緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

あとりえ "ぽみえ"

∞美容室です・・・完全予約制でマンツーマンでの完全技術∞ しっかりお話を聞き、丁寧な美容技術を提供させていただきます∞ 10:00~15:00(当日予約・時間外OK)不定休・・・ ★カット★カラー★パーマ★セット★着付けets.   ★スピリチュアルな会話もセッションもオーケーです ★

心の充実感

2024-08-04 | 人生観
  昨日の話で、私の母親が私にだけ感情をぶつけるという話をしていました。

一人で自分の思いを伝えて考えを伝えて、それを考えて喋っているつもりでも私から返ってくる言葉が自分の思い通りじゃ無かったら怒るという。

そして、母は、娘(私)と喧嘩したと兄嫁や長女に話すんです。
喧嘩?喧嘩って何ですか?
喧嘩なんてしてないし、
母親の独り相撲でしょと思ってぐらいの私。
母の思いにすんなり合わせて答えるだけなのに、
母は自分の思い通りにならない会話は喧嘩だという。
喧嘩になんかなってないよと思うのに。
少なくとも私は冷静に答えてるし。
冷静に応えられると怒っているとか思い通りにならない人は余計に腹立つんでしょうね (~_~;)
知り合いにもいます。
勝手に怒ってくる!!
感情って結局は自分に返ってくる。
ブーメランだし、振り子の法則。

喧嘩って何でしょうね。
私も昔は、夫婦でも喧嘩できた方が良かったなと思う事って何度思った事か。
喧嘩する気にもならないし
言い合いにも、討論にもならない、
ある意味平行線か受け入れるしかない。
言い合いとか討論ってフラットに同等に話せて成立するもんだと思うけど、
明らかに受け入れられない人が一方的に感情的になる。

それが感情のぶつかり合いになり理解が進むのなら良いかも知れないけど、
私は一瞬感情的になる事があったとしても、ある意味すんなり冷静になってしまうし、自分で処理しようとしてしまう。
我慢して封印してしまうか、分析が始まる。

そのうち我慢が自分にとっては駄目な事、エゴだと思うようになってからは、本質に向き合い理解をしようとするようになったり、
しっかり正直になろうとしたりしている。
こんな事もエゴでひとり相撲って悩んだこともあったけど。

ある意味、感情をすんなりぶつけることが出来る人が羨ましく思った事もある。
年齢や次元が進むにつれてはその感情も楽しみや喜びや感動をすんなり正直に出す方が良いんじゃないかと思うようになったし、
そっちに進む道を選ぶようになった。
だから余計に身勝手やエゴの感情に対応するのが正直面倒臭くなって来たりもした。

これも自分の人生の変化だなとつくづく思う。
それも自分のアイデンティティを認識する事にもなり、
それで良いんだという事に繋がったなと。

自尊心も無く自己肯定感も低く、自分に自信が無かった私にとっては凄い成長となったなと嬉しくて仕方がない (^.^)

もちろんまだまだ生きているという事は魂のバランスは続くだろうから
奥深くどんな表現が私から出てくるかは分からないけど、
何気に何とも言えない幸せ感と満足感が湧いてくる!!

現実、お金に満たされているという訳でもないし、
人が自分のまわりにたくさん集まっている訳でもないし、
物が充実している訳でもない、
反対に手離しているぐらいだし。

もしかして、人生お金が無いと苦しいよ、仕事が無いと生きていけないよ、パートナーが常に傍で理解してくれないと寂しいよと、
そんな価値観で生きている人にとっては多分笑われるかも知れない。
後できっと後悔するよと言われるかもしれない (^^;)
アリとキリギリスみたいな、そんな感じで何か教えがやって来るよと思われるかもしれない。

明日生きれるお金が有るか無いかも分からないし、一人で生きているし、仕事だって順風満帆と言えるかどうかも分からないけど、
根拠のない幸せ感が心に充満している自分って何だろうって感じ、感覚。

ひとりでに幸せ感で笑ってしまったりする。
明日、息してなくても何だか幸せって、それは何だろうね (^.^)
湧いてくるって何だろうねって (^.^)

若い頃から心配性で不安症で怖がりでビビりだった私だけど、
それを払拭させてくれる人とたくさん出会ったお陰かなと。
心の充実感ってこんな感じなのかなって (^.^)

