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緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

あとりえ "ぽみえ"

∞美容室です・・・完全予約制でマンツーマンでの完全技術∞ しっかりお話を聞き、丁寧な美容技術を提供させていただきます∞ 10:00~15:00(当日予約・時間外OK)不定休・・・ ★カット★カラー★パーマ★セット★着付けets.   ★スピリチュアルな会話もセッションもオーケーです ★

光の存在

2023-07-15 | 真理
  昨日までも人間は光の存在だという事に関連した話をしていました。
自分の中にも光と影の部分があって、それをお互いに照らし出しているという事も。

本来宇宙に地球が存在しているんですが、
その地球も太陽や月の輝きによって存在が現れだしています。
真っ暗な中に居ても存在に気づかない。

自分はここにいるよ主張しないと気づいてもらえないかも知れない。
だから必死になるのか一生懸命になるのか……。

その光の存在に意識が宿り型どり人間となっている不思議な存在。
その人間意識が当たり前になり、普通に存在していると勘違いして長年古代から意識を重く型どりの中に淀み溜め込んできた。

人類の初めにはどれだけの感情があったか、
言葉も語彙も無い時代もあったというのに、どれだけの感情を作り表してきたか。
光に変えて散ることも無く、影に隠して影の塊にしてきた。
最初はもっと平和だっただろうなぁ~。
違う意味で厳しい世界だったかも知れないけど。

今の時代、その積み重ねが地球の波動をも下げてきたと言われています。
今自分が光の存在だと気づく時になって来た。

その臨界点だと言われています。

意識もそうで、肉体も
そんな事も忘れ感情のぶつかり合いが無くなるどころか増えてきているし、
肉体に関しても病気も増え原因不明だと医学も見放さなければならい事も、
痛みや愚痴や文句もそうです。小さな影や闇。

大きな部分も観ない、小さな部分にも気づかない。
そんな今、光の存在に気づかそうとする出来事が多く起こっている。

いろいろ強い光によってあぶりだされている事も、
今までの闇や影の部分にスポットライトが当たってる、
それは悪い事へではなく、
悪い事だと決めつけて影へ追いやられ固まっている。
それが塊になっているからです。
癌に放射能照射するようにです。

天照大神がずっと岩に隠れていた時、世の中は影の暗い世界でした。
一生懸命どうにか天照大神に出てきてもらおうと神々が頑張った。

そんな時でもある現代。
分離や分裂、破壊、別れ、別離、解散……。
そうやって光に分散して行ってる。
その臨界点でもある。

そんな流れに乗ってしまってグチグチ言ってる場合ではないんだ。
あぶり出されてもメゲズ、あぶりだされた周りの波動にもメゲズ。
光の存在である自分でいる事。

その臨界点はある人によれば今年の終わりごろまでと言ってたけど、
それもそんな言葉に惑わされる事なく
惑わされる自分の意識を上昇させていく。

どんな光の存在でいるか、
どんな光の表現をしていくか、
光り続ける。



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聖者たちに望みはあったか?またそれは何か。

2023-07-09 | 真理
  真理という事について話していて、
その真理には言葉も言語もないという事も話しています。
イエスキリストや釈迦や空海や親鸞……などの聖者も
自分の歩んだ人生で覚醒し真理を伝えようとし、証明しようとし、伝導伝達しているんだと、そんな話しです。
それが経典や曼荼羅として後世に伝えられているのですが、それは記号や言語や図柄や言い伝えで引き継がれて行ってるのですが、
いくらその弟子だからと言っても、高僧で偉い人や教祖だと言っても、我やエゴを挟むと歪むのです。
山にこもり死と向き合い無となって修行したとしてもそこにエゴが残っていないといえるのか。
ただその人達に依存するしかすべのない一般人が付いていってるだけでは無いのか、
そのうちに高僧であっても教祖であってもエゴのない生き方をしているかしていないかは客観的に観たら分かるはず。
人を観ていると間違うし、歪むので、自分で体験しなさいと聖者たちは証明していたんだと思います。

