップや意識の格差、その表面に出てくるいろいろな格差が広がって行った事は世の中を観ていると理解できる。

如何に人生でいろんな課題を哲学しているか、答えを出せているか。
現世では目の前に向き合っている人生の謎を解けているか。
私としては、「人生は哲学する」と「人生は謎解き」という !(^^)!

その頃、私の中でも宗教という言葉の違和感や言葉と本質のギャップの違和感に触れ「哲学する」が始まって行ったんですが。
世の中の流れを冷静に見る事をしていて、「オーラの泉」で話されていた内容も奥深く理解するようになっていき、
神様を超えた宇宙根源神や宇宙意識へ概念がシフトして確信へ向かって行ってた。

がんじがらめに縛られてきた「宗教」「信仰」「心」についてなども結婚期のステージで同時スタートとなり、
そういえば、ホント哲学してきたなと思えると。
言葉だけの「宗教」に壁を作らなくて良かったと思うし、
私の中では宗教も哲学なんだと思えたころから人生凄く楽になり変わって行ったなと !(^^)!
それこそその時が覚醒だったなと (^.^)
そこからまだまだ次元のステージはアップしていくので、「魂」や「意識」、「波動」へと進んで、また広げていくステージへと哲学して行ってますが (^.^)
それは命の限り無限です。
気づくにも気づきにくい目に見えない意識の無限の世界。

そんな「哲学する」に関して、朝ドラで先日最終回を迎えてたモデルになっていた人物で、植物学者で理学博士の牧野富太郎氏みたいな昔の偉人や偉業をなした人もある事に向き合い、それを哲学していたと言える。
最初は興味を引く事で好きで心が動き、始まるかもしれないけど、それを探求し、追及し、研究し、哲学している。
そしてその行動が人生のシーンに伴いそれを通じて共に精神性の部分で向き合う壁や限界と出遭い、精神的にも哲学し広がり深まり、世に残る偉業にまで至ったんだろう。

でも、偉人が凄いわけでも、
私が覚醒したからと言って偉そうにしたい訳でもなく、
人生哲学というのはこの世に生まれて来た人は何かしら向き合っています。
それを本当は哲学している。
答えを出しているか出していないかだけかも知れない。
人生哲学は普通の事。
人と比べるから自分の哲学に出会えないだけ。
ただ好奇心から始まる事。
興味のある事。好きな事。誰にでもある事。
それにどう向き合っているか。
素直に真剣に誠意をもって向き合っているか。

たとえそれが今抱えている病気でも痛みでも、それに哲学するように与えられているものです。
私はある時「奇人変人」について哲学しようと閃いた事がありました (-_-)
そんな「奇人変人」になりたくて (^^;)
自分がそうなりたいと思う本質を探したくてですが (^_-)-☆
真剣でしたよ (*^^)v
その師匠は岡本太郎氏でしたが (^^;)
そんなもんです (^_-)-☆


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自分が神様だと信じる事から始まる。

2023-09-11 | 真理
  昔からの概念や価値観を書き換えていくとか更新していくという話をよくします。
そして、神様や仏様の存在に関してもという話を昨日はしていました。
どこかに居る存在だとか、別の世界だとかという概念ではない、そもそもはその源からみんな分魂されている、自身も神の存在だという事。

神様と自分だと思い込んでいる自身が別の存在だという概念になってから道は歪んだり絡んでいったという事です。
ただ分魂された魂の体験が違う様々だったという事と、魂の体験をしていくという事。

魂の体験を積み重ねていく間に肉体の心がさまざまに育って行っただけ。
時代背景や政治で概念や価値観が複雑に変に増えて広がった。
広がる中でエゴイストも増えて行き、支配や征服といった世界で個と個の分離分裂が激しくなり力関係の世界へと変化していった。
力の弱い個が薄れて行きましたね。

そうして個が薄れていくと消えてしまいそうに孤独も知り、
そうしているうちに世の中の概念や価値観が当たり前に思えてきて、
それが常識だと認識するようになると、
自分がその常識から取り残されないようにしなければと囚われていくんです。