たまたまそんな話を仕事をしながらシェアしていて
お互いの親の事や、子供の事、孫の事、先祖の事、
これらの事って自分の人生を通して凄く大切な事を伝えてくれているなと。
余計に考えられた今日でした (^.^)



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出会い、居場所、心の状態

2024-06-30 | 人生観
  自分の意志を持つという話を続けてしていますが、
その意志を魂や潜在意識と繋がりながら選択決断して自分の人生として進化させていくと。

その中で自分の意志を進化させていくにしたがって環境も変わって行くし、出会いも変わって行くというのも実感です。

自分の意志がなく、人に求めたり、頼ったり依存したり、人のせいにしているとなかなか自分の意志が表面には出てこないし、
そうなっていると余計に自分を自分の外に求め
評価も外へ求めるので、それが自己承認欲求となって歪んでくるという話でもありました。

そんな時には人間関係もそれを求めたそんな出会い。
自分の意志をしっかり表現できないという。
魂の信念も潜在意識も表面に出てこない。

そんな時の出会いは自分の中で沸々とストレスになったり、
自分を痛めつけることもあると。

かといって、その沸々と湧いている自分の感情をそのままダイレクトに相手にぶつけようとしたところで相手には通じることも無い。
相手を痛めつける意志だってこっち側にあるもんでもない。

そんな時の出会いが私にも合ったと思っていて、
その一つに、ある時にお腹にメスを入れないといけなくなった時の医師との出会い。
一度目の医師との出会いがまさしくそんな時だった。

自分の意志を後回しにして生きていたと思う時、
自分に自信なくて自分の考えを尊重できなくて、
人と比べ自分を見下してたと思う。
自分の中では自分の方が正解と思っている事でも他人から断言されると自信無くすという。
3人目の子供を妊娠して、子育てにも自信を持って行かないと母としても妻としても女性としても堂々と生きていけない瀬戸際ぐらいな!
そんな最低ラインに居たかも (>_<)

そんなところからの脱却だったにも関わらず、最低な医師と出会ったかも!
ある意味事故 (^^;)
それでいろんな意味で相殺となったと後には納得したけど!
自分の痛みにもしっかり答えられなかったし、威圧感や脅されると感じると諦めてしまうという。
あの時にもっとしっかり自分の意志を伝えられていたらと思うと悔しくなったり、諦めたり、悔しいというのも自分に悔しいんだろう、それと自分の中での思いを諦めてしまうという優柔不断さ!
自分の思いとか考えとか感覚を邪気に扱っていた
肉体の外側を傷つけたにもかかわらず肉体の中に痛みの原因を残して蓋してしまったという!!

そこから少しずつ自分の中で自分に向き合っていったと思う。
表面的にはまだまだだったけど、心の奥底ではどんどん変化して行ってたというのも分かってた。
それでもまだ自分より人優先、自分より家族のためという考えが強く自分の人生が本当にそれでいいのかという問いは常にあったと思う。
自分の人生を生きるという大きな課題だったんだろうなと。

そんな時に強制終了か、強制的路線変更が起こった!
その時に出会った医師は3人同時に関わってくれたんだけどそれぞれ個性的な医師で、
私の前世に関わった医師か人もいて、凄く頼りないけど一生懸命な医師もいて、凄く優しく潔い技量の器の医師もいて、
しっかり説明もしてくれて。
まあ一つ忘れた事があって、前の手術の時の残骸を見せてもらえばよかったと!!
大きな心の痛みの残骸を残したままにしていたんで、
自分の中に蓋して残したものを出す出来事だったんだろう。
聞いたって仕方ない済んだ事に気を引かれるなという事かと収めたけど。
その後人生がどんどん変化して行ったので後から納得する事ばかり。

自分の意志で選んでいるなと分かったというか、

自分の意志って、既に分かっててもまだ心や脳裏の奥に潜んでいるか、
今の一瞬に出ようとしている時か、
往生際悪くておどおど出せないでいる時か、
何か表面的出来事によって覚悟させられて出してしまうか。

その方法を自分で選択しているんだけど、
その時にはその相手方、が必要だったんだなと。

今から考えれば自分の次元の低さ、
それも自分を勝手に次元低く見下しているからで
そんな相手方によって見させられてたんだと思う。

ふと考えれば誰だって大谷翔平氏の様に文武両道で精神的にも素晴らしく既に出来上がっている人格者になりたいなと思っていて、
どうしてあんな言葉がスッと出てくるんだろうとか、
どうしてあんな行動や対応が出来るんだろうと思ってしまったり、比べそうになる。