聖者は生まれ変わりで証明したり、生きながらでも死をもって証明したりしてきた。
本来は意識の伝達です。
意思や意志とは違う意識です。
その意識は高次で、言葉のない感覚です。
先ずは自分自身の感覚を磨き研ぎ澄ましてその聖者たちの生き方を肌感覚や五感で受け取らないと。
そうでないとどんどん本質から離れ、崇める事や依存する事で教育されていくうちに別世界へと奉られてしまった聖者……となってしまう。
それは聖者たちの真意ではないと伝わってきます。

人が死んでいき仏になり成仏しなさいと教えられると、成仏する事だけが目的となったりしている、
そして偉業をなした人が偉人となり神格化するとまた別世界の人だと崇められる。
聖者や偉人たちだって、本当は生きている時が一生懸命なだけで、みんな同じ魂だという事を伝えたかっただろうに。

魂が全て別々で、別の者だという考えに変わって行った。
その区別がそもそもの分かれ道となってしまった。
崇め奉る事の概念が別の世界へ送るという事ではなかったはずなのに。

背中を見てついておいでよと言ってくれていただろうに。
ついて来れるように明かりを灯してくれているんだろうに。

こっち側が光を灯し拝み崇める方に変わって行ってる。
光を見つけついていき、経験から学ばないといけないんだろうに。

ある意味この世で本末転倒という言葉があるけど、
天では聖者がこっちに向かって自分たちの偉業が本末転倒となっているとビックリしているかも知れない。

言葉のない天や宇宙ではその本末転倒をどう伝えたがっているのか……。
それは現代の宗教の崩壊が物語っています。
宗教やその象徴が人間になってしまっているからでもあるし、
個人が個人を内観できなくなっているからでもある。

自身(個人)がどんな背中を見て、どんな生き方を見ているのでしょう。
どんな生き方の中にいるか、自分が観ている世界がどんなものか認識しているのか。
自分はそこに居たいのか、その世界が好きなのか知っているのか。
崇め奉りたいぐらい尊敬できる人なのか、
古代の宗教みたいに生贄で我がを、また、我が子を捧げられるぐらいの覚悟があるのか。
それぐらいその象徴や崇拝する教祖と一体化できるのか。
教祖の中には肉体が交わる事で一体化すると申す者もいるけど、その一体化で目覚めた自分はいるのか。

一旦やっぱり自分自身と向き合う方が覚醒への近道だと。
自身の思考をどこまで整理して無思考、無意識まで持って行けるか……。
ぐらいしないと覚醒もないし、どこかに依存するばかりとなってしまうんでしょうね。
聖人たちは依存させて生きていく事を望んで伝導してた訳でも伝達して欲しいと望んだわけじゃないんでしょう。
聖者と教祖の違いは明らかですよね。
なのに、聖者の思いはちゃんと伝わっているか……。
聖者は宗教世界にある戒律すらも求めていなかったと思うけど……。



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真理は言葉ではない。

2023-07-07 | 真理
  真理というのは本来単純で簡単なもの。
宇宙にも神様の世界にも愛や光の次元にも言葉は存在しないからです。
言葉があるから有難いけど、言葉があるからややこしくなる。

人間関係がそれです。
真理の解釈もだけど、伝導も伝達も自分がクリアでピュアでなければ途中で屈折し歪む。
受け取り方も違えば捉え方も違うとそうなる。

私なんかもひがんだりひねくれたりしていたから分かる。
何でもそうやって受け入れていたように思う。
そもそも自分を肯定しないでひねくれて自分を受け入れてたからでしょう。
自分を尊重するかしないかでそのひねくれも変わって行く。

今なら率直に伝えよう、率直に受け取ろうと考えるけど、
じゃあそれで伝達がうまく行くか、
率直に伝えてもそれが相手に率直に受け取ってもらえなかったら、
そこは率直に言葉が交わることは無い。