ある時ふと我に返れば、自分の事を何も知らない自分がいたりする。
そして世の中の常識や価値観の呪縛から逃れられなくなっている……。
そんな事だらけです。
ふと気づけば自己肯定する事も出来なくなって、
ふと気づけば自分が自分を傷つけていた。

それもそんな世の中が育てて行ったのかも知れません。
自分が神様だなんて信じられなくなっているのがその証拠。
自分を冒涜、自分を尊敬できない、自分を信じることが出来ない、
それで上手くいくはずがない。

何が出来るとか、何で成功できるとか、仕事をしているとかしていないとか、お金を持っているとか、恋人がいるとか結婚しているとか、
楽しい事をしているとか、人に感謝しているとか、
病気だとか辛いとか不自由だとか、
幸せだと言って、何もない平凡が幸せだと言って、それも自分への反骨心からではないか、

そんな事を考えたり話したりする前に
生きているだけでも素晴らしい凄い奇跡だと思わないか、
自分が神様の一部分だという事を先ず肯定しないか

自己否定している場合じゃない、
世の中の常識に振り回されている場合じゃない、

自分の事が大切なら、
神様仏様が大切なら、
自分を好きになる、自分を敬愛する、自分を神様だと信じる。

人生の中では自己肯定感を上げていく努力する。
例え何もしなくても神様は喜んでくれる。
神社仏閣へ行くよりも神様の真似をする。
神社仏閣へ行ってお祈りをするなら自身へ向かって神だと唱える。
家の仏壇や神棚でも自分が神様だと宣言し、先祖も神だと伝え下界の自分たちを観るのではなく共に上へあがってくださいと伝え、
先祖が残した呪縛から離れると誓う事です。


そして、今まで自分の中に在る「呪いの言葉」「呪いの考え」を捨てる、手離す。
それが溜まり詰まって病気や痛みの元だったりする、
呪いの言葉や思考の見極め必要ですが、
自分が神様だと信じていくと、神様は光なので、いずれ呪いも逃げ去るでしょう (^.^)


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光の存在だと知る。

2023-07-16 | 真理
  どんな光の存在でいるか、どんな光としての表現をしていくか、昨日の記事の終わりはそんな話 (^.^)

自分の中の影の部分も知り、光のバランスを取っていき、
人間関係の中で相手に光を照らし、影の部分も共有して光に変えていく。

自分の肉体も光で埋めていく、
放射能に頼らなくても自分の意識で光照射、
塊も詰まりも自らの意識の光照射で細かく散らしていく。
意識の低い心も感情も光として上昇していく

そんな光が上昇するかしないかの臨界点に存在している自分達。
影響がある事が多く起こっているけど、
崩壊しても分裂しても、分離しても解散しても
それは一つ一つが光り輝くため、
そしてまた分離分散させるために次の塊へ行く事だってする。

独りになって、一つになって寂しいと思っても次へ進む役割もある。
独りでも決して消えないで光り輝いていく。
その光の世界を確立している人もいて、
強く生きてまた大きな世界を照らす役目を果たしている。
光はくっ付き離れ小さくなったり大きくなったりしているからキラキラ輝いているのが分かる。
人間界も光の世界と同じで常にそんな状況が起こっている。
自分の体の中でもそんな事が常に起こっているのです。

光の存在だと信じると全て目の前の世界が変わってくる。
今抱えている出来事や悩みや考えも光の塊。
今抱えている病気や痛みだって光の塊。
自分自身が抱え込んでいるだけ。
人間という肉体に執着しているだけ、思考に執着しているだけ。

たまたま凄い光の表現してくれている存在よって
自身の光を照らしてくれている事があるように、
それは芸術や音楽や文学でもあるけど、

そんな光によって自身が光の輝きを取り戻し、癒され病までも治るように。
本当は自分自身が光だと信じるだけでも輝きのコントロールは出来るはず。

それを満遍なくいつでも平等に教えて気づかせてくれている光は太陽!
その太陽のエネルギーが今一度強くなっている今なんだ。
温暖化なんて一言で済まして良いもんではないかも知れないね。
自分達は光の存在。
自分で光のコントロールできるはず。



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