ふと自分が対応しようと思えばそうじゃ無かったり、素晴らしい言葉なんてすんなり出てこない。
それ以前に自分の意志を毅然と発する事も出来ない。
自分の人生はまだまだ次元低いのかなって思ってしまったり
自己嫌悪になりそうな凹んでしまいそうになるけど、

その光が先に見えているだけでも、それを素直に素晴らしいと思えるようになっただけでも上等な人生かなと !(^^)!
それも出会いかなと思える (^.^)
そんな自分を認めるという。

うちの父親が最期に家で亡くなったと話していますが、長患いすることも無くまわりの手を煩わす事なく、たったの二週間ですんなり逝けたと、その時には家のベッドで自分で体勢を整え、胸の上で自ら印を組み息を引き取ったと。
その時に出会った医師は、最初に肺の影を癌かもねと所見した医師で、後に自分は訪問医療をするので最期を看取ってあげるよと言ってくれた医師。
その医師に診てもらいながらも数回もない
救急車呼ばないで自分のところに電話してくださいと言ってくれて。
良い最期だったなと。

私も最後にはそんな医師と出会えるのかな、
いや!出会うと信じてる。
自分の意志を持っていたい、覚悟していたい。
静かに息を引き取りたい (^.^)
魂が納得して肉体をこの世に置き、離れ、源へ帰っていく。
父親の死を孫たちに見せてあげれなかったので、
私が死ぬときの楽な逝き方を見せる。
そんな逝き方はやっぱり生き方。
父親のように自分の意志を持って行きたい。

出会いで分かるかな (*^^)v
それか居場所で分かるかな (^.^)
穏やかな心の状態で分かるかな (*^^*)


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生き様と死に様は自分の意志の現れ (*^^)v

2024-06-28 | 人生観
  昨日の記事では、自分の人生を最後の最後まで自分で選択決断して覚悟して自分でプロデュースするか、ケアマネにプロデュースしてもらって自分の意志のないところを生きて終わるかという話をしていました。

年老いたら仕方がないと思っている今の自分の意識を元気なうちに変えたいと思いますね
どうなるか分からないなら「こうなる!」と今の間に決断していた方が良いかと。

「こうなる!」と信じながら生きるという事、
信じながらという事はそれを道の先の光として、何があってもそのように立て直していく生き様です。

だから……その人の死に様はその人の人生そのもので生き様だと言われる由縁でしょう。
もしか自分のまわりで、家族身内の死と向き合った時にその人の死に様や生き様を観た時、自分はどう生きたいか、どう死にたいかと考えると思います。

良いからとか悪いからとかではなく、自分の意志を考える。
同じようになると思うか、全く反対の生き方を望むか、全く違った事を考えるか。
一生懸命に考えた時は、その目の前の人の生き様も尊重してあげれるようになると思うし、
人生を見せてもらった事に感謝すると思います。
それが供養かなと思うし、弔う事にもなる。

そうやって先祖や親は代々生き方、生き様も見せてくれたんだと思う。
死に様だって教訓として受け継がれていくのかなと。 (^.^)

そうやって自分の意志を持つという事を教えてくれているのかなと !(^^)!
これは肉体間の親子や夫婦とかの会話を超えた魂の会話です。

魂の会話というよりもっと奥深い潜在意識からのテレパシー的対話 (^.^)

先祖や親や家族の死は単なる形や儀式の遂行だけではない。
肉体は火葬する事でお終いですが、魂の意識は残っている、
だから子孫は一生懸命供養するのですよね。
お墓や仏壇を大切にするという事も本質はその魂を継いでいくという事。
肉体が魂であるという事を伝えてくれている。

大切な人が亡くなってから大分永く経っていても
今気が付いたとしても、
その人の生き様死に様から魂の意識を受け取ることはできます。
そして自分の意志として生き方に活かしていくと素晴らしいかと !(^^)!

まあそれに……自分の生き様や死に様だって、子供や孫に影響を与え魂のテレパシーを送ることだってすると思うとしっかり自分で決断して自分の意志で生きないとアカンなと思います。
最期の死に様もカッコよく見せたい !(^^)!