言葉が率直に交わる事が無くて、思いが交わるだろうか。
言葉を交わしながらいつか思いも交わるだろうとなるのか。

言葉によって誤解が誤解を生んでしまう。
武器の戦争が無くっても言葉の戦争が起きて、
心の戦争まで起きてしまう。

人を許そう、罪を許そうとなっても自分自身が自身を許さない限り終わることも無い世界。

もう嫌だ!!
神様も言葉のない世界で宇宙で天上でどんなに苦しんでいるか、
神様の世界では苦しみというものもない。
神様は全て許す。
それなのになぜ人類に伝わっていないのでしょうか。
神様の世界に言葉が有ったら神様の言葉って伝わるのか、
神様は何て言って人類を導いてくれているんでしょうか。

昨日に話してた、真理は簡単ですという事。
その真理に導かれながら探しながら聖者も自我に目覚める事によって覚醒し悟っている。
キリストや釈迦、空海も親鸞もその体験を残している。
その体験を曼荼羅で残してくれているんだけど、
そんな曼荼羅でも言葉であるようで言葉でない。

人類は結局のところ体験で悟って行くしかないんだ!!

この下界で言葉のやり取りで人間関係を絡めていると思うとちょっとうんざりしている私。
言った言わない、言われた言ってないとかもそうです。
もう既に絡んでもつれている結び目がどれだけできているか、
その点がどれだけ食い違っているか
言葉があっても思いがあっても食い違う結び目。
ここに隠された自分の心理を知る事からしか解けない絡んだ糸なんですね (^^;)

私でも言葉を投げかけられた時には頭がフリーズする時もあって、
それってどういう事かなって思っているうちに流れてしまい、心にぽっかりその言葉が浮いて残っている場合がある。
それが傷つく言葉でもです。


反対にこっちが投げかけている時もあるでしょう。
時にそれがカーブで投げている時だってあるかもしれない。
自分でそれがカーブだと分かっていたらその理由も見える。
相手の姿勢が分かるからでもあるし、
率直に届けたいと思う場合もある。
だからこそ自分の言葉にも責任持とうと思うのでしょう。
カーブが勿論ブーメランのように返ってくるのが分かるし。

自分の人生では、素直に正直に率直に行きたいもんです。
自分にも人にも。
それでもあまりにも伝わらない時には
その時の自分の心に正直になろうと思う !(^^)!
先ずは自分自身です。


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真理は簡単。

2023-07-06 | 真理
  真理というのは本来単純で簡単なもの。
宇宙にも神様の世界にも愛や光の次元にも言葉は存在しないからです。
言葉があるから有難いけど、言葉があるからややこしくなる。
真理が人類の生きる教本だと考えていない人には関係ない話かもしれませんね。
その人にとれば生きる事でぶつかる壁に直面した時に真理を得るものだと考えているのでしょう。

どちらも同じです。
直面するまでが人生でも大変であるからです !(^^)!

イエスキリストもお釈迦様もブッダも経典を書いた人ではない。
その聖人たちが歩いた人生を弟子たちや傍で学んだ人が言葉に記したものです。
その聖人たちは人生を歩いていく事で証明していっただけです。
本来私たちもそうだと思うのです。

真理は簡単でもそれを伝言伝道して行ってもどこかで屈折するのです。
その証拠に宗教は段々枝分かれして行ってます。
我が一番、我が先に、我の支配のもとに……などどいった「我」が出てくるからです。
人間の数だけその「我」が出てきて当たり前でもある。
答えに正解があるわけでもない、不正解というわけでもない。
答えはそれぞれに与えられるものだからです。
人生はそれぞれ別物だからです。
だからイエス・キリストや釈迦や仏陀が伝えたことも真理ではあるけど角度が違う視点からの真理です。
それぞれに伝えたい真理は違ったのです。
追及していくと行きつくところは同じなんですが、
途中解釈は屈折していきます、それと同じ。
魂の学びもそれぞれだからです。

真理は本来単純で簡単なものだけど、
それを歩んでいくものです。
その、歩んで確認して証明していく事が本来大変なんだと。
でもその大変なのが人生で、越えていく壁なのかなと考えます !(^^)!