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最後の最後まで自分の意志を持つ

2024-06-27 | 人生観
  昨日は、ドライブ、運転、免許、楽しみ、関連の話で、最後まで自分の意志を持って、手離したり、止めたりして覚悟して人生を生きたいし終わらせたいなという事でした。

父親の話をしていましたが、
その父親もそうしていて、自分の思い通りに生きて、もしかしたらパートナーにとったら我がままだったかも知れないけど、私から見れば自由気ままに見えて、それがまた父親らしくて尊敬するなって感じです。
そして、70歳で亡くなりましたが、家もお金も残し、自由を母親に残し早々逝ったなと (^.^)

その後母親がどう生きるかは母親の人生、それまでも母親の人生だったと思ってるし、父親の人生そのものを尊重してます (^.^)

その最期の一瞬はブログ記事に書いたこともありますが、
苦しむことも無く、家で周りの手を煩わすことも無く、
息を引き取る一瞬も横向きに寝てたのを真上に態勢を整え、
本人自ら胸の上へ印を組み、
自然に息を整え、魂だけが抜けて行きました。

ホント、誰にでも見てもらいたかった、こんな最期があるのだと。
最後の最後まで自分の意志で覚悟があったんだと思います。
そういう死に方もあるんだと私に見せてくれたんだと信じています。

私の友達で、脳内出血後を凄い快復で過ごしている話をブログ内でしますが、
視神経も痛め、手足共に動けなくて、喋れなくて、記憶障害で失語症で認知症
これら全てあったというのに快進撃だと。

今では多少の認知はあるものの、それは性格の問題だと思ってます (^^;)
性格は脳の事故に遭う前と何ら変わっていません。
生き方も変わっていません。
性格が良いとか悪いとかという意味ではありません。
40年来付き合っていて、ずっと人生ほぼ知っています。
理解もしています。
霊界幽界の次元の世界から一緒に勉強していた仲間なので、精神世界も共に歩んできた仲間ですが、10歳以上年上で、やぱっり昭和意識が強く、そこからの脱却が難しい感じです (^^;)

それでも高みを目指しているので常に進化を求めては学ぶ意思は強いのですが、自分の脳や価値観に植え付けられた古い価値観を手離すのは難しいと感じてます。
手離すのは普段からの意識で、訓練は自分自身ですから!
常に私との禅問答のやり取りが漫才のようで (^^;)
もう笑うしかないという (^.^)

そんな禅問答を楽しんでいるのはもしかしたら良いのかも知れないけど、ふと気づいた事がありました。

事故でも一旦脳に障害を受けると、医療的にも家族の考えも介護認定を受ける方向に進んでしまいます。
私の記憶ではこの彼女が手術後、医師は回復が奇跡のようで、介護認定を受ける必要はないと言ってました。(そう聞きました)

でも家族、特にご主人はご飯作りも家の家事も出来ない妻、認知も記憶障害もある妻に早く元通りに戻って欲しいと介護認定を進めて欲しいと懇願しました。

本来こんな時(家族に何かあった時)には家族が向き合うという時なんです。
それをしないままケアマネが入り介護認定を受けることになりました。

一旦そうなると、家族ご主人も子供たちもケアマネに全てを託してしまいます。託すというより頼るのです。

その後に快進撃の快復があってもその都度ケアマネ次第です。
ケアマネも仕事です、こんなに楽な利用者は必須なんです、
サービス業だから!!

何度も私は外野ですが、ご主人とも親しかったので、
ケアマネのプログラムにも口添えしました。

ケアマネはそこの利用所から外す事とか、卒業に向けることはしません。
どんどんプログラムを増やします。
それを子供たちも自分たちの人生に精いっぱいだから意識することも無いです。

快復して来たら孫の世話をしてもらって良いかなってぐらいにしか思っていません。

自分ではもう既にケアマネ自体卒業しても良いぐらいになっているのも気づいているけど、都合が悪いとその脳の障害のせいにしたりします。
そうやって快復して行ってる間にご主人の方が認知性やら過呼吸が出てきて、ケアマネはもっと利用を増やそうとします。

今まで世話になっていた妻が今ではご主人の介護出来るぐらいになっているのにそれでもプログラムは変わりません。

もっとこんな風にしたらいいのになって提案しても、そうだねと言いながら一旦認知になった人の意見なんて通らないんです。

まあ私は部外者なので、それ以上の事は言いませんが。
今の介護業界の姿だなと思うだけです。

他にも友達の義父の事でそんな話を聴いたりします。
介護施設の家族経営だったり保険の使い方だったり、中味は酷い事になっていると。
医師に出会うのも介護施設やケアマネに出会うのも自分の人生の縁かなと思ってはいるけど。

でもその施設が悪いわけでもない、サービス業のお商売ですから。
そこへ入る人、利用者の意識も変わらないといけないんじゃないかなとも思ったりする。

きっかけがあってそれらを利用する事になるんですが、
利用するのも何かの気づきを求めての事でしょう。
他人の愛の施しを受けるとか、優しや労わりでやっと感謝を覚えるとか。

でも、その前に自分の人生に目覚めないと駄目じゃないかと。
自分に目覚め、自分の事を知り、自分の愛にも気づくという。

自分軸とその意志は持っていないと縁も狂う。
年だからというなら意識がある時にしっかり自分の人生を観ていないと。

自分の人生を最後まで自分の意志で決めてコントロールしていくか、
自分の人生をケアマネにプロデュースしてもらうかです。

自己承認欲求の話をしていましたが、
自分を観ず、他人に承認してもらおうとしていると、人に評価してもらおうとする。

自分を知ると自分で選択し自分で決める。

人生の最後の時、それが何年間に至るかは知りませんが、
自分のプロデュースで終わるか、
ケアマネのプロデュースで終わるか、

今なら自分で決めれるんだろうなと。
一旦脳障害、または、病気に至ると、いくらそれが気づきのきっかけでもそこからの復活は結構努力も辛く、厳しいのかなと (^.^)

ふとそんな彼女と漫才しながら笑いながら話しててもちょっと引いてみている私がいたのでした !(^^)!
せめて自分は自分でプロデュースして終わりたい。



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過小評価すぎでは?

2024-05-09 | 人生観
  自己肯定して自尊心も目覚めて他人を尊重できると、きっと自分なりの幸せにも出逢える。
出逢えるというよりもすでに出逢っていて今の自分の瞬間瞬間を幸せだと感じると思う。

自己肯定が低いゆえに自己承認欲求が強くなり、人と比べたり、外へアンテナが向いてしまい、
幸せも求めてしまうのでしょう。
求めなくても既に今幸せに浸っているもんなんでしょう (*^^*)

自分の事を過小評価してしまっていると、
常にもっと高みを求めてしまい、
もっともっと……と、いつまでも満足感が得られない自分となります。

そのうちにどこに、何に、いつに満足感を求めて良いかも見失ってしまうんじゃないでしょうか。

その内に何か人や社会のせいにしたり、
求めるものが知らず知らずに変わって行き、
他へ愛を求める。
優しさも思いやりも幸せも人から与えてもらおうとする。
痛みや病気もそれの行きつくところだったりする。
医師や看護師や介護士や、または何か他のサークルに求めて行ったりと。

自分の評価を他人や身近な人に投影し、余計に満足が得られなくなったりする。

自己満足に終わる……というと、何か身勝手な印象でイメージが悪いかも知れないけど、
それは行き過ぎが駄目なだけで、
先ずは自分で自分を満足させてあげる意識を持つことが大切かなと思うのです !(^^)!

主婦なんか特にやって当たり前となり、妻は夫に尽くして当たり前となり、母は子供を育てて当たり前となる。
こんな昭和な時代を生きた女性、
どれだけ褒めてあげたいか!!
どれだけ自己満足で大声で自分を褒めてやりたいか!!
きっとそうやって大声で褒めてあげてみたらきっと大泣きして涙が溢れてくるはず!!

自分の声が自分に一番先に届き、体中に響き、しびれて倒れるかもしれませんよ (*^^*)

人生最後に向きあっている人は段々声を出すエネルギーも無くなって行きますが、そうなる前に自分の評価を自分で讃えてあげる。

ほんと女性は過小評価過ぎる!!
凄い事やってのけてる!!
女性として働いている人も、妻している人も、母している人も、
それを一度に演じている人も!!
仕事、家事、育児、介護、看護、スケジュール管理、人材育成、ボランティア
そんな事を全てやってるんです!!
そりゃ多少病気にもなるでしょう、痛みも出るでしょう、
だって自分で自分を評価していないんだから!!
人を否定や評価するんだったら自分にしてよ!!と自分が言ってるんじゃないかな !(^^)!

私自身もこれら全て同時に40年はやってる (^^;)
褒めてやらなどうする!!
誰かに表彰状をもらおうと思ってやってる事なんて何一つない。
十分に凄い!! (*^^*)


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