私が宇宙から受け取った真理は「全てオーケー」「全ては一つの中に、一つは全ての中に在る」なんですが。

それを証明しながら歩いていくのが人生だと思っている訳ですが、
それをケセラセラに生きる人もいれば、真剣に向き合い過ぎる人もいれば、確信に触れながら超えていく人などもいるという事で、

紆余曲折、右往左往、順風満帆、遠回り、近道……いろいろそれぞれなんですよ (^.^)
その都度気づきに気づけるか、意識の向きや導きを常に変えて行けるか。

日々の暮らしの中に哲学を見つけていく。
それが真理。
それが積み重なり、自信となる。
それが人生哲学の構築です。
その哲学にも視点で変わる部門があるだけですが、
物質分野、社会生活分野、肉体分野、細胞分野、波動や化学分野、生物分野、精神分野……などなど。
それが後に繋がっていくと哲学も世界観となり広がっていく。


その時のヒントが聖人たちの歩んだ道に隠されているのだと。
それが曼荼羅(マンダラ)やお経に記されている。
自分の壁によってはどの部分がヒントになるかというとすぐには見つけられないかも知れないけれど、
意識のアンテナを張っていれば必ず自身が受信します。 !(^^)!
神様も宇宙とも繋がっている私たち、
ピンポイントでこっちから壁部分のヒントへ繋がないと宇宙は広すぎて、神様も広く大きすぎて (^.^)


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親離れと子離れは「育てる」を訓える

2023-05-14 | 真理
 親離れ子離れは自身の自律にとって大切だという話をしていました。
私は魂の本来の目的だと思っています。
この親離れ子離れは私にとっても多くの学びや気付きを与えてくれたように思います。

執着離れや依存離れも生まれてきた目的であって、
自由と自律でもあるなと思うのです。
この親離れ子離れによってトレーニングされた「価値観の自立」は自分を俯瞰する事のトレーニングにもなって行きました。
じっくり自分の事を考える事にもなった、
「価値観の自立」は世の中をフラットに観る事にも繋がりました。
それは自分を尊重するという事、
子供を尊重する事、親を尊重する事にも繋がっていきました。
もちろんもれなくそれには先祖の事も考えるという事もついてきます。
先祖の事を尊重するのも供養だと思いました。

その親・子・先祖・孫……の事はそれぞれの事だけではなく繋がりや絆、遺伝子の事まで考えが至ります。

これらは他人さんとの人間関係にも大いに役立ちました。
自身を俯瞰する事と客観視する事は人間関係克服には必須ですもんね。
この人間関係をクリアしていくにも親離れ子離れは必須だと (^.^)

多分普通に結婚したりさせたり独立したりさせたりするともう既に親からも子供とも離れてるよと当然に思う人は多いと思いますが。
それはカタチの上であって、心や魂は独立できていない場合が多いのです。
そして、自分は出来ているよという人であっても案外できていないのです。
人間関係になんて悩んでいないよという人でもです。
出来ている人はしっかり繋がりを感じ、自他尊重が出来ていると思います。

それに……この世でその独立心が育ち、俯瞰できるようになった後には「育てる」というミッションがあると思っています。
「人を育てる」「人間を育てる」ことです。

親離れ子離れで「育てる」という意味を訓えてもらうように思います。
この「育てる」というのは何も子供を育てるという意味だけではなく、
「育つ」という事でもあるし、
社会でも人を育てるとか社会で育つという事をしながら「心」の問題に繋がり通じていく。
他人でも育てるとか育つという事を通して社会の中に繋がりが出来ていくからです。
そんな観方のトレーニングにもなる。

客観視して見守るって事も独立心と繋がりには大切な事です。
ついついまだまだやと思う事も出てくるけど、その都度クリアしていくカギとして使っていくだけです !(^^)!

母の日に生まれてきたことに感謝して産んでもらった事に感謝してそんな事を考えてみてはどうでしょう (^.^)


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